TX2 ゲームの理論 02 新規顧客
1971年7月にソニーマイクロ・コンピユータの特約店となった。機械販売の経験に乏しく、色々な会社を訪問しても、マイクロ・コンピユータが販売できるかどうか?不安であった。多くの特約店はソニーで開発した統計や科学技術計算のプログラムで販売していたが、他の特約店と競合しない分野で販売を行うことにした。ソニーより最初に紹介されたには日本通運㈱海運支店で使用する関税の部分申告であった。その後三井物産㈱貿易商社の輸出入コスト計算のプログラム作成を行った。
ソニーのマイクロ・コンピユータ作成の指定店として、プログラム作成を行ったのは、①統計関係では国立栄養研究所、東北大学医学部、神戸女子薬価大学、野村證券㈱、山一證券投資信託㈱、大平住宅㈱、吉田工業㈱、日本予防医学協会、②減価償却関係では帝都高速度交通営団、③給与計算ではトヨタカローラー和歌山、④技術計算では徳山機械㈱、⑤出店計画では㈱ニチイ、⑥保険計算では大東工業㈱、⑦リースでは日本ランヂック㈱および消費者金融では㈱レイクがあった。
ソニーの紹介でマイクロ・コンピユータを納入したところは国家公務員共済組合虎の門病院、東京女子大学、東京工業大学、防衛大学、科学技術庁など官庁にも納品ができた。ソニーやソニー特約店が販売した機械のアフターサービスを行うため、私の経営が成り立つように、在庫の機械の納入先を紹介され、ソニーより私が機械を仕入、これを納入先へ販売するという形式がとられた。他の特約店からも、ソフト開発の紹介が行われた。社員1名のSOHO事業主が、なんとかやれる体制となった。
ソニーの電卓撤退作戦から3年で、ソニーの電卓残務整理の仕事は無事終了した。1976年5月より、ソニーサービス㈱がソニー製品のプログラムアフターサービスを引き継ぐことになり、私は同社の嘱託となって、プログラムの開発依頼があったときこれを引き受けることとなった。
撤収したメーカーの機種の保守サービス部門に籍をおいており、顧客のところへ出張するとき、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県内の公共交通機関を利用した場合、交渉が成立しないときは、交通費は実費が負担、かつこれに要した時間のうち3時間を限度として、1時間当たり、1,200円が支払われることとなった。ソニーサービスには、一週間に一回、午前9時より午後5時まで出勤し、1ヶ月の手当ては交通費を除いて5万6千円程度であった。
1971年7月にソニーの特約店になったが、マイクロ・コンピユータの法定耐用年数は6年であるので、1975年ごろより、マイコンの買い替え時期が、発生するものと想定した。そのとき、どこかのマイコンの販売店になるとう計画を立てていた。
ソニーが新聞紙上でマイクロ・コンピユータの製造打ち切りを発表したが、在庫がなくなるまであまり時間はかからなかった。1971年10月より三井物産㈱本店業務部営業統括室の協力を得て、プログラムの開発を行いながら機械の販売を行い、ソニーのマイクロ・コンピユータを次のような部門に納入した。人事部、開発本部、鉄鋼総括部、鉄鋼線材部、鋼管部、非鉄金属総括部、非鉄金属原子燃料室、重機械部、化学プラント部、輸送機械部、船舶部、化学品総括部、繊維第二部、瓦斯炭素部、電気機械部、機械会計部などの本店部門、および名古屋と清水支店であった。パソコンの製造が打ち切られた後に、機械を納入した部門が多かった。

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