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2009年1月

2009年1月12日 (月)

A01 ホームページのレベルアップ 1 容量300メガバイトへ

  昭和62年3月、還暦を迎えた。そのころから自分史の編集を開始した。還暦というのは人生における一つの区切りであり、少年時代から
還暦まで何をしていたか?パソコンの練習を兼ねて書いた。それから10年経過したころ、CD-R/RWが出現し、画像をパソコンに取り込めるようになった。
  平成12年にインターネットを始めることとなり、自分史をホームページにアップロードした。基本容量は10メガバイトであった。その後、基本容量は、20メガバイト、30メガバイト、4年前より100メガバイトに引上げられた。この間の事情をかいたのが下記の文章である。
 01 ホームページで100メガバイトの利用方法

  画像と比較して文章というのは、あまりメモリーは喰わないが、活字となった雑誌や新聞記事などをスキャナーでパソコンに取り込むとき、画像の鮮明度を落としているため、今回、鮮明度を上げる必要上、ホームページの容量を100メガバイトから300メガバイトに切り替えた。無料
ホームページから月額525円の有料ホームページとした。下記は、300メガバイトのホームページである。
  太平洋戦争と戦後の情報処理実務体験記

A02 ホームページのレベルアップ 2 画像ファイル名を漢字に変更

   数年前に画像のファイル名を漢字にしていたが、ホームページにおいては不具合のため、英文字に変更していた。
    昭和16年4月より終戦の20年8月までを私の少年時代としして、19枚の写真をスキャナーで取り込み、これに1枚の説明文を加えて、横に5枚、縦に4枚,計20枚の画像を表示させていた。      画像の名称は02 JCAB, 03 JCAB というような名称用いていた。JCAB というのは日本の航空局の略称である。下記をクリックされたい。
   航空機乗員養成所入所から終戦まで(旧) 
 今回、ホームページの内容の更新において、漢字を使用したファイル名に変更した。下記をクリックされたい。
 
航空機乗員養成所入所から終戦まで(新 

A03 ホームページのレベルアップ 3 専門誌連載記事の組入

  ㈱日本経営科学研究所が発行した「COMPUTOR  REPORT]という月刊誌に1975年8月号から1976年7月号まで毎月1回、「マイクロ・コンピユータ」アラカルトと題して執筆した。パソコンが現在のように需要が飛躍的に拡大されたのはマイクロソフト社のWindows95が発表されたころからである。95というのは1995年ということであり、これよりも20年前に発表したマイクロ・コンピユータでのソフト開発事例の紹介である。
  この専門誌以外にその当時、私が組んだプログラムを含めて、ホームページにアップロードしたのが下記である。
マイクロ・コンピユータ・アラカルト料理法(旧)
  今回、上記に連載記事を組み入れ、内容の刷新を計った。
マイクロ・コンピユータ・アカラルト料理法(新

2009年1月13日 (火)

A04 ホームページのレベルアップ 4 音声朗読原稿ファイル格納

 9年前にインターネットを始めた。ホームページの基本料金でカバーされる容量は10メガバイトであった。その後、容量は20メガバイト、30メガバイトとなり、更に4年前より100メガバイトとなった。
   私は44年4月、阪急交通社を依願退職し、2年後の46年4月よりマイクロ・コンピユータを利用しプログラムを開発しながら機械販売を行った。
  会社では海外旅行の仕事は8年、航空貨物の仕事は8年従事したが、在職中、自分が担当する仕事を学術的にまとめ、これを会社退職後のノーハウにしたいと考えていたため、研究資料を活字にすることを心がけていた。
    自分の研究が海外へ英字新聞で紹介されたとすると、これは本人にとっては貴重な資料である。これをパソコンが英語で朗読するとどうなるか?これを日本語に訳し、日本語で朗読させる。ホームページが300メガバイトになった今回、これをホームページに組み込むことにした。
  朗読「国際航空貨物研究原稿(英文)」

A05 ホームページのレベルアップ 5 ハイパーリング機能の活用

  平成19年8月15日よりブログを始めた。タイトルとしては「新規業務へのチャレンジ」および「新規業務の研究」である。本日で518日経過した。ブログに投稿した回数は863件でアクセス数は16,933である。
  一日の平均では投稿は1.6件で、アクセス件数は32.7件である。また、ホームページのアクセス累計は9,262件である。
    ブログというは長い文章は不向きで、「広告、宣伝」向きである。このため、ハイパーリング機能を利用することが効果的である。たとへば、
会社に入社して、現在まで仕事でいつどこに何日間出張したか、これをブログに書くとなると大変である。私の場合はホームページにデータを登録しているため、下記をクリックすると内容が表示される。
 自分史と業務出張の記録

2009年1月14日 (水)

B01 パソコン活用法 1 会社在籍16年昇給記録

    昭和20年8月に終戦となった。それから3年後の23年に関西の私鉄阪急電鉄㈱はIATA旅客および貨物代理店のライセンスを取得した。阪急では代理店部福岡営業所を開設した。海外旅行の自由化は昭和39年4月からであり、それよりも16年前に電鉄というのは国際航空輸送というものに着目していた。
  私は航空局航空機乗員養成所に4年半、在学していた。終戦の年の5月からは液冷戦闘機飛燕の改装整備を三重県明野陸軍航空隊基地で行っており、敗戦により、民間航空は禁止され、民間航空界で就職することが出来なかった。昭和26年10月に日本航空㈱が設立、戦後6年経過して民間航空の再開となった。
   28年4月に28年3月大学卒(英文科)の社員として阪急電鉄㈱に入社、代理店部福岡営業所旅客係となった。海外旅行業務には英語が必要で、私は米陸軍民間検閲局に4年、米空軍憲兵隊に2年間、正規の日本人従業員として勤務していたので、この点、評価されての入社であった。
  福岡営業所で8年間、海外旅行、東京へ転勤して航空貨物業務に8年従事した。代理店部は35年に阪急交通社となり、電鉄よりの出向社員となった。 阪急交通社には電鉄の出向社員と交通社で採用した社員がおり、出向社員の数は次第に減少し、44年3月末で出向社員制度が廃止された。電鉄に復帰する社員以外には全員に退金が支払われることとなった。私は阪急電鉄㈱を依願退職し、㈱阪急交通社を44年4月末で退職した。
  退職者が再就職するとき、新しい就職先から会社の人事課へ勤務状態での照会がある場合を予想して、下記のような昇給記録の一冊の小冊子が退職時に交付された。
    会社在籍中の昇給記録
    私の昭和28年4月の初任給は9,850円で、退職年次の43年4月の初任給は72,720円であった。 退職金は1,759,292円であった。このような資料は、現在の年金加入問題と関連して考えると、自分史の中にデータを保存する価値があるものと思われる。

   
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B02 パソコン活用法 2 会社特命事項記録

 ㈱阪急交通社を退職したのは、昭和四十四年(一九六九年)であったが、これより二十一年後に、次のような社史が出版された。
㈱阪急交通社は平成二年(一九九○年)に創立三十年を迎えたので、創立三十年史が編纂された。会社で社史を編集するときOA化の取組はいつから行われたかの記述の中に、私の名前がでた。この社史に[第1節  OA(オフイスオートメーシヨン)]に下記の記述があった。
                                 
 記
今や社会全般にわたってコンピユータの支配下にあるといえる状況となり、わが社でもつとに鷹峰弘文取締役と坂本清助課長のプロジェクト・チームにより研究され、その重要度が確認され、コンピユータ化に真剣に取り組むこととなった。
四十一年六月  一日   まず貨物業務(主に経理業務)の合理化に始まった。輸出入貨物の取扱増に伴い、各営業部門での収入や未収の自己管理を徹底するためには、日々発生するデータをEDP化して完全を計らねばならない。
四十一年六月 一日{事務機械化委員会](委員長・常務取締役山辺 正)設置
四十一年十月  一日[事務機械化委員会]内に事務機械化委員会実行小委員会       (委員長・貨物部業務係長 坂本清助)設置
四十二年三月二十日  阪急交通社東京ビルにFACOM230ー10コンピユータを設置して、貨物業務OA化開始(JFCと共同利用)
四十二年四月 一日  総務部事務機械課を設け、前述の業務処理を始めた。JFCも同じ機械を使用して、運賃の精算のためのビリング方式の請求書を作成した。四十三年三月  五日  貨物部に企画課を設置した。以下省略
   
年功序列、終身雇用の会社では中途で退職したものは脱落者という印象があり、社史にその名前が載ることは殆どない。当時、航空代理店を兼業している大手電鉄会社は本社部門では電算機が導入していたが、代理店部門で電算機を導入したのは阪急を含めて数社であり、コンピユータ揺籃期であった。電算機導入というには会社においては一つの歴史である。上記の職制において総務部事務機械課の設置、貨物部企画課の設置が記述されているが、私は総務部事務機械課長・貨物部企画課長兼務でそのときの貨物部門の上司である貨物部長が社史編纂時の代表取締役社長の吉田茂夫氏であった。
阪急入社時福岡営業所の所長が吉田氏であり、私の阪急交通社16年間の勤務では、鷹峰氏と吉田氏とが上司であったため、私にはきわめて恵まれた仕事が与えられたと思われる。

B03 パソコン活用法 3 業種別業務月数の推定

    昭和十六年四月に航空局米子航空機乗員養成所に入所した。平成九年三月に国際観光専門学校航空輸送学科の非常勤講師を最後に航空関係の仕事は終わった。この五十六年間、どのような業種や会社で、どの程度、労働時間を投入してきたか?パソコンに登録、私の備忘録とした。
   五十六年間の業種別業務月数の推定
 

2009年1月15日 (木)

B04 パソコン活用法 4 自分史資料在庫管理

 ワードで文章を書く場合、1行に約40全角文字を目安として書いており、これをホームページにアップロードしていた。ブログを利用するとき、レイアウトとして左サイドバー付き表示画面を採用しているため、右側の画面で表示できる文字は、ホームページで表示できる文字の半分の約20文字であった。
   表計算ソフト EXCELで作成したファイルをブログに移行するには、「貼り付け」という方法を利用するが、移行作業には、中身に再構築が必要であったため、新春から「ブログ」に必要なデータは自己のホームページに「ハイパーリング」させる手法を採用した。
 還暦、古希という節目に「自分史」なるものを書くとすると、文章ではA4版では何枚ぐらいになるか?自分史に記念すべき写真は何枚あるか?活字となった研究資料は何枚あるか?文章では、1枚どれだけのバイト数か?写真などのバイト数は?活字となった資料のバイト数は?これらを計算しておく必要があった。
 私の自分史では、1 少年時代、2 学生時代、 3 会社在職時代、4 会社退職後の自営業時代、5 古希以降などの区分で、この中の仕分で該当するのは何件あるか?これをブログで詳細に書くよりも下記を参照されたいという文章の運びのほうが効率てきである。
  自分史資料在庫管理

B05 パソコン活用法 5 業務経歴一覧表

 エクセルは計算と思われている人が多いが、「線引き」ができることは、利用価値が高い。還暦や古希という人生の一つの区切りで、今まで会社で何をしてきたか?これをパソコンで作成される人もあるが、私は
①年齢区分別、②居住地、③就職先・取引先、④主な仕事、⑤研究内容、⑥課外活動・その他に区分し、作表することにした。
 勤務先、取引先と業務内容
  パソコンでプログラムの開発をビジネスにしていると、今までどこでどんなソフトの開発をし、納品していたか?という実績で、仕事が発注される場合が多い。このため、どこでどんな仕事をしてきたか?業務経歴を作成することが必要であった。

2009年1月16日 (金)

B06 パソコン活用法 6 設備更新歴

 電鉄というのは公共事業であるため、不況には強い企業である。阪急電鉄㈱の社員となって16年間勤務し、会社を依願退職して自営業を行うようになったが、現在の社会情勢からみると、賢い方法ではなく、人には「辛抱」ということをすすめたい。
  会社を退職して2年後の昭和46年7月より、ソニーのマイクロ・コンピユータ SOBAX ICC-2700の特約店となった。本体とプリンターとのセット価格は666,000円であり、仕切率は75%であるため166,000円が荒利であった。
    私は米国航空会社フライング・タイガーの専門職社員で兼業が認められており、在宅勤務社員であった。
航空会社の社員を解雇されてもマイクロ・コンピユータ販売という仕事があった。 プログラムを開発して機械を販売するには機械を仕入れておく必要がある。
  ソニーがマイクロ・コンピユータを製造しなくなり、キャノンのパーソナル・コンピユータを販売するようになった。昭和50年7月にキャノン販売㈱の販売店となり、平成2年までキャノンのパソコンを販売した。これは15年間、特約店代表者としての職務が発生した。会社に就職して課長、部長というような役職には興味がなくなっていた。人を雇わず仕事をするには機械設備が重要である。
   
パソコン機械設備の推移

 
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B07 パソコン活用法 7 周辺機器&環境の推移

 英語で「キャリヤー」という言葉がある。米国の航空会社の社員は、航空会社を「エアーライン」と呼ばずに「キャリヤー」と呼んでいた。航空母艦もキャリヤー、戦車などもキャリヤーということを耳にする。
   電話会社は、[TELEPHONE COMPANY]よりも「キャリヤー」と呼ばれているようである。 これは「運び屋」の意味である。
   経歴というのが、キャリヤーと呼ばれているが、これは自分の経歴を運んでいる意味かもしれない。
   インターネットというのは画期的なものであり、当初よりプロバイダイーに加入し、通常の電話線に接続していたが、次にISDNに接続、
次にADSLに接続した。これでメールやホームページに利用している。
  下記は私のパソコン周辺機器&環境の推移の記録である。
パソコン周辺機器&環境 
 
   

B08 パソコン活用法 8 不況時の設備更新

 キャノンのプリンターを購入し、6年経過した。機械が故障して修理が完了無償期間が過ぎ、今まで有料であったのが最後に「無料」であった。このとき、次回、故障したときは、部品がないため修理不能もありうるということが書いてあった。
   昨年1月に富士通のパソコンが故障した。丁度購入して満5年が経過した。ハードドライブの故障で、データを取り出すとその費用を含めて6万円がかかる。ここで機械の買い替えとなった。私のノートには機械の更新時期を事前に記入していたので、予定どうりの設備更新であった。
   Windows XP対応で充分と考え、この機種を探したが、すべてVISTA対応となっている。ひかりネットの接続なら代金3万円割引、プリンターと同時購入なら3千円割引となった。それ以前にスキャナーも更新していた。
   インターネットの接続では新機種になり、接続時間が短縮、またプリンターの印刷時間が短縮できた。昨年8月よりブログへの投稿回数が今年の1月13日で、863件アクセス件数は16,933件であった。機械設備とインターネット環境の好転というのが、ブログへの投稿数の増加となった。パソコンは必需品、パソコン需要が低下している現在が、更新時期と思われる。
 
   

  

B09 パソコン活用法 9 パソコン製品の作成

    パソコンの利用方法として、デジカメによる画像の登録を主要な利用方法とされる人が多い。高齢者においては、色々なところの景色をデジカメでとりまくるよりも、昔の写真をスキャナーでとり、これをパソコンに登録することを希望される多い。
   平成12年8月より杉並区永福・和泉地域区民センターに自主団体としている自分史永和会に入会している。毎月第2日曜日午前9時より12時まで研究会を開催している。会員は5名、募集して参加希望者は少ない。3時間は180分で、出席者5名で時間を割ると1人の持ち時間が25分である。お互いパソコンで作成した資料を発表するわけである。
   8年以上加入していると、出席回数は100回以上となる。会には講師がいない。お互いが講師となり、受講者ともなる。このため月の会費は500円ですむ。
  インターネットに接続した画面は
太平洋戦争と戦後の情報処理体験記
である。
   「パソコンの学習」という抽象的なものよりも、具体的な「物を作る」というのが、高齢者に向くパソコン利用法である。研究会で発表した事項が、ブログの資料ともなる。
  今年の2月に会員に配布した資料は、21年新春版のCDで、CDケースとCDラベルは下記の画像である。

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B10 パソコン活用法 10 同期生回顧録

  戦時中、起居を共にした仲間というのは連帯感がつよい。昭和16年4月に米子航空機乗員養成所本科3期生として入所し、19年3月学んだ57名の同期生は、昭和30年より平成17年まで24回、同期生会を開催し、9月に高齢を理由に解散となった。消息が判明している同期生は35名であった。解散に際して総務幹事松本好信氏が、[米航養本科三期生情報」なるものを企画した。私は編集の手伝いを行った。同期生のうち十四名の投稿があり、貴重な資料として、これを私のホームページにアップロードした。パソコン活用方法としては、メリットがある方法である。
 米航養本科三期生情報

B11 パソコン利用法 11 還暦から多くなる同期生会

    昭和16年4月に航空局航空機乗員養成所本科3期生徒(修業年限5ヵ年)が米子、仙台、熊本、印旛および新潟の5ヶ所に各々60名入所し、19年3月、適性検査により、操縦学科は米子、整備学科は新潟に転属することとなった。操縦学科に進んだものは約170名、整備学科へは約120名であった。太平洋戦争前から養成所に入所、戦争が終わって卒業したわけであるが、きわめて運がよかったのは戦死者や殉職者が皆無であった。
   最初に入所した養成所ごとに同期生会が開催されていたが、入所して50年を迎える平成2年に各地養成所本科3期生の全国組織として、「本科3期全国大会」が結成され、第1回、同期生会を4月12日に京都堀川会館で開催、以来11回にわたり同期生会が開催された。同期生会を今後継続、年会費として3,000円を徴収するには、「三期だより」という連絡誌が必要であった。パソコンで自分史を作成していたので、編集長に指名された。第1号と第2号との編集を担当した。還暦前と後では、同期生会の開催が多くなった。同期生が日本各地に分散しており、開催地は各養成所の幹事の持ち廻りとなったため、南は鹿児島、北は北海道で開催された。
 同期生会の開催年次と開催地
 

2009年1月17日 (土)

B12 パソコン利用法 12 年代順に写真の整理

  写真が多いと整理が大変である。古い写真には撮影年月日が不明なものが多い。私は航空機乗員養成所に4年半、在学。戦後は米軍民間検閲局に4年、米空軍憲兵隊に2年半、阪急交通社福岡営業所に8年、東京貨物部に8年勤務していた。写真をみて何処で働いていた時の写真かは判明できるが、その整理の方法として、はがきサイズの用紙に、ワープロでタイトルと期間とを書いたものをスキャナーにとり、これをパソコンに登録した。見本として紹介する。
 年代順に写真と活字の整理のためのカード

上記で作成したカードを「旗印」として画像自分史を作成できる。
  航空局航空機乗員養成所在学中

B13 パソコン利用法 13 少年時代の思い出をパソコンに取り込む

 昭和16年4月に航空機乗員養成所に入所した。その8ヶ月後の12月8日、太平洋戦争が勃発した。入学資格は小学校卒業で、年齢は12歳から14歳までであった。
   募集の広告記事、入学願書に添付した写真、16年度入所試験問題など所持している。同期生には同じような写真が養成所より提供されていたが、戦後、60年以上経過した現在、養成所時代の写真をなくしている人も多いとおもわれる。集合写真をスキャナーで集合写真をとり、パソコンに登録した。下記をクリックされたい。
 少年時代の思い出をパソコンに取り組む
   

B14 パソコン利用法 14 提供された資料で少年時代を再現

   戦時中、鳥取県米子に三年、新潟県新潟市に1年半、在学していた た。出身地は福岡県福岡市である。養成所の休暇は、夏、冬、春であるので、特別の理由がない帰省するわけである。
 戦後、同期生会が開催され、これに出席していると、幹事から在学中の旅行先の出来事を書いた印刷物をしばしば配布されていた。これらの資料に、私のメモを追加したものを、パソコンに登録した。
   提供された資料で少年時代を再現 

B15 パソコン利用法 15 同好会記録

    平成12年8月より、杉並区永福・和泉地域区民センターの会議室を格安で利用できる自主団体「自分史永和会」に入会した。会員が発表する資料は、記事録に登録される。また年に1度、センター祭りが開催され、これに参加した。デジカメでセンター祭りも模様を撮影、これを私のパソコンに登録した。このようなことでパソコンの利用方法を学ぶことができた。
    自分史永和会入会活動記録

2009年1月18日 (日)

C01 私の教育環境 1 少年時代

   小学校に入学したのは昭和8年で6歳であった。1年1学期の成績は丙組であった。50人クラスでは40番以下であった。2年、3年と進むにつれて成績はよくなり、小学校卒業のときはクラスでは10番目に入っていた。クラスでは2割程度、中等学校へ、その他の児童は高等小学校に進んだ。
、高等小学校の修業年限は2年間で昭和16年3月、14歳で卒業した。卒業後の就職先としては商店の店員、会社の給仕、工場の徒弟工員であった。私はどこかよい就職先を探した。
  昭和16年4月入所の逓信省航空局航空機乗員養成所本科生徒の募集が行われた。養成機関は5年間、中等学校5年卒業資格、国家資格となる2等航空機操縦士の免許が付与されるということであった。卒業後は国の指定する職場で2年間、働くことが義務ずけられていたが、これは国家公務員としての就職保証である。
   住居、衣服、学費、食事など全額無料、毎月4円が手当として支給される。(現在の貨幣価値では4~5万円である)。今考えるとこんな学校は珍しいと思われる。
    乗員養成所は熊本、米子、印旛、新潟および仙台の5ヶ所で、採用人数は各々60名で、全体として300名であった。受験した児童は全国で3,200名であった。
   入所したのが太平洋戦争勃発の8ヶ月前であった。養成期間が5年で、卒業は21年3月である。戦況が悪化し、6ヶ月、修業年限が短縮された。19年に陸軍予備生徒として軍歴に編入され、卒業が20年9月となったが、すでに太平洋戦争は終了していた。若干ながら国のため役に立ったと思われるのは終戦前75日間、陸軍明野航空隊に出張し、戦闘機「飛燕」の改装整備に従事したことであった。
   航空機のパイロットを目指した同期生は全員、整備学科へ転属となった。米軍が沖縄に上陸した時点では航空機とガソリンが不足していた。これは同期生の過半数が、航空機操縦士という希望が断たれたが、航空機事故による殉死者や戦死者が皆無であったことは幸いと思われる。
 
 

    

   

C02 私の教育環境 2 上級学校へ進む必要なしの授業

     高等小学校を2年を卒業した。これは中等学校2年の課程を終了し、航空機乗員養成所本科1年に入学したため、中等学校2年の教育課程を4年行った勘定になる。英語というのは得意な科目ではないが、通算4年習ったたことになる。戦時中は敵性語である英語というのは排斥されており、戦後、英語についての考え方の相違により、戦後の職業選択が異なってくる。
     航空機乗員養成所在学中、英語の先生に堀井吉晴という人がいた。「皆さんが習っている授業が高等教育で、専門学校や大学に進む必要はない。」と生徒に教えていた。現在、このような先生は大問題になるところである。この先生は教頭で、国家公務員である。国費を投入しての授業であり、5年間かけての教育で、航空機乗員としての役に立つ人材の養成であるため、上級学校進学というのは、考慮外であった。
  航空機乗員養成所で4年半在学した。航空機整備士という資格が付与される学校であったが、敗戦により民間航空が禁止となり、民間航空界で就職することが困難になった。昭和26年10月、日本航空㈱が設立され、民間航空が再開された。戦後、満6年間の空白のため、昭和16年4月から20年9月まで在籍した本科三期生、(終戦のとき約280名)のうち、航空界に籍を置いたものは2パーセントにも満たない。敗戦というのは大変な進路変更を余儀なくされた。
   私は、20年9月20日に乗員養成所を卒業、翌月10月17日に就職したのが、米陸軍参謀本部第三地区民間検閲分遣隊であった。
   US ARMY  CIVIL CENSORSHIP DETACHMENT APO 929(福岡)で、一般には CCDと呼ばれていた。働きながら英語の勉強をしやすいところであった。
 
   
 
    
         

2009年1月20日 (火)

C03 私の教育環境 3 これからは英語の時代

福岡市博多
駅付近一帯は空襲により人家がかなり消滅していたが、博多郵便局の隣に七階建の島津ビルは焼け残り、ここを米軍が接収し、米国陸軍参謀本部第三地区民間検閲局を設置した。正式な名称はCIVIL CENSORSHIP DETACHMENTであり、略してCCDと呼ばれていた。
  検閲局は東京、大阪と福岡の三都市に設置され、第三地区民間検閲局は九州地方、山口県および四国地方を管轄していた連合軍総司令部の情報検閲機関で、部としては人事、一般郵便、商業郵便、特殊郵便、再検閲、演劇、新聞出版、ラジオ放送、電話電報、郵便受渡、モータープールなどがあった。
 この検閲局には日系二世の岩下大尉がトップにおり、軍人軍属では、日系二世が多いため、他の占領軍とは環境がかなり異なっていた。日本語が通用する米国軍隊である。
 一般郵便部には五十名程度の日本人従業員が働いていて郵便を検閲し、該当事項があれば、これを英語に翻訳する仕事であるため、語学が必要な職種であった。しかしながら試験的に採用された私をはじめ、数人のものは年齢が十七歳より二十歳までの男女で、英語は就職での前提条件ではなかった。
   担当の監督はハワイ出身の日系米軍属、沖西今市氏で年齢は五十歳前後であった。私の初任給は月百二十円であり、当時はかなりよい給与と思った。監督より、あくまでも試験的に採用するため、成績が上がらねば解雇と驚かされていた。検閲係には次のような項目に分類された一冊約百頁の英文と和文対応のマニュアルが配布されており、どのような情報はレポートすべきかが明記されていた。
 記   
   農業、代理機関、連合軍、武器武装、武装解除、敵性国の資産、闇取引、放送、国会、青少年の非行、憲兵隊、民間情報、内閣、検閲、外交、財閥解体、流言飛語、政府、連合国資産、ミサイル等であった。
検閲係は検閲した郵便物の内容が、マニュアルに要求されているものかどうかを判断し、レポートすべきものであれば監督に相談し、監督が採用すれば検閲係の成績として統計がとられていた。他の検閲係は統計のことは気がついていなかったようである。
 検閲者の間では報告すべきレポートの件数ではかなりの差が発生し、私の件数が最も多かったと思われる。就職して約一週間目に上司のクリーム中尉と監督の沖西氏に呼ばれ、私は検閲係の主任(スーパーバイサー)に任命され、沖西氏の仕事を私が代行することとなった。二十年十月に検閲係として採用されたのは七名程度であったが、検閲係としての成果が認められ、六ヶ月後には百名程度の規模に拡大した。
   
海外から復員軍人が内地に帰ってきたが、元職業軍人は公職追放令のため、日本の官庁には就職出来ないため、検閲局に検閲係として就職する人が増加した。同じ時期に就職したもの多くは主任に昇格した。私は主任のなかで最古参であった。働きながら英語が勉強出来るところで、環境としては申し分がないところであった。 

2009年1月21日 (水)

C04 私の教育環境 4 和文英語翻訳係と夜間専門学校学生

二十年十月に検閲局の検閲係として就職、一週間目に主任(スーパーバイサー)となり、また二十一年六月より監督(DAC)となり、六十人の課の責任者で、米国軍隊でなければ考えられない異例のポストが与えられた。
  二十三年三月で検閲局に就職して二年六ヶ月となった。郵便物を検閲する仕事で検閲局が設置されたときのマニュアルはそのまま継続して使用していたが、戦後、占領軍と住民との間のトラブルも少なく、郵便物の検閲の必要性が次第に薄れてきていると感じた。
日本語を英語に翻訳する翻訳係には、監督(DAC)の日系二世軍属が指導していたので、学生のアルバイトには勉強になるところであった。
 情報というのは最初は珍しいが同じ情報で変化がないと、次第に情報の価値が低下し、これを収集するための経費との兼あいが問題となる。連合軍の占領政策で郵便検閲の必要性がなくなる時点の予想は、検閲局の解散、閉鎖の予想であったが、私はあと一、二年で閉鎖になると予想した。
 そこで解散までの期間における最適な業務として、同じ検閲局で和文翻訳係に転職したいと思い、二十三年春に部長に申請して、監督から翻訳に転職させてもらった。これと同時に西南学院専門学校二部(夜間)英文科に入学した。当初は商科を希望していたが、専門学校を無事に卒業するには仕事と学業とを一致させたほうが、卒業できる確率が高いと判断した。内容よりも専門学校卒業の資格が重要と考えた。監督時代はつとめて検閲した項目の内容の概略を英語で書く訓練をし、仕事で暇な時は英語の辞書だけを眺め、単語を覚えていた。

   
翻訳係の試験は私一人だけの受験であった。英作文はあまり上手ではないが、英単語はたくさん知っていたのでパスさせてもらった。同じ階の同じ部屋での移動で、これは勇気がいる転職で、初級翻訳係なったため、監督時代と比較すると給料は半分となった。
  情報管理業務で実務体験をしたのはオペレーシヨンズ・リサーチ的な業務処理の考えであった。英文科であったが、数学、統計学の単位をとることにした。

C05 私の教育環境 5 空軍憲兵隊通訳と大学3学年編入生

 米陸軍第三地区民間検閲局は24年10月17日に解散となった。早速、仕事を探し、就職したのが福岡公共職業安定所統計調査課である。統計学は研究してきたので統計の仕事を選んだ。24年10月末から25年3月末まで働いた。26年4月に専門学校3年に進級することになったが、学制改革により西南学院大学短期大学2年に横すべりとなった。家業が不動産業であったため、家事手伝を行った。25年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。福岡市雁ノ巣に米空軍輸送部隊基地が設置され、11月より空軍憲兵隊通訳となり、26年3月、短期大学部英文科を卒業した。憲兵隊通訳の仕事は継続することとなるが、勤務時間を調整すると昼間の大学に通学可能と判断し、西南学院大学英文科3学年の編入試験をうけ、大学3学年進学した。28年3月に大学を卒業することになるが、阪急電鉄㈱代理店部岡営業所で27年11月より働ける学生として西南学院専門学校時代の友人田尻重彦氏が推薦してくれた。短期大学時代、友人西原一男氏と田尻重彦氏は米空雁の巣労務管理事務所の職員であった。西原氏は私を憲兵隊通訳に推薦、田尻氏は27年日航福岡支店に移り、私を阪急に推薦してくれた。これは非常に有難いことであった。

2009年1月22日 (木)

D01 1 オペレーシヨンズ・リサーチ的志向 1 戦時中の教育

  太平洋戦争が勃発したのは昭和十六年十二月であったが、同年四月より航空機乗員養成所本科生の養成が開始された。当時、中等学校に進学できる児童は全国平均では一割程度であり、官費で中等学校卒業資格、国家資格である二等航空機操縦士資格が与えられる学校というのは、向学心に燃える児童においてはまたとない機会であった。
 十六年四月に入学した乗員養成所生徒は本科三期期生と呼ばれているが、全国では三千二百名が応募し、合格したのが三百名であった。太平洋戦争が勃発して、食料難の時代にさしかかるが、食事は一日米飯五合五勺が支給されており、航空機乗員養成生徒は、戦力として重要であるため、一般中学生よりは「陸軍予備生徒」として優遇されていた。
  六時半起床。直ちに寝具を整頓し運動場へ駆け足、整列して点呼を受ける。体操ののち日直教官の訓示。解散、掃除、洗面そして七時半に食堂へ朝食をとって教室へ、九時より授業開始、五十分授業で十分休憩。正午 より昼食のあと、三時間授業で四時ごろ終了。 放課後は体操、剣道など。夕食は六時だから、殆ど休みはなし。七時から入浴、九時の点呼まで自習時間、軍人勅諭の暗唱など目一杯。消灯は十時で自主での勉強をする時間がなく、期末試験の準備には二ヶ月前より開始。
   記憶をたどり授業科目を羅列すると修身、国語、漢文、書道、英語、数学(代数・幾何)物理、化学、電気、用器図、音楽、通信、地理、歴史、気象、剣道、教練、体育、 基礎技術教育は基本工術にはじまり、木工、板金、塗装、研磨、鋳造、体育の中でスキーがあり、三年生からは滑空訓練が始められた。四年生から発動機学、機体学、燃料、輸送学科などがあった。
  戦況が悪化し、五年間の卒業が六ヶ月短縮された。このため夜間授業も行われた。数学は微分、積分、球面三角など、戦時中では授業が中断されなかったことは戦後、大変プラスとなった。
  戦後、米陸軍民間検閲局に就職した。中等学校卒業の学歴で十八歳で就職することになるが、養成所で習ったことを実務に応用するということが重要であった。
  数学を実務に応用するというオペレーシヨンズ・リサーチの手法を、米軍で学ぶことが出来た。

 

D02 オペレーシヨンズ・リサーチ的志向 2 情報管理自己研修

終戦の二ヶ月目に就職した検閲局での仕事は、一般郵便検閲係で次のような項目の分類された一冊約百頁の英文と和文対応のマニュアルをよく読んで、郵便物を検閲し、該当事項があれば監督にレポートする業務であった。
            記   
 
農業、代理機関、連合軍、武器武装、武装解除、敵性国の資産、闇取引、放送、国会、青少年の非行、憲兵隊、民間情報、内閣、検閲、外交、財閥解体、流言飛語、政府、連合、国資産、ミサイル等であった。
 監督は米陸軍軍属日系二世ハワイ出身の沖西今市氏であった。郵便物を読んで、内容を理解して、どの項目に該当しているか?「やる気」があるかどうかでレポート件数が異なるが?私は就職して約一週間目に上司のクリーム中尉から呼ばれ、検閲班の班長「スパーバイサー」に任命された。最初は七名程度の検閲係りが六ヶ月後には百名程度の規模に拡大した。

   
海外から復員軍人が内地に帰ってきたが、元職業軍人は公職追放令のため、日本の官庁には就職出来ないため、検閲局に検閲係として就職する人が増加した。同じ時期に就職したもの多くは班長に昇格した。私は班長のなかで最古参であった。各検閲班は一名の事務員、十名の検閲係員と一名の班長で十二名一つの班が構成され、監督沖西氏は五班を管理していた六十名の管理者であった。
 二十一年六月に沖西氏は米国ハワイへ帰国することになった。このとき沖西氏の後任として私が任命された。私は中学卒、年齢十九歳二ヶ月で、私より学齢と年齢が上の人を指導、監督するというポストは、日本では考えられないことであるが、これは私にとっては大変な訓練となった。
 検閲係が朝九時より午後五時まで実質七時間労働で読む手紙の量は百五十通から二百通程度で六十人の課では日に一万通の郵便物の点検である。
 郵便物を検閲してレポートが三件の人も、また十件の人もいるが、検閲済みの郵便物を再検閲課の抜取り検査で、レポート漏れが発件されると「故意に見逃した」と判断されれば解雇となる。このため成績が悪い検閲係員を放置するとは、きわめて危険であった。手紙の中に必要とされる情報が、どの程度あるかは不明であるが、確率ということで成績が悪い検閲係を説得した。課全体としてはレポート数が平均八通とすると、三通しかレポートを提出できない検閲係には、確率ということを説明する必要があった。
  航空機整備士というのは理工科系統である。郵便物を検閲する速度とレポート数との間にはある数学的な法則が発生するのではないか、というような問題意識をもっていた。検閲班長を含めて六十人の配置計画は私自身に任されていたので、このなかで二名の検閲班長クラスのものを選び、業務研究班として郵便物を読むスピードを変化させ、レポートとの件数を調べることにした。
 縦軸にレポート件数、目盛りを十五程度まで、横軸に一日に読む郵便物の数量の方眼紙にプロットするわけである。郵便物を読む数量を増加させると、これに比例してレポート件数は多くなるが、次第に右上がりの直線が下方に曲がり、横ばいとなり、そして下降してゆく。放物線を描いているようである。放物線の方程式にこれらの点で代表できる曲線の方程式を試行錯誤により求め、これを二次微分すると、レポート件数が多い郵便物検閲件数が測定できる。
最適解は百二十通の郵便物の検閲で八通のレポートが期待できるという数値を入手した。
 「郵便物はゆっくり読んで下さい」という業務方針となる。年少者が管理業務を行うには統計などを利用した科学的な管理方式が効果的であると感ずるようになった。これらの手法はオペレーシヨンズ.リサーチ(OR)と呼ばれる手法で、これがORであると知ったのは、これから十三年後であった。

2009年1月23日 (金)

D03 オペレーシヨンズ・リサーチ的志向 3 阪急入社米軍基地内業務

二十五年六月に朝鮮戦争が勃発、米軍兵士は朝鮮に出兵していたが、帰国は長崎県佐世保の米海軍リロケーシヨン・センターに一旦集結し、軍用船で米国西海岸へ輸送されていた。国際間の旅行では米本土以外で米本土間の航空券を購入すると、通行税の一割が免除されるという特典があるため、朝鮮から輸送船が佐世保へ到着するたびに社員を出張させていたが、私が阪急に入社した二十八年四月には佐世保基地への出張も減少していた。
 入社して間もないころ、雁ノ巣基地空軍憲兵隊の知合の曹長にセールスにゆき、米国航空会社の米国本土内の航空券を発売したことがあつた。私は阪急に入社する以前はこの空軍憲兵隊に二十五年十一月より二十八年三月まで勤務していたが、米軍基地勤務の経験がセールスにはプラスであった。航空会社や航空旅客代理店の社員では、日系二世や戦後米軍関係に勤務していたものも多いようである。
 阪急福岡営業所長吉田氏と次席の安藤氏は佐世保基地に代わる海外旅行のマーケットとして、米空軍板付基地(春日原)輸送部隊内に阪急福岡出張所を開設するように米軍側と交渉し、二十八年秋には板付基地輸送部隊内のカマボコ兵舎に出張所が開設された。一年間は安藤氏と私とが交代で勤務した。出張所での主な仕事は帰国する米国軍人に対する米本土内の航空券の販売と、日本国内で出張する軍人に対して、日本航空の後払航空券の発売であった。
  家から西鉄急行電車で春日原の出張所に出勤し、午前九時より営業を開始し、来店する顧客に対して用件を尋ね、国内出張なら日本航空の国内航空券を発行、また帰国する軍人軍属にたいしては米国本土内航空券を販売、代金を受取り、午後四時すぎ閉店した。営業が終了すると、福岡市東中洲の福岡営業所に帰り、売上金を所長に渡していた。これが日課であった。
  私は米軍の下士官教育管理プログラム(MTP)を勉強することとした。このMTPプログラムはそれから数年後、日本生産性本部などで管理者教育プログラムという名称で採用された。統計学、推計学などの勉強をし、東京へ転勤する場合に備えての自己研修を行った。

D04 オペレーシヨンズ・リサーチ的志向 4 航空代理店業務分析

 日本で経営学がブームとなったのは昭和三十二年ごろであった。 オペレーシヨンズ・リサーチ(OR)」という本を購入した。サブタイトルとして、「企画と運用」と書かれていた。
   
この内容にヒントを得て三十三年春より私が担当した海外旅行業務をこのORの手法により事例研究を行った。担当はセールスであるため会社で勉強することは出来ないので自宅に帰って研究した。自己の業務を学術的にまとめおく必要性を感じていた。
  内容は次の通りである。
  海外旅行現状分析 
 旅券発給で全国、福岡、自社取扱目的別構成比
 渡航者種別代理店手数料の期待値
 過去三年間における渡航者種別集客率
 福岡、山口、熊本県の米国渡航者数の推定
 福岡県の旅券目的別交付件数と永住と一時渡航 
海外旅行者の季節変動傾向の解析
 旅客受付~出発の平均日数計算とモデル
 福岡地区取扱分析
 JTB、西鉄、日通、日航支店の取扱実績
 九州、山口地区の旅客獲得ルート模型図 
 外務省発給旅券種別(三十二年上半期)統計
商用業務渡航の渡航先百分率統計
日銀福岡支店での円払申請件数分析
  福岡営業所の業務分析 
福岡営業所の労働投下時間、経費、収入分析
 海外渡航手続中の件数変動(33年~35年)
⑮ 
各県別出身者の来店数の推定   
 市場調査 
 山口、福岡、熊本各県での集客争奪統計
 移民県(日本全国)の渡航者分析
永住渡航の旅券交付件数と人数の割合
日本人の米国への渡航、交通機関別統計
月別代理店の日航売上高
  情報理論
  オン・オフシズーン
  営業政策
  渡航手順問題
  管理方式
一○   情報収集 など
   昭和二十八年四月に入社しているが、電鉄では入社して八~九年で係長に昇格する。このとき、福岡での勤務を希望すれば、福岡営業所長、転勤を希望すれば貨物管理部門への転勤となる。研究した事項が、営業所長になても、また貨物部門転勤しても役に立つ方法を考えた。

D05 オペレーシヨンズ・リサーチ的志向 5 海外旅行サービス分析

   福岡は東京と比較して市場は狭いが、海外業務でのマーケッチングでは、いろいろな種類の仕事が発生していた。海外旅行業務で自分が取扱った渡航者を綿密に分析し、旅行業務でのマーケッチングの研究を行った。
  渡航者の渡航先、交通手段、旅行費用の支払が私費か公費か、渡航者の職業が、大学教授、医師、留学生など性別、年齢、学歴、渡航者の住所、国籍などと旅行費用、旅行者のサービスに対する考えなどを綿密に分析してサービス業というものを計数的に研究した。 海外旅行手続で顧客には十回程度、面接しており、また顧客の経歴は旅券や査証申請等から判明されることであった。会社の収益が高い顧客、サービスにたいして感謝をする顧客がおり、会社の収益が高い顧客、サービスに対して感謝する顧客、この二つの関連でサービス業は成りたっていると思った。縦軸に会社の収益、横軸に個人の収益、これは時計の方向に回って行くということを考えた。①会社の収入は低く、個人の収益も低い。②会社の収益は高く、個人の収益は低い.③会社の収益は高くまた個人の収益も高い。④会社の収益は低いが個人の収益は高い。

海外旅行サービス分析
 

 

E01 航空混載貨物 1 転勤特命事項混載差益配分理論研究

  昭和二十八年四月より阪急電鉄㈱代理店部(後の阪急交通社)福岡営業所で旅行係に従事し、三十六年七月に東京主管営業所東京貨物課勤務の辞令を受け取った。英文科出身は海外旅行業務が適職で、貿易実務、通関業務の知識を必要とする貨物部門への転勤は、代理店においてはきわめて異例の転勤であった。
   
東京に転勤の途中で大阪の交通社本社に立寄った。総務部長より特命事項として、航空貨物混載差益の社内配分のための方程式の設定、研究を指示された。日本より海外の主要都市に対して航空貨物の混載便を仕立てるため、三十三年にJFC(ジャパン・フレート・コンソリデーターズ)を阪急、南海、東急、名鉄の四社で設立し、翌年、大和運輸がJFCグループに加盟した。
 貨物を数社が混載にすると、混載差益が発生するが、その
配分について、各地営業所間またJFCパートナー同志でも揉めており私が転勤する直前に大和運輸が差益配分を不満として、JFCグループより離脱した。これは会社として放置できない問題となった。
   このため誰でも納得できる利益配分の研
究という特命事項が与えられた。私が旅客係で統計学を研究していることを三十三年に福岡に業務視察をした鷹峰課長が知っていたために、このような研究が転勤時のテーマとして与えられた。
   この差益の配分は集荷重量による運賃の逓減割引があり、貨物の集
荷によって発生する混載差益は、これを貢献している要素により配分されるため、貢献している要素は何であるかを理論的に突き止める必要があった。この研究は公共料金である航空貨物混載運賃の設定と密接な関係があったので、私の大きな転機となった。

E02 航空混載貨物 2 混載差益配分理論の提案

三十六年八月に東京貨物課へ転勤したとき、課長は吉田茂夫氏、輸出一係長は三上氏、輸出二係長は国府氏、輸入係長は三木氏で、私は現業部門に属さないで課長直属で、雑事を担当していた。
 三十七年四月に職制変更があり、国際業務部が新設された。場所は有楽町の国電ガード横の電気ビルであった。第一課は海外旅行を担当、第二課は外人旅行を担当、第三課は航空貨物を担当し、課長は東京貨物課輸出二係長の国府氏が昇格し、第三課貨物係長は東京貨物課所属の私が昇格した。  第一課は海外旅行部門であるため航空会社から配布される資料や旅行企画の印刷物など各地営業所に定期的に配布する資料が多く十人程度のスタッフがいたが、第三課は新設の課であり、航空会社から配布される資料が少ないため、スタッフは課長と係長の二名の陣容である。
  最初に課長と相談し、代理店会などの出席のように対外的な業務は課長が担当、社内的な雑事は係長としての私が担当するように仕事の分担を決めた。各地の営業所に配布する研究資料の作成は私が担当することにした。  転勤に於いての私に対する会社の特命事項は混載差益配分方式の合理な設定であった。この命令は上司としての国府課長は受けていないため、私の責任においてこれを行った。四月二十八日に貨物部門の全国営業所長会議が開催された。混載差益の配分方式の変更が主要テーマであった。吉田課長の上司は企画室長の鷹峰部長で全国会議での議長あった。 この会議の開催に備えて、他の航空貨物混載業者が採用している混載差益配分方法を方程式に組み替え、各々の特徴と矛盾点とを方程式から展開し、これを解りやすく説明し、直接、原価計算方式により方程式を開発した。これを研究報告シリーズに書いて、事前に各地営業所に配布した。方程式により混載差益が発生する要因と営業方針を説明した。
 Y----混載差益       ----受取混載運賃
 B----支払航空運賃 W----重量
方程式 Y=A-B  ・・・・・・・・・・・(1)式
            
Y=W(A/W ― B/W)・・・・・・(2)式.
方程式は中学一年程度のもので、これから混載貨物営業方針を展開させた。これは各担当者の考えと一致するため、会議で承認された。私が研究してきたオペレーシヨンズ・リサーチの数学的モデルであった。転勤時、会社よりの特命事項を達成した。

2009年1月24日 (土)

E03 航空混載貨物 3 研究レポート作成

  福岡で海外旅行業務を8年従事し、同一企業内転職で、東京貨物部門に転勤したのが36年8月であった。それから2年間、自分で研究し、レポートを作成したのは、下記に項目であった。

 題目

01 航空貨物混載差益配分方式について

02 混載差益(単独混載)社内配分方式について 

03 貨物販売担当を対象とするモラルサーベイ調査報告

04 混載差益配分方式の矛盾について

05機能調整型職能組織と貨物課の自動制御 

06セールスマンと原価意識について

07 能率化、すなはち、無駄を省くことについて 

08 混載レート、二・五トン以上の廃止に伴う状況分析

09 特定品目大口割引料率について

10 混載の組み方について

11 ジョイント間の2199品目の混載差益配分について

12 混載差益金算出方式について(新)

13 混載差益収入見積

14割戻金の限界点について

15混載差益損益分岐点の検討(実績による)

16ゲームの理論とリベートについて

17セールスマンの考課の資料としての貨物取扱件数と重量

18シドニー混載スペコモ品目の組合せの限界点

19輸入未収金の分析

20輸入貨物の処理と在庫管理

21セールス・リード・スリップ制度について

22シカゴ向け混載の現状について

23スペイン・マニラ・南ア向け貨物件数・重量統計 

24 シカゴ混載の改善について

25 欧州混載仕立方式について

26 混載差益について

27混載の計算方法について

28JFC・当社間の業務組織改善に関して

29 JFCの代理店コミッシヨン制について

30 混載と一般貨物との利潤について 

31 販売管理について

32 顧客の新陳代謝について

33 各地営業所ニューヨーク混載重量別度数分布について

34 バイヤー・リストについて

35 JFC代理店コミッシヨン制移行での原価計算

36 欧州混載の原価計算

37 香港・シドニー混載の原価計算

38 シカゴ・カナダ・米国西海岸混載の原価計算

39 JCF代理店コミッシヨン制での損益計算

40 各社別混載(月別)重量統計

41 ニューヨーク混載貨物の取扱品について

42 コミッシヨン制に伴うセールスレポートについて

43 IATA貨物運賃改定にともなう新運賃体系について

44 IATA決議事項に関する状況分析

45 当社扱い混載差益収入実績について

46 ニューヨークセールスに関して

47 外国郵便小包を混載に吸収するための検討

48 貨物部門の販売拡大の目標について

49 JFCコミッシヨン制度における損益計算について

50 割戻・値引の対象となる収入金について

51 JFCコミッシヨン制度と運賃適用について

52 JFC混載の各地営業所における重量規制について

53 JFC混載の全貨物よりみた占拠率について

54 JFC混載の全仕向地、一月の営業所の収入について

55 JFC混載昨年一年の北米重量分布について

56 貨物バイヤーセールスについて

57 JFCコミッシヨン率の再検討について

58 IATA貨物レート改定による混載差益の減収について

59 運賃改定と混載差益配分方式について

60 貨物新運賃体系発効に備えての値引・割戻の対策

61 運賃改定の具体的影響について

62 輸入業務の現状について

63 JCF米国・カナダ向け昭和三十七年度実績について

64  欧州向けスペコモ混載仕立の可否について

65 チャーター機による混載貨物輸送について

66 国内混載貨物(東西航空)について

67 混載レート改定案の検討(その一)

68 混載レート改定案の検討(その二)

69 混載におけるインターメヂエイトアプリケーシヨン

70 混載業務改善とその効果について

71 JFC運賃とコミッシヨンの関係

72 貨物部門の情報網とJFC審査機構について

73 JFC代理店手数料率改定について  

74 三社ジョイントにおけるプール計算について

75 修正コスト方式の問題点について

76 値引割戻するときの簡単な原価の決定方式について

77 混載における重量貨物の意義について

78 修正コスト方式と割戻との関係について

79 シカゴ向け混載の改善結果について

80 B・B契約レートについて

81 混載差益配分と営業政策について

82 JFC混載(欧州)の45K以上の差益配分修正

83 輸入業務の現状

84 三社ジョイントのプール計算について

85 マルプラクチスと利益配分について

86 各社別混載重量統計(月別)

87 ニューヨーク向け繊維品の混載促進と差益配分について      

88 カナダ向け混載促進と差益配分について

89 コスト方式と重量方式との企業競争について

90 ジョイント配分方式の変更について

91 輸入貨物の未収金の分析(その二)

92 混載レートとリファードレートについて

93 ニューヨーク駐在員事務所経費と分担について

94 件数・重量・運賃比三乗根配分方式の解明

95 JFC運賃とコミッシヨンの関係について

96 混載レートとフリーゾンについて

97 シカゴ混載の現状について

98 輸出貨物の経費と収入の測定について

  以上
  混載業務がスタートしたのは昭和33年で、「航空貨物混載」とは何か?揺籃期において

実務を観察しレポートを作成、貨物部門に配布した。

E04 航空混載貨物 4 航空混載貨物理論

   航空混載貨物というのはどんなものか?航空会社の重量段階別に運賃を仮に設定し、これに5%値引きした混載運賃を設定する。集荷貨物重量を、10㌔、40㌔、100㌔、200㌔、500㌔、600㌔などを設定、ここで荷主より受け取る運賃を計算、混載貨物として、1450㌔の貨物となり、航空会社へ支払う運賃が計算される。航空会社~頂く代理店手料は5%である。混載貨物運賃収入と航空会社へ支払う運賃の差額が発生する。これが混載差益である。この分配方法には色々の関係があるが、重量で配分するか、支払い運賃で配分するか?考えかたで色々分かれる。机上の計算で、混載というものがどんなものか?判明する。
    私は航空貨物代理店から独立して自営業を開始した。混載業務を勉強したことは、SOHO業者としては、大きな業務経験となった。混載理論をホームページに登録していたので、これを紹介する。
  航空貨物混載理論

E05 航空混載貨物 5 航空局への運賃申請業務

昭和三十八年一月より貨物部業務係長となった。上には課長はいなく下には社員ゼロの係長であった。IATA航空貨物運賃の改定が運輸省に申請された。

  高重量段階の貨物運賃が廃止されると、混載業者は航空会社への運賃支払がアップし、混載差益収入が減少する。このため申請が却下されるように航空局に陳情していたが、申請が承認されるようになると、混載業者は新IATA航空会社運賃に準拠した混載運賃の設定が必要となった。
 
私は業界の会議の席上、欠損する貨物を混載市場から淘汰すれば、欠損の幅が少なくなるという、オペレーシヨンズ・リサーチにおける「ゲームの理論」を披露した。
 
小重量貨物を混載に吸収せんがため航空郵便小包と競争することは、ここで大きな欠損が発生するため、現行の最低料金という考えを廃止し、すべて最低重量を設定、これには仕向地ごとに原価計算を行必要があり、方程式が必要であるとともに、新しい混載運賃の設定による損益予想、調査、集計方法などが発生する。この案を出席者は名案として賛同された。始めての混載業界会議での出席であったが、専務理事は西日本鉄道㈱航空部の長岡部長は、私に混載業界運賃専門委員会に出席し運賃改訂作業に協力するように要請された。
 当時、国際利用航空運賃事業者が設定する混載運賃は、運輸省の認可運賃で、公共料金である。全業界の統一運賃であるため、混載業者JFCが申請する「航空運賃」での補足説明に原価計算の方程式を添付したが、他の混載業者の原価計算は不要であつた。
 航空会社の運賃改定申請は認可され、三十九年五月十五日より発効した。この航空会社の運賃にもとづく混載運賃は認可され、七月一日より発効した。これにより混載運賃設定では私の研究が採用された。
 
昭和436月に国際航空貨物需要予測委員会委員が設置され、官庁および業界で三十一名が委員として委嘱された。航空輸送経済専門家で構成された委員会であるが、私が委員に選ばれた背景には、混載運賃設定理論というのも考慮されたと思われる。

2009年1月25日 (日)

F01 海外旅行業務から航空貨物へ転勤 1 終身雇用のメリット

 還暦の一年後から古希まで、国際観光専門学校東京校のコンピユータ実習非常勤講師を委嘱された。この学校には観光学科、国際ホテル学科および航空輸送学科(航空貨物)があった。学生数は観光学科が100とすると国際ホテル学科は40.航空輸送学科は10の比率で圧倒的に旅行会社への就職希望が多い。
   専門学校の教育方針としては、就職に有利な各種資格の取得、とくに国家資格となるもの、観光学科では一
般旅行取扱主任や航空輸送学科では通関士、また語学検定試験、二級や三級なども重要とされている。 大学英文科を卒業し八年間、海外旅行旅行業務に従事、数ヶ月以内に係長となるものが、東京の貨物部門へ転勤するということは、専門学校の学生には不可解な転勤であろうと思われる。
   年功序列、終身雇用、学歴重視の会社では大学を卒業していていれば、八年ぐらいすれば少なくとも係長にはなれる。これは給料が保証されていれば、同じ会社で仕事を変えても、当初、仕事ができなくとも、大目にみてもらえるという安心感があった。同一企業内転職というチャレンジが可能であった。
   福岡の海外旅行担当者の転勤における
特命事項として「航空混載貨物差益配分方法」である。これは利益の配分方法の研究で営業部門の編成とも関連する業務であった。
   私は荷主が航空と海上との輸送手段をどのような根拠で選択しているか?これを会社より帰宅して研究していた。会社で電算機の導入企画を担当するようになった。私の関心事は私の研究が電算機で処理できるかどうかであった。

   

F02 海外旅行業務から航空貨物へ転勤 2 新規業務の発見

 転勤において会社から与えられたテーマは航空貨物混載差益の配分方法であった。これとは別に、私自身が興味をもっていたものは、荷主がどのような判断で航空か海上課の輸送手段を選択しているか?「勘と経験」の要素が大きいので、心理額的な研究を始めた。
 
いままで、オペレーシヨンズ・リサーチという手法の実務応用の訓練を、米軍民間検閲局検閲管理業務、また海外旅行業務にも行っていたので、航空貨物分野でも応用したいと考えた。
 
会社では混載貨物業務の研究、自宅では、輸送要因分析を行った。また青山学院大学、経営学部夜間公開講座に出席し、オペレーシヨンズ・リサーチという講座では、「混載差益配分政策」、また、統計学の需要予測と需要分析では、「航空と海上輸送を決定する要因と比重」のレポートを提出、会社で電算機の担当者になったとき、これらを電算機化した。


2009年1月26日 (月)

F03 海外旅行業務から航空貨物へ転勤 3 電算機導入企画

 福岡の旅行部門から貨物部門に転勤した。二十八年に入社、貨物部門に配属された同期生は貨物の仕事で八年経験のベテラン社員である。貨物では貿易実務、通関業務などの知識が必要であるが、私はこれらの業務知識はゼロに近い。
  東京貨物課に配属され、半年後の昭和三十七年三月、国際業務部が新設され、第三課貨物係長に昇格した。上司には国府課長、部下なしのポストであった。この国際業務部は年末に解散となり、会社では事業部制が敷かれ、国内旅行部、海外旅行部、外人旅行部、貨物部、総務部が設置され、営業部門では業務課が置かれた。貨物部においては業務課を置かずに貨物部業務係とした。私は貨物部業務係長となったが、部下なしの係長であった。満五年間、部下なしの係長で、会社には人員の採用の申請を行わなかった。  

 定期的な仕事がないポストであり、貨物部門に必要な情報の作成というのは、航空貨物で何が必要か?の問題意識をもたないと書けない業務であった。
 
会社で電算機導入の問題が発生した。昭和四十年というのは電算機の揺籃期で、小型電算機でも毎月の使用料が、当時の課長の給料の約四倍で、多くの会社が躊躇するような時代であった。私の直接の上司であった鷹峰部長は総務部が計画していた電算機導入を貨物部が引き受ける交渉をし、定期的な仕事を持たない私に仕事が与えた。
   
電算機導入が決定されると、要員は新たにコンピユータ専門の社員を採用するのでなくて貨物部内の社員を養成するわけである。これには貨物代理店から混載業者JFCに提出されるセールスレポートを廃止し、混載業者から代理店に対して請求書(インボイス)発行、これにより代理店側のセールス作成業務を削減、ここで浮いた人員を貨物部門の機械化要員とし、電算機費用は阪急とJFCとで折半という構想であった。
  どんな貨物であれば代理店に35%、30%、20%、10%および6%を支払うかという業務を担当しているため、機械化すべき業務の内容を把握していた

 
電算機の管理において、私は国内旅行、海外旅行および航空貨物の経験があり、電算機を管理する総務部事務機械課を担当することになった。電算機の操作とプログラム作成の勉強をしていたので、航空と海上輸送での輸送要因分析を電算機化した。

F04 海外旅行業務から航空貨物へ転勤 4 英文誌に研究発表

  IATA航空貨物代理店は、日本航空や全日本空輸などの一航空会社の代理店ではなく、世界の国際航空会社の代理店で、航空会社の販売部門である。
  北欧三国の共同出資航空会社スカンヂィナビャ航空会社が、東京の代理店を集めて講習を開いたことがあった。航空運賃は海上輸送と比較した割高であるが、輸送に付随するすべての経費を比較すると航空のほうが有利な場合がある。
TOTAL COST CONCEPT
という考えかたである。この計算が手作業でコンピユータ化がされていないことに着眼してこれをコンピユータ化した。このようなものが、世界で最初のケースとして英文業界誌に紹介された。フルトハンザドイツ航空は自分の会社も研究しているということで、総流通経費分析システムについて情報交換するようになった。これは航空会社の大型コンピユータは航空機の運航、予約管理、機材管理が主な対象業務で、需要開発のためのツールの開発は、採算が取れ得ないと考えられていた。
 
航空貨物で企画業務というのは、その対象を探すのが困難であるが、貨物部門の未収入金管理のため導入した小型電算機の開いた時間を、航空貨物需要開発に使用するとき、最も経費が掛からない方法は私が担当することであった。 ここで阪急交通社での私のポストは総務部事務機械課長・貨物部企画課長兼務となった。これは阪急が他社に先駆けて、小型電算機を導入したためで、海外旅行業務から航空貨物への転勤、また英文科出身として英作文が活用できた業務であった。
 

2009年1月27日 (火)

F05 海外旅行業務から航空貨物へ転勤 5 転勤の思わぬメリット

 太平洋戦争勃発八ヶ月前に逓信省航空局米子航空機要員養成所入所、卒業したのが終戦の翌月の二十年九月であった。中等学校卒業資格が付与された。私は中等学校卒業資格で、終戦直後から就職した。働きながら専門学校、大学を卒業した。
   福岡の旅行業務から東京の貨物業務に転勤、貨物部業務係長となった。業界の研究会、会議出席などの業務があったが、航空貨物業務の研究、電算機導入企画などを担当した。大手航空代理店は、IATA旅客および貨物代理店を兼業しているので、国内旅客、海外旅客業務を経験してきたことは電算機処理に必要な業務の内容に明るいことになる。
    昭和四十二年二月より航空旅客代理店、航空貨物代理店で収入管理共同研究会が開催された。研究会は日本航空㈱東京支店の会議室を使用させていただいた。研究会は四部会に分かれれ、幹事は国際旅客部会では交通公社と東急航空、国内旅客部会では西鉄航空と名鉄観光、航空貨物部会では日本通運と近畿日本、機械処理部会では阪急交通社と三井航空であった。
   会議での検討事項を業界紙には発表する必要があり、国内、海外旅行、航空貨物、電算機の経験がある私が、広報を担当した。航空会社の電算機化の傾向を把握することが、代理店側にとっても重要であった。これは航空業界において知り合いが多くなるというメリットがあった。
   航空貨物混載業は、別名、利用航空運送事業で、航空会社が公示している運賃を基礎に、航空運賃を設定しており、これは航空会社の運賃と同様に認可運賃であった。業者、すべて同一運賃である。運賃申請の窓口が航空局監督課であった。私は方程式を作り混載運賃を設定していたので、従来と全く異なる方法であった。
   運賃担当の監督課専門官は私がどこの学校を卒業したか訪ねられたことがあった。ここで私が航空局航空機乗員養成所本科三期生であることが判明した。当時、監督課の隣は乗員課であり、課長の塚谷三彦氏は私のグライダーの教官であった。この関係を知り、専門官は大変驚かれた。
   昭和四十三年六月に、国際航空貨物需要予測委員会が設立された。成田国際空港貨物施設の規模を検討するには、これからどの程度、航空貨物が増大するか?これより十年後に成田空港が開港するが、私はキロ当たりの商品価格が、航空貨物需要を決定する鍵という研究を行っていたので、航空輸送経済専門家で構成される委員三十名の中に選ばれた。会社の一般社員の研究が監督官庁の目に留まることは極めて稀である。航空代理店で海外旅行の経験者が嫌がる貨物係に会社の社員としての将来性を発見した。
 
 

2009年1月31日 (土)

F01 貨物部業務係長 1 不況型管理部門

福岡の海外旅行係を八年従事し、昭和三十六年七月、東京貨物課に転勤した。翌年三月、国際業務部が設立され、貨物係長となった。部下なし。三十八年一月、貨物部業務係長となった。上には課長はいなく、また部下もないポストであった。
  貨物部門に於いては誰か一人は、日常業務を持たない社員が必要であった。突発的な事態が発生すると、これを処理する係長であった。貨物部においては課長ポストを設置せず、貨物部業務係長とした。部長は私が、自分で勝手に仕事を探しているため、課長を置くことは、無駄と判断した。また私の下には部下はゼロであった。
  私は仕事がなければ、貨物部門に対して、航空混載貨物についてレポートを作成、これを各地営業所に配布していた。貨物部門における最大の「ドル箱」の混載差益配分政策にタッチしており、これは貨物部門の予算編成にも間連していた。
  課長は管理職、係長は組合員である。係長は超過勤務をしないと食べられない。このハングリー精神が、管理職よりも勉強するようになる。この部下なしの係長が満五年間継続された。

F02 貨物部業務係長 2 閑職時夜間公開講座出席

  昭和三十八年一月、貨物部業務係長となった。仕事は暇であるので、この際、青山学院大学、大学院経営学部夜間公開講座に四月から出席することにした。夜間の専門学校に三年間通学したことがあり、働きながら学ぶことには慣れている。
   国際航空貨物運賃の改定問題では、国際的にも揉めて、私が航空貨物業界会議に出席する可能性もあると判断して、経営学を勉強することにした。次のような、講座に出席し、レポートを提出した。              
1  オペレーシヨンズ・リサーチ 国際キリス教大学久武雅夫教授
 レポート「混載差益配分政策」 八単位 優
2  統計学 需要予測と需要分析 森田優三教授
 レポート「航空と海上輸送を決定する要因」八単位 優
会社で研究したもので、大学院で単位を取る。これは仕事の上で大変プラスであった。

F03 貨物部業務係長 3 電算機導入企画兼務

   貨物の売掛金の回収が行われても、業務量が増大すると消込作業が遅れ、管理資料としては未回収となる。このため電鉄監査室より交通社へ電算機導入を勧告された。会社で暇な人間として私に「白羽の矢」が当てられた」。当時、電算機プログラマーは30歳までといわれていたが、プログラムの勉強を行った。これも兼務で私一人で企画を行った。
    海外旅行から貨物部門に転勤、技術がないものは、何か身に着けておく技術が必要と感じた。会社の仕事は売り掛け金の回収、私が興味があったのは、青山学院大学の公開講座に出席して単位をとったものである。この機械化も同時に行うことにした。

F04 貨物部業務係長 4 総務部事務機械長兼務

 昭和四十一年六月、阪急交通社で事務機械化委員会が設立され、私は委員になり、その下部組織として、事務機械化実行小委員会が設立、私は少委員会委員長となった。導入答申には、「富士通小型電算組織を使用して未収入金管理を行うことは可能」と書き、各委員の同意を頂いた。
   この時代、電算機は人員削減と関連しており、電算機導入により管理職の人員削減もありるので、経営の合理化とか意志決定の迅速というようなことは、組合員として係長が叫ぶことではないと判断した。
   小型電算機で、東京貨物課の経理部門の電算機化は貨物部内の仕事で、私は会社全般の業務である他の部門の電算機化は考慮外であった。
   電算機導入では経済的な小型、これを関会社と折半する考えで導入企画を行った。

  四十二年四月に阪急東京ビルに電算機が設置されることが決定した。これは、貨物部だけの問題でなく全社的な問題として、総務部事務機械課を設置した。その人選では暫定的な措置として、私が貨物部業務係長として総務部事務機械課長兼務となった。これから私の下に部下が投入されるようになった。 

F05 貨物部業務係長 5 電算機による航空貨物販売支援

 電算機は阪急と関連会社混載貨物のJFCとの共同使用であったため、JFCの機械化がすすめば、代理店としての省力化が促進された。私は貨物部業務係長を兼務しており、電算機によって航空貨物開発が可能で、昭和四十二年七月より、SAS航空会社が開発したTotal Cost Comparisonを電算機化し、これを英文業界紙に発表した。それから一年後、ソニーはコンピユータによる航空輸送経済研究は興味があるとして、阪急に講義を依頼された。その代償として、ソニーの航空貨物の一部を阪急が取り扱うようになった。当時の代理店業界では、コンピユータで顧客を獲得したということが噂になった。これから数年後、私はソニーの輸出部門であるソニー倉庫㈱の嘱託、ソニーのマイクロ・コンピユータの特約店となった。

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