2009年7月22日 (水)

NZ1 ホテル宴会&レストランメニュー 1 宴会管理

   成田プリンスホテルは東京航空食品㈱よりホテル施設を借用していたが、契約期間が終了し、施設は東京航空食品㈱に返還され、宴会施設を約三十億円かけて建設、成田ウインズホテルという名称で平成元年十一月十五日より営業することとなった。成田エアポートレストハウスのフロント会計ソフトを開発、納入していたため、ホテル宴会管理プログラム開発を私に依頼された。
   レストハウスにはキャノンの機械が使用されたが、今回から日本IBMの5550機種を三台設置し、同一データをこれらの三台の機械が共同で使用するロカル・エリア・ネットワーク・システムとなった。機械及びソフトウエアの請求金額は一千一百万三十万円であった。プログラムはきわめて面倒であったが十一月十五日に間に合うように納品した。

NZ2 ホテル宴会&レストランメニュー 2 宴会管理をホテル学科授業に組入

昭和六十三年四月より国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習授業を行っているが、授業内容は主にホテルのフロント会計業務であった。ホテル学科の卒業生が次第にホテルでのフロント部門よりはレストラン・宴会部門に入社直後、配置が行われている傾向があったため早速、宴会管理システムを専門学校の授業用に再開発し、これを授業に組み入れたいと考えた。
   
宴会場名、使用メニューの名称や価格を改定して汎用性をもたせ、宴会の手配書、見積書および請求書に必要な項目は日本語と英語とを対応していたためこのプログラムから観光、ホテル、航空輸送学科での業界用語編集システムを開発した。
 
  平成元年十月よりこの宴会管理と業界用語編集システムを試験的に実習に追加し、学生の興味があるかどうかをチェックした。予定していた教科を若干統合し、業界用語編集システムと宴会管理とを追加した。期末試験においては宴会管理も出題した。同じ授業時間で多くの業務を体験させるために、授業の速度を早めるための教材の開発を行った。
    
平成二年三月に学校側に業界用語と宴会管理システムの採用を申請、学校との話合で消費税を入れた二百六万円が決済された。プログラムを開発しているものが学校で授業を担当しており、実際にホテルに納入して有効なソフトであるかどうかを把握できるため早速授業に採用して学生の反応をチェックした。
  宴会管理で学校の授業用にシステムを作るには数多くの見本を作っていなければ宴会顧客管理での検索ができない。このため入力を専門とするアルバイトが必要でこれにはコンピユータの操作方法や、試験データを作成できる訓練が必要である。私はホテル学科二年でコンピユータ実習に意欲がある女子学生二名に声をかけた。出勤する時間は学校の授業がないとき自由である。学生には時間給千円のアルバイト料金を支払った。ホテルの宿泊者名、婚礼の相手方などは学生が知る俳優やタレント名のほうが、実習においては学生に共鳴される。このため学生に入力させたほうが効果的であった。
  授業に使用する宴会管理プログラムの代金は学校から会社へ支払われるが、その資金は学生が支払った授業料の一部であり、アルバイト料金として学生に還元する考をした。私が開発したホテルフロント会計、メニュー材料展開、宴会管理、ホテル建設事業計画などでアルバイトに機械を操作させ、教科書作成に必要な事例を作成させた。

2009年7月23日 (木)

NZ3 ホテル宴会&レストランメニュー 3 OA実習内容

  昭和六十二年二月にホテルコンピユータソフト開発および販売を目的としてソアレックス株式会社を設立しており、会社の社員は私一名でプログラムを開発しており、国際観光専門学校東京校の国際ホテル学科のコンピユータ実習ソフト開発を担当した。ソフトウエアの開発者が、授業を担当することは、実習授業が円滑的に行われるため、ソフト開発担当の私が実習講師となった。会社は私が代表者であるため、実習に必要なソフトウエアを自由に投入することが可能であった。
  当初、学校からの開発を要請されたのは「ホテルフロントシステム」であったが、同じ授業時間内での授業内容を検討し、追加ソフトの採用を提案した。この結果①ホテル宴会管理、②レストランメニュー材料展開、③業界用語編集システムなどが授業に採用された。これにより講師契約は、毎年更新され九年間、継続された。
ソフトの概要は次の通りである。

[フロント・システム]

 チェックインからチェックアウトまでの宿泊に伴う会計処理を行う。会計書の発行、売上・現金売掛照合表、伝票入力明細、消費税、特消税算出根拠、宿泊統計、会計書管理表、伝票入力訂正明細、宿掛残高表、客室売上日報、客層・旅行業者別売上日報及び月報など夜間バッチ処理が完備。室料は会社へ請求、食事その他は宿泊者の現金払等の支払方法条件による分割会計書の発行ができる。部門売上現金売掛集計、予約管理が組込まれている。
[ホテル宴会管理]
 見積書、精算書の作成を行う。毎日の手仕舞としては、バッジ処理により、宴会別売上/現金売掛集計、利用形態別、予約経路別、売上科目別日計、及び月間累計を印刷する。宴会データは、ハードディスクに利用年月日順に格納され、有効な販売管理ができる。ウエディングプラン、忘・新年会プラン等の各種のパック料金の登録ができる。
[レストラン・メニュー材料展開]
  ホテルの宴会・レストラントを対象にメニューレシピー作成、食品材料構成とポーシヨン別の材料原価計算を行う。メニュー売上数量(予想、見積)から理論的なレシピー上の消費数量、仕入ベースによる数量と金額を把握する。仕入とレシピー上の単位が異なるため、両者の換算率を設定することによりスピーディな原価計算を行うことができる。
  以上

NZ4 ホテル宴会&レストランメニュー 4 教科書印刷

専門学校の講師には二つのタイプがある。その一つは、市販の教科書で授業するタイプと自分で教科書を作るタイプがある。非常勤講師というのは契約が一年間であるので、翌年も契約が更新されるという前提がないと教科書作成は、採算がとれない。六十三年四月より国際ホテル学科のコンピユータ実習講師を行った。教科書代りに資料をファイルするバインダーを学生に購入させ、実習教材をこのバインダーファイルするようにし、コンピユータ室の棚に保管させていた。これを四年間継続していたが、保管棚が廃止となったため、授業の方法を変えることとなった。
 
五年四月よりホテル学科のコンピユータ実習に必要な教科書を作成することにした。教科書の原稿は私がワープロで作成、印刷および製本は印刷会社へ学校事務局経由で発注した。頁数は二百頁で部数は二百冊で印刷費用は二十九万五千円であった。二年間で配布する教科書数は百三十冊で単価を二千二百五十で発売、二十九万三千円が回収された。学校に三十冊、会社に四十冊が予備在庫となった。この予備在庫の四冊程度をホテル側へ提供したが、開発したソフトの権威づけには、きわめて効果的であった。
教科書の内容は次の通りである。
*観光業界用語実習支援、*フロント会計、
*部門売上現金売掛集計、
*客室予約管理、
*レストランメニュー
材料展開、   *宴会管理、
*ホテルリネン管理、  * ホテル経営計画支援
  一つの学科を丁寧に教え、全員に理解させる方法は理解力がある学生には退屈な授業である。このため最低限の授業を確保しながら、意欲がある学生に対しては、学生の興味に従って個別に指導ができるように教科書においては、その仕事の説明とコンピユータ処理を行ったときのアウトプットを掲載した。
  
六十三年四月よりホテル学科のコンピユータ実習授業を行っていたが、当初はフロント会計、部門売上現金売掛集計および客室予約管理であった。その後、学校に提案して観光業界用語実習支援と宴会管理ソフトを授業に取り込むことにした。年間約三十週、一回、九十分授業において多くの教材を投入し、授業のスピードアップを図ることが必要であるという学校の方針に沿ったカルキュラムの編成を行った。
 
大学、専門学校へ入学する十八才未満の学生数が年々減少しており、学生の質が次第に低下してきた。学生が興味を持つ授業でないと講師は非常に苦痛な授業を余儀なくされるわけで、パソコンによる興味ある教材の開発を心掛けた。 

NZ5 ホテル宴会&レストランメニュー 5 兼務「AIRCARGO]講師

   国際ホテル学科のコンピユ-タ実習を六十三年四月より担当し、平成八年三月で非常勤講師を満八年委嘱された。八年二月中旬、教務部長より航空輸送学科の通関士の国家試験において貿易関係のFOBやCIF価格の計算問題が出題され、試験に失敗した学生が多かったということを知らされた。
  航空貨物業務についての経験ではコンピユータによる航空と海上との貨物輸送コスト計算を行い、また総合商社のFOBやCIF価格計算の経験があるため、これらの価格計算を授業に組み入れたコンピユータ実習は可能と判断した。七年三月に航空輸送学科で航空運送状発行をコンピユータで行う授業を担当されていた講師が退職され、七年度の授業は廃止されていたが、これを復活したいという要望もあった。学校より授業内容の文書による報告を求められ、貨物関係の私の研究で業界紙などで活字となった資料(約二百四十頁)を提出した。このなかには講師としての航空貨物業務の経験もレポートした。
 航空輸送学科のエアカーゴ・コンピユータという授業は新たなチャレンジであった。この授業は航空貨物についてのコンピユータの講義である。パソコン五十台を設置している教室での授業であるため、機械を操作せずに講義だけを行うことは困難であった。
 学校に提出した資料は二十年前の私が作成した航空貨物のコンピユータ処理例でありこの中で学生がFOB、CIF計算が理解できるものを選んでプログラムを作成、これを、コンピユータ実習授業に使用した。
  国際ホテル学科の講師料は年間七十万円であった。航空輸送学科のコンピユータ授業を担当することにより、講師料は年間百四十万円となる。専門学校の講師料は授業時間に対して支払われるが、授業用に開発するプログラムには約七百時間の労働投下が必要であるが、学校としては機械の使用は前提条件ではないので、プログラム開発は無償であった。しかし私は授業およびソフト開発に約千時間を投入した。これは時給七百円に相当、だだ、来年も授業が継続できれば、これも無駄ではないと判断した。
  航空貨物業務は五十年(一九七五年)に終了したが研究資料は大切に保存していた。三十年前の資料を再び持出して授業を行うことは大変、勇気が要ることである。一般の授業で三十年前の資料はきわめて古いと思われるが、その内容はマイクロ・コンピユータで開発したものを、授業においては最新式のパソコンでこれを復元するわけである。
 私は現在の航空貨物業務がどのように変化していることはあまり知らないが、基本的なものは変化していない。航空輸送学科で使用されている教科書と市販の貿易関係のFOB、CIF計算例をみて、海上航空関係の運賃などをチェックし、航空貨物輸送でのパソコンの使用方法を紹介することにした。

PZ1 コンピユータとユーザー 1 日本IBM機種と富士通電子交換機

昭和42年4月に㈱阪急交通社に富士通小型コンピユータFACOM 230-10が導入された。富士通ユーザーの論文集1集には「航空と海上輸送を決定する要因と比重について」、論文集2集には「航空と海上輸送との総流通経費分析」が掲載され、これがSOHO業者として独立する上で、大変役にたった。
   
平成元年4月からキャノンのパーソナルコンピユータでホテルの電話課金の計算で電子交換機の接続の問題が発生し、ホテル側に富士通電子交換機FETEX-2700機種を提案した。ここで富士通交換機の接続方法を学んだ。
 
平成二年四月、日本IBM㈱本社の地域プロジェクト開発部次長(北海道担当)の田中宏武氏より連絡をうけ、札幌市国際部が設立する札幌天神山国際ハウスのフロント会計ステムの開発を行うこととなった。このでも電子交換機との接続問題が発生した。客室規模としては十三室であるが海外から学者、技術者が札幌を訪問したときの長期滞在に向く家族単位の宿泊施設で天神山という丘の上に設置され、日本庭園や教育設備があり、他のホテルと異なるのは

札幌市の条例によりホテルの消費税が免除され、売上はすべて札幌市の公金として計上することになっていた。二年四月二十三日より一泊二日の予定で空路、札幌に出張した。札幌市役所内会議室で国際部企画課職員、国際ハウス職員、IBMの田中次長、IBMの特約店㈱ホシ・伊藤の社員が出席した。この会議で一応、システム開発の方法が決定し、見積書をIBMの特約店に提出するが、会議出席者のホテルシステムに対する理解度により出張回数が決定するがこの会議に出席していないのは肝心の電話機器の納入業者であった。このプロジェクトをIBMと富士通とが入札でIBM機種が納入された場合、コンピユータと電子交換機との接続の話合ではIBMと富士通との話合は無理と考えた。この接続では富士通機種が経験的に最適と感じていた。今後の出張には富士通の電話機納入業者との折衝が重要となった。最初からシステムの完成まで何回、出張が必要か?羽田・札幌間の往復航空運賃は四万三千円、自宅から羽田までの往復交通費、千歳空港から札幌天神山までの往復交通費、旅行傷害保険料、夏場のオンシーズンにおけるホテル代などの不確定要素を考慮してプログラム開発料金の見積を七回程度の出張で百九十六万円とした。この予想が外れると、大変な赤字となるため、難しい出張計画であった。

2009年7月24日 (金)

PZ2 コンピユータとユーザー 2 電子交換機接続経験の展開

 平成三年に日航関連会社㈱インターナシヨナルフーヅの専務取締役本間昭治氏より、アリマックスホテル渋谷の設立準備室長となった関氏を紹介されたことがあった。ホテルのコンピユータシステムは、建設会社に依頼しているケースが多い。
 
二十室程度のホテルでレストランやバーにPOSシステムを導入すると、コンピュータシステムが割高となる。小規模ホテルではこれらのシステムの使用頻度が少ない、そして従業員の移動が激しい職場でのコンピユータ教育はあまり歓迎されない。ホテル側は経済性を考えてのコンピユータの導入を検討され、四年八月よりアリマックスホテル渋谷のコンピユータシステムの開発を私が担当するようになった。ホテルは渋谷のNHKの近所に設立される二十三室のホテルであったが、システムの開発のコンサルチングとソフト開発の契約を行った。開発の対象はフロント会計、顧客管理およびホテル部門別会計経理システムであった。

  五年十月にホテルはオープンした。新規にオープンする二、三十室のホテルではフロント会計での経験者は殆どいない。システムのマニュアルには国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習で私が開発した教科書を使用した。 

システムは順調に作動したので保守のためホテルから呼び出されることは非常に稀であった。ホテルへは自宅からバスで十五分、歩いて四十分の距離にあり、沖縄、札幌と比較してきわめて近距離にあるホテルであった。
 ホテルのフロント会計ソフトは、BASIC言語で開発しているため、ホテルの宿泊ルームよりの電話料金の計算では、接続する電子交換機との信号のやりとりが、BASIC言語に対応していることが前提となる。最初に成田ではキャノン機種と富士通 FETEX2700機種、この接続が成功したため、札幌では日本IBM機種と富士通FETEX2700機種、また渋谷では日本IBM機種とFETEX2700機種との接続であった。また電子交換機の納入業者は成田と渋谷では同じ特約店を推薦した。
 

PZ3 コンピユータとユーザー 3 日本IBMと東芝パソコン機種互換性

    昭和50年7月よりキャノン販売㈱のパソコン販売店となり、63年4月まで約13年間、キャノンのパーソナルコンピユータの販売と、ソフト開発・販売業務に従事した。
    62年2月にホテル・レストランをマーケットにした会社を設立した。当時は各パソコンメイカー同志での規格統一の機運でなかったため、キャノン機種以外に日本IBM機種にも移植作業を行うことにした。
   63年4月より、国際観光専門学校東京校に東芝デスクトップコンピユータPASOPIA1700機種が、コンピユータ実習用として20台設置されることになり、日本IBM機種で開発していたフロント会計システムが、東芝機種で操作が出来ることが判明した。パソコン機種間の互換性では、「キャノン」と「日本IBM」とでは駄目、「キャノン」と「東芝」とでは駄目であり、日本IBM機種で、キャノンで開発していたホテルフロント会計システムの移行が出来たのは幸いであった。
   国際観光専門学校にホテル関係ソフトウエアを納入し、授業を行うには、私自身が東芝機種を保有していないと、連続的に学校に教材の提案と講師との授業の継続が出来ない。これは東芝機種と互換性がある日本IBMの機種の保有によって、還暦から古希までの約九年間の非常勤講師とソフト開発納入の仕事が保証されたこととなった。
   日本IBMへのソフトの移殖は昭和62年からであるが、各メーカー間で、ハードウエアの規格が統一されていないのは、きわめて不便であった。これから4年後の平成3年に、日本IBMを中心に日本のパソコンメーカーが集まり、日本でのパソコン関連製品の標準化を策定する団体としてOADGという組織が結成された。
OADGはOpen Archircture Development Groupの」略である。NECとアップルとは、この組織には入会しなかった。ソフトウエア業者はこの組織の準会員となった。 プロバイダーとしてはニフテイがこの組織に入会していた。
   学校には63年4月に東芝デスクトップコンピユータPASOPIA 1600が20台、平成5年4月に東芝ノートパソコン DYNA  BOOKが60台、平成8年9月に東芝デスクトップコンピユータでOSはWindows95で30台程度がコンピユータ教室に設置された。私は講師1名で約30名の学生に実習を指導していた。東芝パソコンが私に還暦後のパソコン講師という職業を与えていたようである。

PZ4 コンピユータとユーザー 4 ソニーの倉庫とマイコン部門 

 阪急交通社を依願退職する43年度において、国際航空貨物需要予測委員会が設置された。この委員会は航空輸送経済専門家で構成され、運輸省航空局監督課の推薦で私は委員会委員となった。この委員会委員の中にソニー㈱伊藤課長が居られ、私が阪急退職後、ソニー倉庫㈱航空チームの嘱託に迎えられた。
  ソニーで新しくマイクロ・コンピユータ SOBAXICC-2700機種を発売することとなり、私はソニービジネスマシン㈱の特約店となった。国際航空貨物需要予測委員会のメンバーであった日本通運㈱、日本航空㈱、三井物産㈱等に機械の販売とソフトウエアの開発、販売を行った。
 ソニーのマイクロ・コンピユータの製造打ち切り後は、ソニーSOBAXプログラム作成指定店およびソニーサービス㈱の嘱託となり、アフターサービスの仕事を兼職することとなった。航空貨物の研究というのが、マイクロ・コンピユータの販売に結びついた。

PZ5 コンピユータとユーザー 5 キャノンパソコン販売店主契約

  昭和44年4月に㈱阪急交通社を依願退職する時に、全く考えなかった仕事はパソコンの販売店主という仕事であった。海上で輸送される貨物を航空に切り替えさせるための販売方法としてのシステム開発を当初のビジネスにしたが、電算機研究所の顧問、航空会社の専門職社員、ソニー倉庫㈱の嘱託という複数業務に従事、給料という定期収入を得ていたが、退職して満4年経過した48年3月末で、すべての定期収入は消滅した。またソニーマイクロ・コンピユータの特約店という業務も、48年4月1日、新聞紙上で、マイクロ・コンピユータの製造打ち切りが発表された。
 第一次石油ショックが訪れる一年前で、このころシンクタンクと呼ばれる頭脳産業の倒産が多くなった。私はソニーのマイクロ・コンピユータのプログラムのアフターサービスを考え、これを次期マイクロ・コンピユータの販売に結付けようと考えた。ソニーのマイクロ・コンピユータプログラム作成指定店となったため、キャノン販売㈱のパソコン販売店となることが出来た。自分で顧客を見つけで機械を販売しなければならないが、ソニーマイクロ・コンピユータのアフターサービスを行っているため、このルートからも顧客開拓が可能と考えた。プログラムを開発しながらパソコンを販売している業者は少ないため、キャノン販売㈱や販売店からも注文はあると判断した。
  脱サラの業務としてパソコンの販売とソフト開発で、昭和50年7月より平成2年まで約15年間、キャノンパソコン販売店主として、キャノンより機械の仕入れを行うことができた。これはリストラがない職業に就いたことになる。 

  

QZ1 古希よりのリセット 1 専門学校非常勤講師終了

   平成九年二月、授業の時間割の改定が発表された。従来、月曜日から土曜日までの授業は新学期より土曜日を休日とし、また一日四学校時間授業を三時間に短縮すると発表された。ホテル学科の講師は仕事の都合で土曜日の授業が多かったが、土曜日の授業が廃止されたので、ホテル学科の講師は二名退職した。
  
第二外語を廃止、英語の検定試験も廃止、英語の日本人講師の削減が発表され、観光学科のAXESS担当の講師も退職することとなった。学校側よりこれらの状況を説明され、私にも新年度より講師の契約を行わないことが通知された。学校としては業務用のプログラムを必要としないコンピユータ授業を採用することになり、WINDOWS95の使用方法を重点とした授業となった。この傾向は以前より察知していたが、ソフト開発を重点とした私には講師としての方向転換は困難であった。
      
ホテル学科及び航空輸送学科の卒業生の就職率は良好で、これは他の講師や学校側の活動によるものであったが、高校を卒業して専門学校へ入学する学生数が急激に減少したため学校の経営を圧迫する原因となった。
      
 国際観光専門学校の卒業式は毎年有楽町のマリオンで挙行されており、今回は九年三月十三日に挙行された。卒業式に出席した卒業生の数は数年前の約半分となり、新しく入学する学生数が大幅に減少すると言われていた。
   私はこの卒業式の四日後の三月十七日に古希(七十歳)を迎えることになるが、この学校には観光学科、ホテル学科、航空輸送学科があり、今までの経験が活かされた専門学校であった。還暦から古希まで、専門学校OA授業を担当することとなり、非常に有意義な職場であった。

QZ2 古希よりのリセット 2 会社の事務所移転の記録

  平成九年三月、古希を迎えた。学校側のパソコンにおける授業方針の変更があり、講師として九年間継続した時点で講師契約の終了となった。
  
ホテルコンピユータソフト開発・販売をビジネスとして、ソアレックス会社を設立しており、一週間に一日だけは講師派遣契約により学校へ出勤しているが、その他の日は会社に出勤していた。
  ホテルに機械を販売し、ソフトを開発、納入すると約五年間はアフターサービスを必要とし、高齢化して健康を害して保守サービスができないと顧客に迷惑がかかるため、六十五歳以降はホテルヘのセールスを行わなかった。
   専門学校のOA授業と共同出資会社から依頼されホテル建設事業計画のソフト開発と計算業務を行い、専門学校の講師の仕事が終了すると、建設事業計画計算業務が主な仕事となった。
  六十二年二月にソアレックス株式会社を設立した時、事務所は港区赤坂三丁目十三番地の東相ビル七階で、共同出資社㈱エクスブレーイン(以後、EX社と仮称)の事務所の一角を借りていた。
  平成五年十月にEX社は新宿区下落合三丁目四番十一号、三木宅の構内に移転し、ソアレックス㈱も三木宅に移転した。十一年十二月に会社の事務所を杉並区高井戸西一丁目の自宅に移転し、十五年に廃業した。
  昭和四十五年以降、商号「坂本システム研究所」として青色申告事業主になっており、会社よりの給料は、「坂本システム研究所」の収入として計上しており、「青色申告事業主」として三十八年間、SOHO業者として申告を行っている。

QZ3 古希よりのリセット 3 同期生会出席記録

   小学校、中学、高校、専門学校、大学と進学している人においては、それぞれの学校のクラスメートが発生し、同窓会の案内を受けることが多い。私は同窓会の出席では小学校が二回、高等小学校がゼロ、中学および高校に相当する航空機乗員養成所が三十五回、専門学校と大学が五回程度であり、航空機乗員養成所の同期生会に出席した回数がきわめて多いのが特徴であった。
  航空機乗員養成所は仙台、新潟、印旛、米子および熊本の五ヵ所に設置されており、各々六十名が入所し、本科三期生は参百名であった。入所して三年間は普通学科で、四年生より操縦科は米子、整備科は新潟に転属することになり、終戦の時点では入所時の九割に相当する約二百八十名が同期生であった。
  戦後、開催された同期生会は最初に入所した養成所ごとに開催されたが、戦後、四十六年経過した平成三年に五ヵ所の養成所の同期生の合同の全国三期同期会が発足した。米子本科三期生会は毎年一回開催され、これに出席していたが、還暦より新たに全国組織での同期生会が毎年一回開催されるようになった。米子出身の同期生で東京二十三区に
居住しているものは私だけであり、全国組織における連絡会議には出席せざるを得なかった。従来、継続していた同期生会に還暦より新たに全国組織の同期生会が発足した。還暦前の同期生会は発足して三十二年間で十回、これに対して還暦から十六年間で米子三期会が十四回、全国大会が十一回で、合計二十五回であった。これは還暦前と還暦後とは、同期生会の開催が五倍に増加したことになった。
  東京在住の人が、東京の学校を卒業して、同期生会に出席するのと異なり、三期生の卒業生は約二百八十名で同期生の居住地が北海道から鹿児島まで分散しており、戦後六十年経過した現在、消息が判明している同期生は約百五十名である。
 
同期生会の開催は各地の同期生が世話人となって、持ち回りで行っていたため、私が出席した同期生会の開催地は米子皆生、玉造、三朝、岡山、倉敷、坂出、湯田、別府、福岡、京都、東京、新潟、仙台札幌であり、旅行友の会的な色彩の強い同期生会であった。記念写真には開催年月日と同期生会開催番号が表示されているので、自分史の作成においては有効な資料となった。
  米子の同期生会が発足したのは、戦後十年経過した昭和三十年九月であった。同期生会には多数の教官、職員も出席されており、戦時中知らなかった情報も教官あるいは同期会幹事より提供された資料で判明した。
養成所入所当時の募集広告、入所試験での国語、数学、理科の諸問題、応募人数と合格者数、入所願書に添付した十三歳の自分の写真も保存しており、自分史の出発点となる少年時代というのが文章に綴りやすいというのが私の自分史の特徴である。
   
米子三期会には総務幹事として松本好信君、全国大会には事務局担当として高野弘行君がおり、これらの同期生から送られる資料をスキャナーでパソコンに取り込めば、自分史での少年時代とその後の同期生という物語が書ける。
   全国三期生会は平成十三年六月
、第十一回を北海道定山渓温泉賞月グランドホテルで開催、これで解散となった。また米子三期会も平成十七年九月、北九州脇田温泉ホテル菊水閣での第二十四回同期会で解散となった。このとき有終の美を飾るため、「米航養本科三期生情報」なるものを編集、会員三十名に発送された。私はこの編集作業に協力した。

QZ4 古希よりのリセット 4 還暦からの自分史編集企画

  六十二年二月にソアレックス株式会社を設立し、事務所にはキャノンAS300二型とIBMパソコン5540機種が設置されていたが、会社設立前から自宅(坂本システ研究)にはキャノンAS300とハードディスクを設置しており、六十年五月より㈱とみんリース会社よりリース物件として借受け月額五万円程度支払っていたが、プログラム作成業務は会社の機械を使用する頻度が多く、自宅での機械の使用頻度は減少した。
  六十三年四月より國際観光専門学校の講師となり、授業の資料を作成するにはワープロを使用するため、パソコンを使用してワープロの練習を行う必要性を感じた。専門学校講師では還暦を過ぎた人が多いが、ワープロで教材を自分で作成して配布する人は、割合少ないのが現状であった。リース会社より借受けた機械は陳腐化しているが、リース期間中にこの機械を返却することはかなりの額の解約料を支払う必要があり、このため継続してこの機械を使用することにした。機械の有効的使用としてパソコンをワープロとして利用することにした。四月末の連休より自分史を書くことにした。休日あるいは会社から帰ってきて、文章の作成にとりかかった。余暇の利用方法としての自分史の編集は作文、手を動かす訓練、過去の記憶を蘇えさせるという効果はあると考えられる。
  
自分史の作成を計画したとき、これには根気力が必要で、これは今後の仕事にも重要なことであるので、この点からも自分史をワープロで作成することは意義があった。
  
自分史を書くためにワープロの機械を導入するのでなくて、月額五万円のリース料の支払を有効にするための対策であった。最初に四百字詰めの原稿用紙に鉛筆で二百枚程度書き、三十八字X三十八行を一頁として一話ずつにわけ約五十頁の文章を作成した。ワープロ文章の作成時間を入れると約千時間かけたことになる。六十四年一月六日、昭和天皇が崩御された。この日から毎日の如く、テレビでは昭和時代というものを特別企画として放映されていた。私は昭和になって四ヶ月目に誕生したため、昭和というのは大変意味をもっており、自分史のワープロ作業とオーバーラップさせながら、テレビや新聞記事をみていた。一月八日、年号は平成となった。二月末には一応、自分史の編集は終了した。これを私の昭和時代とした。 キャノン機種で作成した文章はハードディスクに格納されていたが、平成四年四月にリース契約が終了し、七年間のリースの総支払額は二百六十五万二千円となった。この機械のハードディスクの容量は四十メガバイトであり、現在のパソコンの千分の一程度であった。価格は十分の一に下落しているが、活力ある還暦の時点での自分史作成は私にはプラスであった。
  この自分史の編集を企画して二十年が経過した。次の章で私の自分史を総括することにしたい。

   

2009年7月25日 (土)

QZ5 古希よりのリセット 5 ホームページとブログ

 平成十二年二月ごろ杉並区でIT&パソコン講習のボランチィアが募集され、これに応募した。四十六年七月より現在のパソコンの元祖であるマイクロコンピユータのソフト開発と機械の販売に従事し、六十三年四月より国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習講師となった。
 
Window95が発表されていない時代ではソフトや機械を販売する取引先に対して、漢字などの入力方法を教える必要はないが、開発したソフトの説明書には、メモ程度の知識でのワープロ文章であれば充分であった。
   専門学校のOA授業の講師を九年間従事したが、学生に日本語の漢字変換などを教えたことはなかった。これはワープロの講師が別に任命されており、私が開発したプログラムを学生が機械操作することにより、業務の流れを理解させることが実務教育であった。
  専門学校講師を退職後、Windows95によるパソコンの学習の必要性を感じ、パソコン講習ボランチア助手となれば、パソコンの勉強は可能と考えた。 
  平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習会では、一クラスに二十名の受講者に対して講師一名、ボランチィア助手四名の構成であった。操作が不慣れの受講者をサポートする仕事であった。コースとしては一日三時間のコースで四回であった。初年度は五十時間程度、講習会助手として従事した。
  十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習ボランチィアは初級コースであり、十三年四月より杉並区内の図書館でパソコン講習補講講座に切り替わった。
  これは初級コースで理解できなかった人に対する補講で、私は属していた高井戸図書館では十台のパソコンで、ボランチィアが三名で毎週木曜日の午前九時から十二時、午後一時より四時を担当、特別な授業はなく機械操作や質問事項があれば、これに対応する。初級コースが前提であるため、表計算やデジカメなどの質問はあまり発生しなかった。
  十六年四月より杉並区高井戸地域センターで毎月、第二木曜日と第四日曜日に午前十時より午後五時までの間、パソコン相談室が開設され、相談室のボランチアの仕事を十七年末まで従事し、それ以降はホームページに次の名称で自分史の編集を行うことにした

[太平洋戦争と戦後の情報処理実務体験記

現在の時点でアクセス数は10,620件で、ホームページでの使用容量は238メガバイトであった。また十九年八月より次の名称でブログを始めた。「新規業務へのチャレンジ」 現在の時点で投稿件数はちょうど1,000件になった。二十年八月より、次の名称でブログに登録した。「新規業務の研究」現在の時点での投稿件数は120件である。これは月平均46.7件の投稿の割合であり、次に何を書くか?という問題意識を持っていることは、高齢者の健康にはプラスと思われる。

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