ソニーのマイクロ・コンピユータの特約店となった私はソニー倉庫㈱に出社した折に、ビジネスマシン㈱の特約店担当課長にソニー倉庫で面談していたが、私はソニーの作業服を着用しており、ソニーの嘱託が特約店も兼ねているという印象を与えた。倉庫の常務はかって担当課長の上司であったので、特に目をかけてもらった。
サラリーマンから独立した私は、マイクロ・コンピユータの特約店という考えはなかったが、個人がビシネスを行うには知識というものよりも、機械や消耗品の販売のほうが好ましいと考えた。会社を退職して自営業を行う場合、取引の上から信用を取付けるため株式会社組織は不可欠であったが、ソニーの特約店は個人の資格で官庁や大手企業に取引ができる機会が与えられることになった。
日通総合研究所より関税の部分申告のプログラムをソニービジネスマシン㈱に照会されたとき、特約店として私が担当することとなった。私はソニー製品の輸出部門であるソニー倉庫㈱の航空チームの嘱託であり、航空貨物業務研究での航空と海上との流通経費分析には関税の計算が含まれるので、この分野のプログラムには明るいと思われ紹介された。
研究所は社員として私と妻の二名の小規模業者であり、訪問販売を行ってもなかなか成果は上がらないと思っていたが輸出入に関連する業務を取扱っているところが、私の販売先になってきた。航空貨物業務研究というのがコンピユータ・ビジネスの突破口となった。
㈱日通総合研究所は秋葉原の日本通運本社ビルにあり、日本通運㈱航空事業部もこの本社ビルにあった。阪急交通社在職時代において、日本通運㈱と阪急、西鉄、近鉄などと航空貨物の共同混載で業務提携をしており、共同混載業務の差益配分交渉においては、日本通運本社の課長ともよくあっていた。また阪急が航空混載貨物業界の専務理事会社を担当していたとき日本通運㈱とは関連があり、航空事業部の部課長には知合が多かった。
四十三年度の国際航空貨物需要予測委員会委員には、日本通運㈱航空事業部業務課長が航空貨物代理店会を代表して参加され、また日通総合研究所の主任研究員が委員とした参加されていた。この面識がある二人のルートからも口添えしてもらって、コンピユータ部門にアプローチした。プログラムは総合研究所の担当者と相談して開発し、ソニーマイクロ・コンピユータを日本通運東京支店に納入した。数ヶ月後に横浜海運支店にも納入した。
機械の記憶容量は十二メモリーでプログラムバイト数は二百五十六ステップであった。これが現在のパソコンの元祖にあたるマイクロ・コンピユータであった。機械は本体が一台、四十九万八千円、プリンターが一台、十八万八千円、合計六十六万六千円であった。
特約店になってからのマイクロ・コンピユータ販売の第一号である。輸送業界での最大手である日本通運株式会社と取引ができたことは幸運であった。
コンサルタントという業務よりも機械を販売する仕事のほうが、利益率が高いことを認識した。
当時、特約店は文具店や事務機械の販売店が多く、統計計算、学校、測量などの分野でソニーが開発していたパッケージプログラムにより、機械を販売していた。私は統計計算では他の特約店と競合するため、競合しない事務商業用のプログラムの開発を狙った。一般的な常識ではマイクロ・コンピユータはコンピユータを導入できない中小企業に需要があると思われたが、私はむしろ大手企業に需要があると判断した。