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2009年2月

2009年2月 1日 (日)

G1 依願退職事情 1 電鉄出向社員打ち切り

 ㈱阪急交通社で海外旅行・航空貨物のIATA代理店のライセンスを取得したのは、終戦の3年後の昭和23年であった。最初は阪急電鉄㈱代理店部としてスタートし、これが35年に阪急交通社となり、電鉄社員として出向となっていた。
  43年の時点では阪急交通社の社員は千名程度と思われるが、出向社員は151名であった。出向社員が電鉄に引き揚げても、交通社の経営に支障なしという判断で電鉄と組合側との協議により、44年3月末で、出向社員の打切が実施された。電鉄に復帰しない社員に対しては、退職金が支払われることになった。
   当初、私は阪急交通社に残ることにしていた。私が研究していた航空貨物輸送経済のコンピユータ関係資料を、米国の航空機メーカーマックドナルドダグラス社へ送付したところ「米国籍の取得を前提とする就職の招聘状」が送られてきた。私の研究は航空機メーカーが航空会社へ航空機を売り込むためのツールとなることを事前に知っていた。
  総務部事務機械課長と貨物部企画課長兼務というのは職制上、異例の処置で、いずれ、貨物部企画課長のポストは解かれ、総務部事務機械課長専任となることが予想された。大阪が本社であるため、転勤問題が発生するが、私は管理部門よりも航空貨物需要開発に進みたいと考えた。
   

G2 依願退職事情 2 永住渡航査証申請

 福岡営業所で米国永住の渡航者100件ほど取扱ったが、米国への就職を目的とした渡航は、永住査証の申請となり、非割当移民の枠内で査証が許可になる。航空機メーカーへの就職は、かなりの優先権があると思われるが、許可になるまで約10ヶ月かかる。この間の生活費を稼ぐ必要があぅた。
   査証が発行されたとしても、胸部Ⅹ線写真で影が発見されると、「待った」がかかるため、これは大変な賭けである。また内定取り消しというのも視野に入れる必要があった。
   ここで私は二面作戦を行った。米国に渡航できなかった場合と、渡航が実現した場合を想定して、「坂本システム研究所」を設立した。富士通コンピユータ特約店の社長にお願いして、渡航までの期間に限定して「顧問」にしていただいた。また、航空と海上との総流通経費分析システムの受託の販売を行った。一件、申込みがあり、これで経営を維持した。
   米国貨物航空会社フライング・ターガーは44年9月15日、太平洋線に乗り入れを開始した。この会社の専門職社員契約を行った。厚生年金加入の社員で、給料は一般セールスマン並、会社に出勤しなくともよい、副社長付きマーケッチング担当であった。海外出張が多いポストで、米国へ出張するとき、永住査証の申請を撤回した。
  43年夏、同航空会社の本社から担当課長が来日、航空貨物市場調査を行った。私は電算機を使用して日本から海外各方面別の需要予測を行った。このため、日本の貨物事情に通じているという判断で、専門職社員に登用された。同航空会社はDC8-63F 貨物専用機を23機保有しており、私がダグラスからの就職内定を受けていることを評価されていたようである。 

G3 依願退職事情 3 混載業界専務理事会社

   航空会社が設定する貨物運賃を基礎に混載運賃を設定している業者が、国際利用航空運送事業者で、NEC、JFC、JAC、UAC、TACなどの業者がある。大きく分けて電鉄系、陸運系、海運系、外資系があぅた。航空会社の高重量運賃段階で、従来あった7,500㌔、2,500㌔、1,000㌔などが廃止されると、混載業者の差益収入は減少するため、業界の専務理事会社というのは、これに対応できる研究が必要であった。昭和39年7月1日に発効した混載運賃には、私の研究が可なり採用された。当時の専務理事会社は西日本鉄道㈱で航空部長の長岡氏が担当、39年11月より、専務理事会社は阪急交通社にバトンタッチされた。阪急では私の上司の鷹峰貨物部長が専務理事の仕事を担当したため、部長のスタッフとして、業界の会議の進行役の仕事が与えられた。
 

G4 依願退職事情 4 代理店収入管理共同研究会

   中高年層が転職するとき、就職に有利な条件としては、社内外に多くの知り合いをもつこととされている。
   昭和四十二年一月、日本航空㈱東京支店真野収入管理課長が、各代理店を回り、収入管理合理化共同研究会の必要性を説かれて、研究会が発足した。海外旅行、国内旅行、航空貨物、コンピユータの四部門からなり、大手代理店が三十社程度、会員となった。研究会は日航東京支店の会議室を貸していただいた。私はこの会の世話役であったので、業界紙の取材にも協力した。
    代理店の課長クラスの人々と顔なじみになったので会社をやめてマイクロ・コンピユータの販売を行うとき、これは大変プラスになった。

G5 依願退職事情 5 需要予測ソフト  

  フライング・タイガー航空会社本社から航空貨物市場調査で、代理店担当課長が来日した。私は日本からの航空貨物の方面別需要予測で「最小自乗法」のプログラムにより予測数値を提供した。これが会社退職後、航空会社専門職社員となるきっかけとなった。
  富士通の42年夏季、ユーザー大会で知り合った中央電算研究所社長に、需要予測予測プログラムを提供した。これが縁で阪急退社後、研究所の顧問となった。
   業界紙から海外旅行や航空貨物のデータを提供して貰い、需要予測を行い、二部印刷し、一部を業界紙に贈呈、一部を会社用として使用した。
   業界紙の記者の紹介で、ビジネスになったケースが多かった。英文業界は私が書いた航空貨物の記事を無料で掲載してくれた。金銭的な授受なしの[GIVE AND TAKE]の取引であった。
  43年6月に、航空振興財団昭和43年事業として国際航空貨物需要予測委員会は設立された。この委員に中にソニー、三井物産、日本通運、日本航空が選ばれていた。私は阪急交通社貨物部企画課長として委員に加えられた。需要が伸びている時代は需要予測というのは関心があった。
 
 
 

2009年2月 3日 (火)

F1 脱サラ開始 1 公的な資格問題

  中高年層が会社を退職して新しい仕事に就く場合、公的な資格をもっていることが再就職に有利な条件とされている。国家資格となる公認会計士、税理士、中小企業診断士など、試験に合格するのは至難の業である。
  私は戦時中、航空機の整備工学を学び、また、戦後は米軍に六年以上勤務しており、学校は英文科であった。航空界での仕事に従事してきた。自分が属している産業界で仕事を見つけることが賢明と判断した。

   昭和四十三年六月に航空振興財団の四十三年度国際航空貨物需要予測委員会が設置された。委員には経済企画庁、大蔵省、運輸省、空港公団から十四名、三菱商事、三井物産、ソニー、日本通運、日通総研究、日本航空などから各々一名、合計で三十一名の委員会であった。これは航空輸送経済専門家の集まりであった。この委員会に私が選ばれたことは極めて異例と思われる。これはある意味で国家資格というような性格を帯びている。
  四十四年二月十六日、航空局監督課主催で国内航空貨物運賃専門委員会の研究会が開催された。会社を退職する社員に監督官庁が講師を依頼することは異例のことであるが、航空混載貨物は公共料金で監督官庁に運賃申請を行い、その事由を私が書いた。この書類が航空局監督課に保管されていたので講師を依頼されたと思われる。
    会社を退職した翌月の四十四年五月二十六日、富士通のユーザー大会が大手町の経団連会館で開催された。四十四年度発行のEDP論文集より十名程度選ばれた。私は「航空および海上貨物輸送総流通経費分析」を発表した。五月一日より富士通の特約店の顧問となったが、富士通ユーザーでの論文集への掲載というのは、転職において、業務経歴を立証する資料ともなった。

F2 脱サラ開始 2 副業ビジネス

   会社を依願退職した翌日、米国大使館に米国永住渡航査証申請を行い、米国、ダグラス社へ、入社願書を提出した。査証が発行されるまで十ヶ月かかるため、その間の生活費を捻出するため、坂本システム研究所を設立した。
 五月一日に㈱中央電算研究所の顧問となった。阪急在職中、電算機のシステム設計とプログラム作成の経験があり、万が一、米国での就職が出来なかったとしてもコンピユータのセースルマンとして活動する考えであった。
 六月に、海外旅行の会社が、航空貨物のIATA代理店の資格を取りたいとのことで、新しい航空貨物販売手法として、「航空と海上貨物の総流通経費分析」の開発を注文された。私が受注して、私の顧問先に、機械処理を依頼し、電算機使用料を払うわけである。また、
業界紙から投稿を求められると、これを書き、原稿料収入の支払いを受けるわけである。九月十五日より米国航空会社フライング・タイガーの専門職社員となった。
 税務署には青色申告事業主としての届を行った。このため厚生年金加入の航空会社社員の給与所得、その他の事業として、コンサルタント、原稿料収入、ソフト売上収入が発生した。副業ができる脱サラ業者となった。
   

F3 脱サラ開始 3 航空会社副社長付に登用

   昭和四十四年五月一日に坂本システム研究所を設立した。それより八ヶ月前に、フライング・タイガー航空会社東京貨物支配人西山氏が、本社から航空貨物市場調査に来日した販売代理店担当課長ハーマン氏を伴って、阪急交通社を訪れた。私が面接した。代理店や荷主をまわっれもあまりよい資料がなければ、再び来社されたいと伝えていた。業界紙から提供されたデータに基き、コンピユータ処理を行い、これを同課長に無料贈呈し、丁重な感謝の手紙が送られたことがあった。
  フライング・タイガーよりの感謝状

  四十四年六月に西山氏から、この度、本社から就任してきた副社長兼極東支配人ジョージ A.ゼトラー氏が私に会いたいとのことで会社に参上した。ゼトラー氏は私が作成した航空貨物需要予測データを携行されていた。最初に各代理店の集荷状況のレポートであった。これは航空会社が、どの代理店を回れば、何トンの貨物を集荷できるか?の数字で、私がもっとも詳しい思われた。
   同航空会社の本社は、ロサンゼルスでマックドナルド・ダグラス社は、ロングビーチであった。当時、ダグラスDC8-63Fを二十三機を保有しており、私はこの会社に就職するため待機中であり、四十四年九月十五日より太平洋線に週六便を運行することが決定していた。
   最初は、同航空会社よりの研究の注文では毎回、見積書を提出していたが、本社に承認を得るのには面倒であるため、毎月一定額を支払う契約に署名されたいという提案であった。
Professional Employment契約であった。金額は月額十二万円、夏季手当は一ヶ月分、冬二ヶ月分、厚生年金加入。海外旅行は
航空会社社員並みの割引あり。会社に出勤する必要なし。これは航空会社の社員の給料が主たる収入で、他の顧問や嘱託はその他の収入として計上するわけである。
   航空機メーカーに就職して、航空会社が必要とする航空貨物の研究よりも、航空会社の乗り入れのマーケッチングで、極東地域の総支配人の補佐のほうが好ましいと考えた。

F4 脱サラ開始 4 会社が社員に嘱託紹介

    フライング・タイガー東京貨物支配人西山氏から電話がかかり、ソニー倉庫㈱航空チームから私を嘱託に迎えたいとのことであった。これは非常に有難い就職の世話であった。航空会社として大手荷主に、海上から航空への貨物輸送を研究している私を紹介することは、プラスと判断された。嘱託というのは、
週一回出勤で五万五千円程度であるが、阪急交通社を退職する時点で、四回、ソニーに参上し、講義をしたことがあり、そのときの課長二人が、ソニー倉庫㈱航空チームの担当者になっていた。
   ソニー倉庫㈱航空チームの嘱託は、昭和四十五年七月から四十八年三月まで、二年半勤務したが、ソニーがマイクロ・コンピユータを発売した昭和四十六年七月よりソニービジネスマシン㈱の特約店となった。フライング・タイガー航空会社というのは、私には面白いチャンスを与えてくれた会社であった。

F5 脱サラ開始 5 新規進出航空会社の特徴

    太平洋線にはパンアメリカン航空、ノースウエストオリエント航空と日本航空との三社が、航空貨物争奪戦を演じていた時代、日本と米国間の路線の交渉は可なりの期間、解決されなく、航空業界ではパシッフィク・ケースと呼ばれていた。フライング・タイガー航空会社は米本土内の航空会社で、日本においてはセースル方法として、SEA AND AIRという海空連帯運送を行っており、日本での従業員の数も少なかった。
   昭和四十四年九月十五日、太平洋線に週六便の乗り入れが開始された。販売、搭載関係の従業員は揃っているが、極東地域、東京、大阪、ソール、台北、香港の各支店を統括する極東支配人兼副社長付きのマーケッチング担当で、コンピユータシステム開発ができるスタッフを必要とした。海外業務出張が多いポストであった。
   日本航空のような会社で本社が東京の場合と、フライング・タイガーのように中小の航空会社で本社が米国の場合とを比較すると、社員の出張できる機会は後者のほうが多い。
   海外出張で航空貨物ジェット機を利用する機会が与えられたことは、戦時中、航空機乗員として養成された私には、得がたい経験であった。 

2009年2月 5日 (木)

F6 脱サラ開始 6 退職時の空模様

   福岡の海外旅行のセースルマンが、畑違いの東京の貨物に私の自由意志で転勤し、研究した課題は①航空混載貨物差益配分方式、②航空と海上との貨物輸送方法判定、および③コンピユータであった。
  1970年代と言えばジャンボ航空機が就航するため航空業界では、大量高速時代とよばれていた。航空貨物の需要の伸びは毎年10パーセントで好景気であった。
   私の航空貨物輸送経済の研究を、米国航空機メーカーマックドナルドダグラスが評価し、米国で就職しないか?という招聘状を頂いた。海外で評価されると日本での研究がクローズアップされる場合が多く転職においては、「日本よりの脱出作戦」の色彩を帯びていた。
   会社を退職すると、翌月がら月給という定期収入がなくなる。米国への渡航で査証発行されるのは約10ヶ月、その間は就職の内定である。当然のことながら、内定の取消も有りうる。これはきわめて難しい転職の判断であった。
   転職においては勤務した会社の内部と外部とに多くの知己をもっていることが有利な条件とされている。富士通の電算機FACOM-230-10機種のプログラム作成と機械操作が出来るので、この機種を使用している会社なら「仕官が可能」であると判断した。
  阪急交通社退職した翌日、富士通の特約店㈱中央電算研究所の顧問となった。六月には近畿ツーリストの電算室で給料一ヶ月分に相当する仕事をいただいだ。
   海外旅行週刊誌「トラベル・ジャーナル」から執筆を依頼された。阪急在職中、「航空代理店業界の収入管理合理化研究会」で世話役となっていたことが独立後、プラスになった。
   「航空と海上との貨物輸送研究」というのは航空機が大型化すると、海上で輸送されている貨物を航空に吸収する必要がある。これに着眼して私は研究を始めた。これは航空貨物業界を味方につける方法であった。運輸省、航空機メーカー、航空会社、代理店、荷主、業界紙など関心があり、代理店同士の顧客の争奪戦よりも、新規需要の開発の情報公開のほうが、長い目でみると、貨物代理店としてもプラスと判断した。研究発表は業界誌で行ったいたため、業界紙の編集局が私に顧客を紹介されるケースが多くなった。
   

2009年2月 6日 (金)

F7 脱サラ開始 7 航空VS海上比較システム受注

四十四年六月に日本海外旅行㈱が航空貨物部門に進出するために、いままでにない航空貨物開発のツールとして、私の航空と海上との貨物輸送方法比較システムを採用したいということで副社長森正昭氏より相談を受けた。日本海外旅行㈱本社は千代田区麹町にあり、近所に旅行業界誌トラベルジャーナルがあった。編集長である中村正生氏の紹介によるものであった。
 海外旅行代理店であった会社が航空貨物分野に進出するには、IATA航空貨物代理店という資格が必要となり、この資格を取得するにはナシヨナルキャリヤーとしての日本航空および加盟の海外航空会社から承認を取付ける必要があった。
 
航空運賃は政府の認可料金であるため運賃の値引き、航空会社へのリベートの強要、航空機の安全を脅かすような搭載重量の虚偽報告などを行う代理店の出現にはきわめて警戒的であった。代理店同志の価格競争など代理店同志が争うよりも、新規航空貨物開発のほうがIATA航空貨物代理店としてライセンスを入手しやすいと考えられた。海上貨物を航空に吸収するための資料を方面別にコンピユータにより事例研究を行っていた。航空貨物コンサルチングサービスのためのセールスツールの開発を発注された。一人の社員一年分の俸給に相当する金額であるため、嘱託というような存在であった。システム開発でコンピユータが必要な場合は、顧問先の中央電算研究所の機械を使用し、電算機センターに使用料を支払った。航空貨物総流通経費分析で色々な条件を設定し、機械処理を行い二百頁のファイルを作成、約五十冊を印刷した。森副社長は貨物代理店資格を日本海外旅行㈱で取得された。約二百部の流通経費分析の資料を作成したが、私自身一冊の資料を所有することができたことは、私にもプラスであった。

F8 脱サラ開始 8 航空貨物セミナー講師

四十四年五月に坂本システム研究所を設立し、九月十五日よりフライング・タイガー航空会社の非常勤社員となった。太平洋線にはパンアメリカン、ノースウエストおよび日本航空が就航し、この九月十五日よりフライング・タイガーが太平洋線に参入した。航空貨物について次のようなセミナーが開催された。
四十四年十月二十九日より三十日の二日間、日本エコノミックセンターが主催したセミナに講師として招かれた。テーマ及び講師は次の通りある。    
「ジャンボ時代における航空貨物輸送システムの開発とコスト分析」研究会
  航空貨物輸送の経済性と輸送の将来
 
金世 
日本通運㈱  取締役航空事業部長
  パンアメリカン航空会社における航空貨物輸送システム
 
笠松二郎 パンアメリカン航空会社  貨物営業部長
  航空貨物運賃はどこまで下げられるか
 
前北兼二
日本航空㈱貨物郵便部貨物開発課長補佐
  海上および航空貨物流通経費分析機械化システム
 
坂本清助 ㈱中央電算研究所  顧問
 
私はフライング・タイガーの社員であったが、航空会社を刺激しないために㈱中央電算研究所顧問という肩書を使用した。
 
これらのセミナーの参加費用は約二万円、出席者は二十名前後であった。セミナ業者はダイレクトメールで参加者を募集した。航空関係においては日本通運、パンアメリカン航空、日本航空など知名度の高い会社の部課長を講師に招いていた。

F9 脱サラ開始 9 航空貨物専門誌連載執筆契約

四十五年七月、ルフトハンザ・ドイツ航空東京支店広報部次長石上氏の紹介で、㈱ジャパンプレス社の林部長を訪問した。石上氏は三十九年四月よりジャパンエア・ジャ-ナルを発行していたが、このとき、海外市場分析ではかなり協力したことがあった。  四十六年一月より㈱ジャパンプレス社が航空貨物月間専門誌、[SPACE]を発刊することになり、編集長はトラベルジャーナル旅行専門週刊誌の記者であった中村正生氏が就任した。  私は「コンピユータによる海上と航空との貨物輸送方法比較を連載執筆することとなった。編集長は貨物の仕事では最初であるため、原稿を最初は六ヶ月前から提出した。海外旅行業界から航空貨物業界への編集長の転職であり、編集長に貨物業務を理解してもらうために原稿を早めに送った。四十五年十二月に韓国と香港に航空貨物事情視察のために、編集長と現地で落ち合い、取材の協力をした。
   
原稿料は月間で五万円であった。四十六年一月号より四十七年八月までの二十回の連載が最初の計画であり、内容は次の通りであった。                                    
その一    物流問題へのアプローチ
 
その二    航空貨物輸送を決定する要因比重

その三    各要因のケース・スタデイ
その四    貨物の比重
その五    貨物の輸送単位 
その六    続貨物の比重

その七    梱包の条件   
その八    輸送要因の判定体系

その九    システム設計      
その十    続システム設計

その十一  総流通経費分析 
その十二  商品価格分岐点測定モデル

その十三  航空貨物の経済性の測定 
その十四  航空貨物販売情報の開発

その十五  流通コスト差早見表 
その十六  商品価格分岐点

その十七  総流通経費分析手順 
その十八  航空パレット積付プラン

その十九  BUCの容積と重量計算 
その二十  海外でのプレゼンテーシヨン

     以上

2009年2月10日 (火)

F10 脱サラ開始 10 ソニーマイクロコンピユータとの出会い

 ソニー倉庫㈱と七月一日より嘱託契約し一週間に一日、ソニーに出勤した。月額五万五千円程度であった。四十六年二月、ソニー倉庫㈱社長より、このたびソニーで新製品としてマイクロ・コンピユータSOBAX・ICC・二七〇〇を発売するので、輸送倉庫分野で何に使用できるか?研究して欲しいとのことで機械が提供された。

  これにより海上と航空貨物との輸送を判定するプログラムをマイクロ・コンピユータで開発した。タイガーで台湾の総代理店に社長、リーフレット氏にソニーのマイクロコンピユータの話をしたところ、早速、同機種を二台購入され、そのうちの一台を貸与された。

  本体の価格が一台四十九万八千円であり、台湾でのプログラム作成の支援として、私に一台、貸与された。リーフレット氏は台湾で電子部品としてモータの製造工場も経営しており、コンピユータには特に関心をもっていた。

  翌年から台湾と北米に二回、海上と航空との総流通経費分析で出張することとなったのは、このリーフレット氏のタイガーへの提案によるものであった。 

2009年2月11日 (水)

G1 ソニーマイクロコンピユータ SOBAX-ICC 2700 1 晴海国際見本市でのデモ出演

    米国貨物航空会社フライング・タイガーには、昭和四十四年九月に専門職社員契約を行った。職種としてはマーケッチング担当であった。この航空会社より紹介を受けてソニー倉庫㈱航空チームの嘱託となったのは、四十五年七月であった。四十六年二月に、ソニーマイクロ・コンピユータによる「航空と海上との輸送方法判定」システム開発を行った。
  ソニーのマイクロ・コンピユータSOBAX―ICC―2700の新製品は四十六年四月に発表された。五月一日より晴海で第九回国際見本市が開催され、これに出品していたフライング・タイガー航空会社は特別企画として「海上と航空貨物との輸送の判定」を実演するように私に要請した。
 
タイガーは米本土より国際見本市に出品するコンピユータを輸送しており、見本市の終了後、コンピユータを再び本土へ輸送するため、セールスマンを晴海に派遣し、またブースを借りてコンピユータ・システムの展示も行っていた。専門職社員として私が海上と航空との貨物輸送方法の判定を実演した。
 
日刊工業新聞および航空貨物業界紙は、これを報道した。
四十六年四月三十日の日刊工業新聞記事
貨物輸送 空輸が有利か、船便か
電算機を使い判定 東京国際見本市で一日から一般公開  米FT社
第九回東京国際見本市に出品中の米大手貨物航空会社フライング・タイガーは、五月一日から五日間、東京・晴海の国際見本市会場で、特別企画としてソニー製マイクロ・コンピユータ[SOBAX.ICCー2700]を使用し、総流通コストからみた航空運賃負担能力の測定を行う。これは、貨物輸送に空輸が有利か、海上輸送が得かをコンピユータで即時に自動測定しようという試み。このコンサルチング・サービスは、現在航空貨物セールスや需要予測用に開発されつつある"マイクロ・コンピユータ・プログラム・パッケージ"第一号の一般公開である。
 このマイクロ・コンピユータ磁気カード入力式は、ソニーが今月発売した新製品。それにより、日本~ニューヨーク間、欧州~ニューヨーク間など、全世界の各区間別の貨物海上輸送と航空輸送のコスト分析比較を一秒間で行うことができる。
  与える情報は
1 貨物の品目
2 輸送区間キロ当たりの航空運賃
3 40立方フイート当たりの海上運賃、
4 発着地の陸上運送費
5 海外の年間倉庫料
6 輸送日数、
7 平均在庫日数、
8 年間資本コスト、
9 年間商品減価見積、
10 貨物の比重 
11 関税、
12 保険料など。
これらの情報がキーによってコンピユータに打ち込まれると、一秒
後に空・海輸送手段の有利性の選択ができる仕組み。プログラムは幅四糎、長さ九糎の磁気カードに収められている。同システムの実用化は今後の物流管理体制の合理化促進、ことに総流通コストから空輸の経済性が適格に測定できるため公開結果が注目される。
以上
上記の新聞記事のシステムの説明を私に、フライングタイガー広報担当より求められ、広報担当より、各報道陣にプレスレリーズされ、日刊工業新聞は見本市開催の前日に報道された。

G2 ソニーマイクロコンピユータ SOBAX-ICC-2700 国際航空会社貨物研究会でデモ

 五月一日、晴海国際見本市でのフライング・タイガー航空会社の航空と海上とのコスト分析は、航空貨物業界では関心があり、下記のように六月の研究会には、マイクロ・コンピユータ を使用しての実演を行う旨、プレス・レリ-ズが行われた。

四十六年六月七日(月曜日) 第328号 日刊航空速報

坂本氏がコンピユータ・システムで講義

ICBM、海・空比較の自動判定研究も

インターライン・カーゴ・セールス会議(会長・日本航空東京支店井上貨物部長)は、十五日午後十二時三十分から小石川の椿山荘で開催されるが、今回は外部講師として坂本清助氏(システム研究所長)を招き、航空貨物に関するコンピユータ関係の講義を聴講する。

 さらに今回の会合ではソニーが開発したマイクロ・コンピユータを会場に持込んで、総流通コストからみた航空運賃負担能力の測定を実施、航空貨物セールスおよび需要予測など航空輸送が有利か?海上輸送が有利かの自動的判定のコンピユータの研究をも行う。・

  インターライン・カーゴ・セールス会議というのは、東京に乗り入れているIATA航空会社の貨物販売部門部課長の集会であり、私は阪急の貨物部門の企画課出身であるため出席していた航空会社の社員には面識があった。

 このPRが日本航空側より行われており、私には大変プラスになった。ソニー本社では、私が海外の航空会社に新製品の紹介を行っていたため、ソニーよりこの機種の特約店の資格を個人として与えられることとなった。四十六年という年はマイクロ・コンピユータの元年といわれでおり、現在のパソコンの元祖に当たる機種が発表された年であった。

G3 ソニーマイクロコンピユータ SOBAX-ICC-2700 日航東京支店と取引開始

  ソニーのマイクロ・コンピユータの特約店となった私はソニー倉庫㈱に出社した折に、ビジネスマシン㈱の特約店担当課長にソニー倉庫で面談していたが、私はソニーの作業服を着用しており、ソニーの嘱託が特約店も兼ねているという印象を与えた。倉庫の常務はかって担当課長の上司であったので、特に目をかけてもらった。

インターライン・カーゴ・セールス会議はIATA航空運賃の改定作業に私よりマイクロ・コンピユータを借受、計算業務を行った。コンピユータのレンタル料金は日本航空㈱東京支店から支出され、日本航空との取引ができるようになった。この共同作業は海外の航空会社の課長クラスが行っており、阪急時代より面識がある人が多かった。

  サラリーマンから独立した私は、マイクロ・コンピユータの特約店という考えはなかったが、個人がビシネスを行うには知識というものよりも、機械や消耗品の販売のほうが好ましいと考えた。会社を退職して自営業を行う場合、取引の上から信用を取付けるため株式会社組織は不可欠であったが、ソニーの特約店は個人の資格で官庁や大手企業に取引ができる機会が与えられることになった。

  コンサルタントという業務よりも機械を販売する仕事のほうが、利益率が高いことを認識した。当時、特約店は文具店や事務機械の販売店が多く、統計計算、学校、測量などの分野でソニーが開発していたパッケージプログラムにより、機械を販売していた。

私は統計計算では他の特約店と競合するため、競合しない事務商業用のプログラムの開発を狙った。一般的な常識ではマイクロ・コンピユータはコンピユータを導入できない中小企業思われたが、私はむしろ大手企業に需要があると判断した。

2009年2月13日 (金)

G4 ソニーマイクロコンピユータSOBAX-ICC-2700 4 日通海運支店へ

 ソニーのマイクロ・コンピユータの特約店となった私はソニー倉庫㈱に出社した折に、ビジネスマシン㈱の特約店担当課長にソニー倉庫で面談していたが、私はソニーの作業服を着用しており、ソニーの嘱託が特約店も兼ねているという印象を与えた。倉庫の常務はかって担当課長の上司であったので、特に目をかけてもらった。

  サラリーマンから独立した私は、マイクロ・コンピユータの特約店という考えはなかったが、個人がビシネスを行うには知識というものよりも、機械や消耗品の販売のほうが好ましいと考えた。会社を退職して自営業を行う場合、取引の上から信用を取付けるため株式会社組織は不可欠であったが、ソニーの特約店は個人の資格で官庁や大手企業に取引ができる機会が与えられることになった。

  日通総合研究所より関税の部分申告のプログラムをソニービジネスマシン㈱に照会されたとき、特約店として私が担当することとなった。私はソニー製品の輸出部門であるソニー倉庫㈱の航空チームの嘱託であり、航空貨物業務研究での航空と海上との流通経費分析には関税の計算が含まれるので、この分野のプログラムには明るいと思われ紹介された。 

  研究所は社員として私と妻の二名の小規模業者であり、訪問販売を行ってもなかなか成果は上がらないと思っていたが輸出入に関連する業務を取扱っているところが、私の販売先になってきた。航空貨物業務研究というのがコンピユータ・ビジネスの突破口となった。

  ㈱日通総合研究所は秋葉原の日本通運本社ビルにあり、日本通運㈱航空事業部もこの本社ビルにあった。阪急交通社在職時代において、日本通運㈱と阪急、西鉄、近鉄などと航空貨物の共同混載で業務提携をしており、共同混載業務の差益配分交渉においては、日本通運本社の課長ともよくあっていた。また阪急が航空混載貨物業界の専務理事会社を担当していたとき日本通運㈱とは関連があり、航空事業部の部課長には知合が多かった。

  四十三年度の国際航空貨物需要予測委員会委員には、日本通運㈱航空事業部業務課長が航空貨物代理店会を代表して参加され、また日通総合研究所の主任研究員が委員とした参加されていた。この面識がある二人のルートからも口添えしてもらって、コンピユータ部門にアプローチした。プログラムは総合研究所の担当者と相談して開発し、ソニーマイクロ・コンピユータを日本通運東京支店に納入した。数ヶ月後に横浜海運支店にも納入した。

機械の記憶容量は十二メモリーでプログラムバイト数は二百五十六ステップであった。これが現在のパソコンの元祖にあたるマイクロ・コンピユータであった。機械は本体が一台、四十九万八千円、プリンターが一台、十八万八千円、合計六十六万六千円であった。

特約店になってからのマイクロ・コンピユータ販売の第一号である。輸送業界での最大手である日本通運株式会社と取引ができたことは幸運であった。 

  コンサルタントという業務よりも機械を販売する仕事のほうが、利益率が高いことを認識した。
  当時、特約店は文具店や事務機械の販売店が多く、統計計算、学校、測量などの分野でソニーが開発していたパッケージプログラムにより、機械を販売していた。私は統計計算では他の特約店と競合するため、競合しない事務商業用のプログラムの開発を狙った。一般的な常識ではマイクロ・コンピユータはコンピユータを導入できない中小企業に需要があると思われたが、私はむしろ大手企業に需要があると判断した。

G5 ソニーマイクロコンピユータSOBAX-ICC-2700 5 三井物産&関連会社へ

  四十六年七月にソニービジネスマシン㈱の特約店になり、十月より三井物産㈱業務部営業統括室の協力を得て、プログラムの開発を行いながら機械の販売を行った。総合商社においては輸出、輸入のコスト計算にFOB価格、CIF価格、保険料関税、航空や海上運賃、金利などが発生していた。
  私は兼業としてフライング・タイガー航空会社のマーケッチングを担当しており、海上と航空との貨物輸送での総流通経費分析の研究を行っていたため、総合商社の貿易関係計算には理解しやすい素地があった。また海外への事業計画プログラムの開発にも興味であった。コンピユータを納入した部門は次の通りである。
                                     
  人事部、開発本部、鉄鋼総括部、鉄鋼線材部、鋼管部、非鉄金属総括部、非鉄金属原子燃料室、重機械部、化学プラント部、輸送機械部、船舶部、化学品総括部、繊維第二部、瓦斯炭素部、電気機械部、機械会計部などの本店部門、および名古屋と清水支店であった。

  三井物産㈱関連会社としての三井リース事業㈱東京本店に四十七年より五台納入し各支店が同じリース料計算プログラムを使用することになり、四十九年四月より機械を名古屋支店に販売した。

更に機械を大阪、福岡および札幌に発送し、機械が到着するころをみはからって、空路、東京から大阪へ出張、三井物産㈱内の三井リース大阪支店で納品テスト、ついで大阪から福岡へ飛び、三井リース福岡支店で納品テストを行った。それから福岡より東京経由札幌まで飛び、三井リース札幌支店で納品を完了、それから空路、東京へ帰った。

  三井リース事業㈱のプログラムは月額リース料の計算と期間損益計算明細であった。更に三井リース東京本社管理室よりはリースの全資産、年度別、品目別に計算するプログラムが発注され、リース会社のシステムに明るくなった。

H1 マイコンで海外より研究受託 1 ルフトハンザドイツ航空

昭和四十三年より航空貨物の総流通経費分析では、ルフトハンザドイツ航空本社の貨物部長クルンプ氏及び開発担当課長のブーツ氏とは東京で数回あっており、両氏は阪急のコンピユータシステムも視察された。その後、本社と分析システムで文通をしていた。
 
航空と海上との総流通経費分析では、私は商品価格分岐点という測定方法を考案し、これによって四十二年よりコンピユータ化を進めてきた。

 ドイツ航空は分岐点の考えは流通経費分析での航空輸送の利点を荷主に説明するには良いアイデイアとして、これを採用する旨を通知してきたのが四十六年であった。

四十七年七月、ルフトハンザドイツ航空本社より大西洋沿岸都市間の海上と航空との総流通経費での商品価格分岐点の計算を依頼され、約十万円の価格で納品した。輸送条件を変化させるシミュレーシヨンより計算した商品価格分岐点をプロットしてコストカーブにしこれを代理店や荷主の教育用にしたいとのことで私にその計算を外注した。海外よりのコンピユータの計算受託業務で、機種としてソニーのマイクロ・コンピユータを使用した。

  ルフトハンザドイツ航空はボーイング747貨物ジェット機を世界で最初に大西洋線に就航させたが、航空と海上との輸送コスト分析の必要性を痛感しており、貨物の需要開発には最も熱心な会社であった。

  四十七年十月二十四日~二十六日、銀座のソニービルでソニー・マイクロ・コンピユータショウが開かれた。このショウに特約店として参加することとなり、ドイツ航空と協力して同社の総流通経費分析モデルを開発し、デモに使用した。

「英字新聞記事」
DISTRIBUTION COSTS ANALYSIS
Lufthansathe German airlines firm, recently  held a cost comparison demonstration at the Sony building in Ginza, using Sony's  micro-computers system, S. Sakamoto of Sakamoto& Associates (c) explains the application of an electric data processing  system in computing  air transportation  costs and then comparing them with the cost of surface carriers.

H2 マイコンで海外より研究受託 2 航空機メーカー・ボーイング

四十六年十二月、米国シアトルに本社があるボーイングへB747貨物専用ジット機の運行コストの問い合わせを行ったことがある。ある取引先からの照会で航空機を購入して貨物を輸送した場合の経費を知りたいので依頼先を伏せて問合せを行った。

依頼先は航空会社ではなく荷主であった。当時、私はフライング・タイガーの社員であり、この会社は貨物専用機二十三機をすべてダグラスDC8ー63Fに統一し、ボーイングからみると格好の売込先となるため、この照会にはフライング・タイガーという会社名は伏せて置く必要があり、坂本システム研究所という名で世界最大の航空機メーカーに手紙を書いたわけであるが、間違えなく返事を貰う必要があった。まず自己紹介にこちらの研究水準を相手に知らしめておく必要があり、マイコンを使用しての分析資料を添付した。

四十六年秋に三井物産㈱へマイコンピユータの販売を行ったが船舶リースで月額リース料の計算プログラムを作成していた。この船舶リースのプログラムは航空機のリースにも応用できる考え、ファイナンスリースの月額料の計算を行った。

 一般の企業が航空機を購入しても運行できるわけではないが、フライング・タイガーが米空軍に提供している旅客チャーター機でのボーイング707およびダグラスDC8ー63Fの東京から北米西海岸までのマイル当たりの料金の情報をフライング・タイガーの極東総支配人より入手、特定貨物を搭載した場合の航空と海上との総流通経費分析を行った。四十六年十一月の時点では、シカゴおよびフィラデルフィアに出張し、航空と海上との総流通経費分析の提案を行い、プログラムはすでに完成していたので、このプログタムを使用した。

四十七年一月にボーイングの貨物開発課タッカー課長より運行コストでの返事を受取った。このとき私の貨物総流通経費分析に興味を示された。四十七年夏、タッカー課長が来日し、同社が日本で実施する太平洋線の航空貨物潜在市場調査で協力を要請された。

最初に調査を引受けて貰いたいとの意向であったが、アンケート調査が専門でないため断った。その後、条件が変更され、調査会社を推薦する業務と調査で不明な点が発生した場合、これを解決する業務、調査事項を点検、監査する事項などで契約した。

この中にコンピユータの提供とプログラムの開発費が含まれていた。このプロジェクトは米貨二千ドル(邦貨換算約六十万円)で引受けた。

  米国で開発された調査の項目が日本では適用が困難であるのは金額ではドルと円、重量ではポンドとキロ、長さではインチとセンチ、容積では立方フィートと立方メートルでの単位換算がネックであった。一立方フィート当たり何ボンドという米国流比重計算は日本では一立米当たり何キロとなるわけで、単位換算が調査でのネックであった。

   このよう業務にはコンピユータが必要であるが、経費が安いマイコンを使用していたことがボーイングよりのプロジェクト引受けには好都合であった。

2009年2月14日 (土)

H3 マイコンで海外より研究受託 3 フライング・タイガー航空会社

 米国貨物専門航空会社フライング・タイガーには、昭和44915日に入社した[専門職社員]で、副社長付きのマーケッチング担当者であるため、本社の関連部門への紹介を兼ねて、121日より8日までロサンゼルスに出張することになった。
 航空会社の海外出張業務連絡簿
上記の業務連絡の最後に私が航空と海上との総流通経費分析では進んだコンピユータシステムを開発している旨、紹介されている。
  フラインタイガーの台湾の総代理店の社長リーフレト氏は台湾から北米への電気製品の空輸作戦には私を必要としたため極東総支配人を通じて、台湾への出張を要請した。カラーテレビの空輸作戦であった。
 台湾の総代理店社長リーフレット氏は米国人で、台北で電子部品の工場を経営しており、電気製品メーカには知り合いが多かった。
  45年2月22日から24日まで台湾に出張、米国の電気製品製造工場アドミラル・コポレーシヨンに出張、4月12日より19日まで、タイガーのロサンゼルス本社へ出張、輸送経費分析で本社スタッフと作業を行った。それから、極東支配人、本社の専務部長など六人にチームに加わり、アドミラル・コポレーシヨンのシカゴ本社でデモを行った。説明はすべて本社の部長が行った。

ソニーのマイクロ・コンピユータが昭和46年3月末発表されたとき、リーフレト氏に話したところ、早速、ソニーから2台購入され、その1台を私に貸与されており、この機械が航空と海上との総流通経費分析に向くということを知っていたわけである。台湾の電子部品製造業者は、ソニー製品を大変評価していた。
 
46年9月24日より28日まで台湾に出張、米国の電気製造工場フィリコフォードに出張した。それから1ヵ月後の1024日から26日まで、東京銀座ソニービルで、ソニーマイクロ・コンピユータショウが開催され、ソニーの特約店として、東京よりドイツまでの航空と海上との輸送コスト比較をフルトハンザドイツ航空と協力して行った。これによりマイクロ・コンピユータを使用した総流通経費分析の経験を積み重ね、1週間後、フライングタイガーの総流通経費分析を行うこととなった。

112日より8日までタイガーのロサンゼルス本社へ出張、ここでスタッフと共同作業を行い、フィラデルフィアのフィリコフォード本社へ出張してデモを行った。
  これらは台湾から北米へ輸送される電気製品の輸送を、海上から航空に切り替えさせるために、航空輸送を行うと総流通経費はどうなるか?年間数百機のチャータ輸送のセールスであった。日本では航空貨物のセールスの経験がないものが起用された。
  タイガーに入社し、北米には3回、出張した。経費削減のため、往路は自家用機としての貨物専門ジェット機での搭乗、帰路は米空軍チャータ・旅客機での搭乗であった。
 
貨物機での搭乗は貨物室には暖房設備がないため、操縦室内での搭乗であり、印象にのこる海外業務出張であった。

H4 マイコンで海外より研究受託 4 専門職社員解雇

    フライング・タイガー航空会社極東総支配人兼副社長としてGerge A  Zettler 氏が赴任したのは昭和44年4月であった。同航空会社が太平洋線に週6便を就航させたのは同年9月15日で、同日付で同社の専門職社員となった。仕事は航空貨物マーケッチング担当であった。
   在宅勤務で極東総支配人からの依頼事項があれば処理する仕事であるため、一般の社員とは命令系統を異にしていた。
   ①セースルマン管理のためのコンピユータシステム開発、②航空貨物需要予測、③販売統計作成、④航空貨物販売提案書作成支援などが仕事であった。
   Zettler氏が在日4年間の勤務を終え、米国本社へ復帰する時点で、私の専門職社員は解雇されることになった。
   阪急交通社を退職し、米国の航空機メーカーに就職する予定であったが、フライング・タイガーで籍を置くことができたのはプラスであった。とくに同航空会社の紹介で、ソニー倉庫㈱の嘱託、ソニービジネスマシン㈱の特約店となったため、定期収入はなくなったが、機械販売の特約店という自営業者としての就職先が確保されることとなった。  
   

H5 マイコンで海外より研究受託 5 国際航空貨物需要予測委員会参加のメリット

  阪急交通社在籍中の昭和43年6月に国際航空貨物需要予測委員会が設置された。委員は31名であった。メンバーは経済企画庁(2名)、大蔵省(1名)、運輸省(13名)、新東京国際空港公団(1名)、三井物産(1名)、三菱商事(1名)、ソニー(1名)、阪急交通社(1名)、日本航空(3名)、日本国際貨物輸送業者(3名)、海事産業研究所(1名)、日通総合研究所(1名)、日本工業会ORセンター(1名)、航空振興財団(1名)、計31名であった。航空輸送経済専門家としての委員会であった。
    航空貨物代理店としての阪急交通社が委員となったことは極めて異例のことであり、私は㈱阪急交通社貨物部企画課長としての肩書であった。これは国際航空輸送商品の価格の変動が、航空貨物需要に密接な関係があるという私の論文に注目された結果と思われる。
    自営業者として独立した私が、輸送関係のコンサルタントとして、大手企業と取引はできないが,マイクロ・コンピユータの特約店として、大手企業には販売が可能であった。ソニー、日本通運、三井物産、日本航空などに、マイクロ・コンピユータを販売できた背景には、需要予測委員会委員に名を連ねていたことが反映されたと思われる。

2009年2月15日 (日)

J1 航空貨物従事12年間 1 電算機技術習得

阪急電鉄㈱に入社、代理店部(後の㈱阪急交通社)福岡営業所旅客係として勤務したが昭和二十八年四月で、英文科出身は海外旅行業務というのは適職であったが、福岡営業所は六名程度の小営業所であるため、一度は東京へ転勤したほうが、出世しやすいと判断、係長の空席がある貨物管理部門へ自分自身の希望により転勤することとなった。
 三十七年三月に国際業務部第三課貨物係長となり、翌年一月、貨物部業務係長となった。貨物部門においては輸出入業務としての通関業務、貿易実務、IATA航空会社の運送状発行業務が貨物担当者の必須業務であったが、海外旅行部門から転勤して貨物係長となった私に与えられた仕事は突発的に発生する業務処理であった。私は航空貨物業界がこれからどのような時代になるか?これに備えての研究は行っていた。
 私は三十八年一月に貨物部業務係長となり、四十二年二月まで満四年間、私の上には課長はいなく、また下には部下もいないという職制であった。これは管理部門としては最小限度の人員構成であった。
  会社で電算機導入の話が持ち上っていた。電算機導入企画で社内に希望者が多いと、この中で担当者に選らばれることは困難であるが、
売掛金回収問題と絡んだシステムには希望者がいない。日常業務を持たない私に導入企画の仕事が回ってきた。
  富士通
の小型電算機プログラムの講習会に出席して、実際の作業を行い、導入企画書を作成するわけであるが、これによって電算機が導入されると、初代の責任者は導入企画を行ったものになるが、暫定的な措置として総務部事務機械課長・貨物部業務係長兼務となった。

翌年三月には総務部事務機械課長・貨物部企画課長兼務となった。これは次第に航空貨物需要開発には電算機活用の必要性が認識されるようになった。阪急退社の数ヶ月前から、ソニーの輸出部門で四回程度、コンピユータによる航空と海上との輸送方法比較で講義したことがあり、阪急退社後、ソニー関係の仕事をするようになった。

J2 航空貨物従事12年間 2 混載差益配分理論

  航空混載貨物業務が開始されたのは昭和三十三年であった。IATA航空会社の貨物運賃は方面別に最低運賃、45キロ以下、45キロ以上、100キロ以上、250キロ以上、500キロ以上、1000キロ以上、2500キロ以上、7500キロ以上の一般大口割引料率が設定されており、これ以外に繊維、電気製品、光学製品など200キロ前後の特定品目大口割引料率が設定されていた。混載貨物運賃はIATA航空会社運賃より5~10%割引いた運賃を公示しており、荷主が混載を利用すると輸送運賃の節約となるため、混載を利用する荷主が増加した。北米向けの10キロ程度の貨物ではキロ当たりUS$4.50とすると、荷主の運賃支払は$45である。これらの貨物を1000キロ以上集荷し、混載業者が荷主となって、航空会社に輸送を委託すると、キロ当たりUS$2程度で、混載業者の運賃支払は$20である。$45-$20=$25という計算になる。この$25というのが混載差益である。混載を行うためには発送地側の経費、到着地における仕分け手数料、転送費などが掛かるが、これらの経費を差引いた額が、混載業者の利益であるが、これは殆ど全額、集荷代理店に配分される。この差益配分というのは担当者の考えで配分の要素が異なる。
 
福岡の海外旅行業務を担当した私が、東京貨物に転勤のとき、会社よりの「特命事項」は合理的な差益配分方法の設定であった。私は次のような方程式を作った。
 
A―――荷主よりの運賃収入
 
B―――航空会社へ支払運賃支出
 
C―――差益
 
W―――重量
 
C=A - B .………………(1)
 
差益を   量 とに分解する。 
 
C=W(A/W-
 B/W)…..(2)
 
これか、混載の営業方針を説明した。
(中学一年生の数学が説得性があった。)

 
B/W は、航空会社へ支払運賃コストで、1000キロレートが存在するなら、最低1000キロを集めることが前提条件で、共同混載におけるキロ当たり運賃支払コストは各社とも共通である。損失を回避するために共同混載を行う。
 
(A/W - B/W)は、平均キロ当たり差益収入。
 
営業方針:平均キロ当たり差益収入の多いものを多く集めることが必要である。
 この方程式により、貨物部門の混載差益配分方針が決定、これが品目別、方面別、重量別の手数料の設定となり、また電算機導入での対象業務となった。
備考:上記数学的モデルを使用したオペレーシヨンズ・リサーチ手法である。

J3 航空貨物従事12年間 3 混載運賃設定ロジック

 福岡の海外旅行部門から東京貨物部門に転勤したのが昭和三十六年七月であった。転勤における特命事項として混載差益配方式の研究をしていた。三十八年一月に貨物部業務係長となった。新しいIATA航空会社の貨物運賃が三十九年五月十五日から発効されることになったが、これに基づく国際利用航空運送事業者の貨物運賃では混載業者 JFCは次のような運賃の設定を行った。

例えば、東京→ニューヨーク 電気製品では
比較    最低重量   キロ当たり運賃
航空会社  200キロ    1.95
混載業者     190キロ    2.00
200㌔
の貨物では航空会社運賃は$1.95200キロ=$390である。
混載運賃は$2.00200キロ=$400である。混載は割高であるため荷主は敬遠する。

190キロではA航空会社運賃は、$1.95200㌔=$390である。
混載運賃は$2.00190キロ=$380であるため混載が安くなる。
つまり、100キロ運賃が$3.20であれば、$390÷$3.20=122キロが分岐点で、122㌔より200㌔までは200㌔として特定品目割引料率賃を使用したほうが有利である。これはFree Zone と呼ばれる重量帯でこの重量帯の運賃を安くし、200㌔以上の特定品目貨物の混載投入はメリットがないため、逆に運賃を高く設定した。
 当時、混載運賃は公共料金で全業者の統一運賃であるため、各混載業者に共通の運賃設定理論である。混載業者はこのようなキメの細かい運賃設定が必要であった。混載業者JFCの運賃設定は私が行っていた

2009年2月16日 (月)

J4 航空貨物従事12年間 4 損失回避理論の提案

昭和三十九年五月十五日発効の新IATA航空会社貨物運賃では一般貨物大口割引料率2500㌔運賃が廃止、また多くの特定品目大口割引品目が追加され、200㌔、若しく300㌔レートが新設された。その結果、混載差益収入が大幅に減少する事態となった。その対策として私は混載業者の会議で欠損を伴う混載貨物の淘汰を提案したところ、これは名案として会議で承認された。

従来、混載業者は航空郵便小包と対抗して、小重量貨物を混載に吸収するという考があり、これは航空代理店が
通関手数料収入を確保するには当然のことであったが、収入の比較では混載差益収入のほうが輸出通関料収入を大きく上廻っていた。
   
東京から北米ニューヨーク向けのIATA航空会社の最低料金はUS$15で、これに対して混載貨物の最低料金は$5に設定されていた。当時、佐藤内閣では公共料金の値上禁止政策が採られていたため、損失が大きい貨物の取扱を断念することにより、損失を最小限度にするという考えとなり、運賃体系の改定を計り、最低料金という考えを廃止し、すべて最低重量に統一する提案を行った。
   仕向け地別に最低重量が
2.5㌔、あるいは3㌔を設定した。これはIATA航空会社の運賃体系が最低料金、45㌔以下運賃、45㌔以上運賃、100㌔以上運賃などに対して、混載運賃は2.5㌔以上、45㌔以上、100㌔以上というように、すべて「以上」という表現に統一した。

ニューヨーク向けの混載運賃が㌔当り$4.34とすると、重量は2.5㌔が最低重量であるため、運賃は$10.85となり従来の$5と比較して倍にあたる値上げとなる。しかしながら、きわめて経済的な郵政省の航空郵便小包があるので、これを荷主が利用すると値上げには当らない。また輸送するとき小重量貨物をまとめて最低2.5㌔にすると、運賃は従来通りである。
 なぜ最低料金制度を廃止し、すべて最低重量制にしたか?運輸省航空局監督課に説明する必要がある。私は最低重量の設定として、北米ニューヨーク向け混載運賃では、次の方程式を運賃申請の補足説明に組み入れた。
最低重量をxとすると
4.34(混載運賃)―$2.301トン航空会社運賃))x X(求める重量)― 1.50(ブレークバルク料金)―$2.50(混載業者運営費用)  15.00IATA航空会社最低料金)x 0.05(航空会社5%手数料)
求める最低重量 X = 2.3㌔。 運賃設定では、2.5㌔を最低重量とした。
オペレーシヨンズ・リサーチ手法における「損失の回避」(ゲームの理論)の考えかたを応用した。

J5 航空貨物従事12年間 5 航空VS海上輸送判定

  福岡の海外旅行業務から東京の航空貨物部門に転勤した私は、貨物業務の内容は知らないが、興味を持ったのは、荷主はどのようなことで航空と海上との輸送方法を決定しているか?ということである。
   経験とか勘というのは、非科学的と思われるが、まず、輸送を決定する要因を十種類にわけ、その要因を一つずつ分析し、その要因が、どの程度の影響力を持っているか?を研究した。これは、会社では出来ない研究で、会社から帰ってからの研究課題にした。
   青山学院大学経営学部公開講座の統計学の「需要分析と需要予測」を受講し、レポートを提出、八単位「優」を頂いた。
  会社で電算機導入時、この研究をプログラムに組んだ。英文業界紙は、珍しい研究として業界紙に紹介してくれた。
 
航空と海上との貨物輸送方法判定

J6 航空貨物従事12年間 6 航空VS海上 商品価格分岐点

昭和436月、国際航空貨物需要予測委員会が設立され、私は委員を委嘱された。航空貨物運賃は海上運賃と比較して割高である。この割高な航空運賃を吸収できるのは㌔当りの商品価格が高いもので、一般的には、「運賃負担力」と呼ばれている。
 総流通経費Yは商品価格Xとは無関係なコストAと商品価格にリンクされるコストに分けられ、その係数をbとすると、次のような方程式となる。

 Y = A + bX ―――(1)式 
この方程式を、海上総流通経費をY1,航空総流通経費をY2とすると、次のような方程式ができる。

Y1=A1+ b1X ― 2)式 (海上)
Y2=A2+  b2X ―  3)式 (航空)
海上と航空との流通経費が等しくなる数式は Y1=Y2である。
すなはちA1+b1X=A2+b2X 4)式 
これはX=(A1-A2)/(b2-b1)で、商品価格分岐点方程式である。
例題:商品価格がゼロのとき、海上コストが5ドル、航空コストが12ドルであった。
商品価格が10ドルのとき、海上コストが30ドル、航空コストが25ドルの場合
商品価格分岐点はいくらか?
30=5 10B1 B1=(30-5/10   1=2,5

    25=12  +10B2  B2=(2512/10  =1.3
答え 分岐点は5.8333ドルである。
 X =512)/(1.32.5 )X=5.8333

検算:
海上コスト
Y1=5+2.5 x 5.8333 = 19.583

  航空コスト Y2=121.3x 5.8333  19.583
電算機処理においては、商品価格を入力すれば、商品価格分岐点における流通経費分析が可能であった。
これによって、私は航空貨物輸送経済における販売上の情報を取得することができた。このようなことが航空貨物業界では最初のケースとして折り紙を付けられたのが40年前であった。

J7 航空貨物従事12年間 7 需要予測ソフト利用術

     昭和37年4月より44年4月までの7年間、阪急交通社の貨物部業務・企画を担当していた。貨物部門の予算編成には、業界全般の航空貨物の増加傾向を把握する必要があり、このためBASIC言語で需要予測分析ソフトを組んでいた。
   当時、電算機を導入し、海外旅行や航空貨物の需要予測を行っていた代理店は少ない時代であったので、航空会社や業界誌などから需要予測を依頼されるケースが発生した。
  会社で、海外旅行や航空貨物の過去のデータが必要なときは、業界誌に連絡すると、無償提供してくれた。その返礼として、これから三年乃至四年間の需要予測を電算機で行い、二部複写のストックホームに印刷し、一部を業界誌に提供していた。
  阪急交通社で開発した航空と海上との貨物輸送でのコスト分析などは、英文業界紙が無償で記事として紹介してくれており、また米国航空会社の太平洋線航空貨物需要予測には代理店として、電算機を使用して協力したことがあり、これが縁で会社退社後、専門職社員としての契約のキッカケとなった。
 需要予測分析ソフト

J8 航空貨物従事12年間 8 航空機材パレット積付計算

 昭和44年9月よりフライング・タイガー航空会社のマーケッチング担当となり、、45年7月よりソニー倉庫㈱航空チームの嘱託となった。46年7月よりソニーのマイクロ・コンピユータ SOBAX ICC-2700機種の特約店となった。
  この機械を大手商社三井物産㈱に販売するには、どのようなプログラムがよいか?検討した結果、航空機材パレット積付作業を選んだ。
 空機材パレット積付個数計算

 
 

J9 航空貨物従事12年間 9 第一次オイルショック前リストラ

  阪急交通社退社の翌日の44年5月1日、坂本システム研究所を設立した。これと同時に㈱中央電算研究所の顧問となった。同年9月から米国フライングタイガー航空会社の専門職社員となり、45年7月よりソニー倉庫㈱の嘱託となった。46年7月よりソニービジネスマシン㈱の特約店となった。
  中央電算研究所、フライング・タイガー航空会社、ソニー倉庫㈱の勤務には、毎月、一定額を支払われていたが、中央電算研究所の手当は、次第に減額されていたところ、48年3月末で航空会社とソニー倉庫㈱の契約が打ち切られた。航空会社の勤務は厚生年金の加入であるため、実際の自営業というのはこれからがスタートであった。就職先がなくなったが、ソニー製品を取扱う特約店という仕事があるので、経営者として活動できる余地は残されていた。しかしながら、ソニーがマイクロ・コンピユータ製造から撤退という事態となったのは48年4月1日であった。第一次オイルショックは昭和四十九年であるが、これに備えての対策が先行していたようである。
   
   

2009年2月17日 (火)

JA 航空貨物従事12年間 A 転勤、転職の総括

 昭和43年4月に発表されたのは阪急電鉄㈱から㈱阪急交通社に出向している社員の出向廃止、44年3月で行われることであった。
  電鉄は可なり多くの子会社があるが、電鉄社員か子会社社員か、「寄れば大樹」を意識するサラリーマンにおいては抵抗がある身分変更であった。電鉄に戻りたい社員は電鉄へ復帰、それ以外は電鉄を退職して、阪急交通社に継続勤務となる。
    私は阪急交通社では総務部事務機械課長・貨物部企画課長兼務であり、いずれ貨物業務を離れ、コンピユータ・システム開発の専任となることは予想できた。研究は評価されているうちに展開していないと、時期を逸すると、その価値がなくなると判断した。
  米国の航空機メーカーマックドナルド・ダグラスが、私の研究をどう評価するか?COBOL言語で書いたプログラム、英文業界紙が報道してくれた記事を送付した。
  航空機メーカーより米国籍の取得を前提とする米国ダグラスへの就職の招聘状がきた。米国へ永住渡航するために会社を依願退職するということが、私の退社理由であった。
   フライング・タイガー航空会社はダグラスDC8-63Fを23機保有している航空会社で、44年9月に太平洋線に乗り入れを開始することになった。ここで私は同航空会社の専門職社員として迎えられることになった。
  同航空会社の紹介で45年7月より、ソニー倉庫㈱航空チーム嘱託、46年7月よりソニーマイクロ・コンピユータの特約店となった。そして機械の納入先には大手企業が含まれた。
  旅行は「人」、貨物は「組織」といわれているが、旅行業務よりも貨物業務のほうが、個人で開発できるコンピユータ対象業務が多いようである。
  フライング・タイガー航空会社は48年3月末で退職となったが、厚生年金加入期間が3年半、追加されたことは大変メリットがあった。 
 
    

2009年2月18日 (水)

K1 電卓部門撤退殿作戦 1 ゲームの理論

  四十八年四月一日、ソニーは新聞紙上で電卓部門の製造を中止し、電卓の製造から撤退する旨、発表した。三月末でフライング・タイガーの非常勤社員ならびにソニー倉庫㈱の嘱託契約が解除され、ここで始めて定期収入を失うことになった。これに追い討ちをかけられたのが販売商品の消滅であった。
 
第一次オイルショックは昭和四十九年秋で丁度、一年前の出来事であったが、この四十八年というのは、頭脳産業と呼ばれる「THINK TANK」が、倒産、消滅するところが多かった年である。
 
ソニーのマイクロ・コンピユータはSOBAX―ICCー2700という商品名で、電卓と同じ生産ラインにあったため、マイクロ・コンピユータも製造を打切ることになった。ソニーの電卓は十万円程度であったが、各社の電卓の値下げ競争が激化しているため、電卓ビシネスに嫌気がさしたわけであった。
  私はソニーの特約店となり一年十ヶ月目であり、まったく寝耳に水で大変驚いた。ソニーは製造ラインを電卓からVTRに切り替えたわけであった。特約店としてはVTRの特約店に転業するか、それともソニーの紹介で他のマイクロ・コンピユータの販売店になるかの選択に迫られていたが、コンピユータ・メーカーはいつ撤退するか不安となったため他のマイクロ・コンピユータの販売店契約は模様をみることにした。
  全国で百社程度あった特約店は直ちに販売を停止し、VTRの販売、他のメーカーの機械販売に乗換えた模様であった。特約店の権利を取得するには供託金が必要で、ソニーの紹介で米国のマイクロ・コンピユータの特約店を希望しても二次販売店になり、仕切り率は可なり低下する。また販売数量による割引の報奨金があるところは小規模の業者は不利であると判断した。
   
私はソニー・マイコンを五台保有し、ソフトウエア付きのレンタルを行っているため、ソニーの電卓部門からの撤収で機械の評判が落ち、契約が解除されることを警戒した。他の特約店がソニーのマイコン販売を中止したのに対して、私はソニーの在庫がなくなる迄、販売を継続することとした。
   
これは経営の意志決定においてソニーが見込みはないと判断した商品を在庫が無くなるまで継続して販売することは通常の会社の意思決定では採用されないが、一名の零細企業においてソフトウエアの開発を専門にする場合は、これはあるチャンスと判断し、撤退作戦の殿を勤めることにした。損失が最も少ないところが生残れるというORにおけるゲームの理論を応用した。アフターサービスという仕事に着目した。
   

K2 電卓部門撤退殿作戦 2 業務内容

 ソニーが発売したマイコンは三千台程度あると判断、消耗品の配達、プログラムの作成依頼も予想されるのでプログラムの作成を専門の行いたいという意志表示をソニーへ行った。
  ソニーにおいては統計や測量のパッケージプログラムがあり、一般の特約店はソニーで開発したプログラムで機械を販売していたが、ソニーの撤退後、一般ユーザーからプログラムの作成の依頼がある場合は、ソニーで開発されていない統計プログラムか、あるいは三井物産㈱で開発したような事務商業関係のプログラムであることが予想された。

  四十八年四月よりソニーが電卓部門からの撤収することになっており、私はソニーに対して、マイコンのプログラム作成を専門に行いたい旨の意思表示を行った。

  プログラムを有料で支払うユーザーがどれだけ発生するか、どんな内容のプログラムが発生するかが不明であったが、ソニーの撤収作戦に協力することとした。
  他の特約店がこのサービスを行うには人員の確保のため、ソニーより定額の資金的な補償を取付けることが考えられるが、私はこれを要求せず、ユーザーが支払うプログラム料金で経営を維持しようと考えた。他の特約店がソニーにこのようなプログラム作成の指定店を申請したかどうかは明ではないが、ソニー・マイクロ・コンピユータ・プログラム作成指定店という独占な権利が与えられた。
  ソニーは全国の支店に連絡を行い、ユーザーからプログラムで料金を取ることが困難なものはソニー本社が引き受け、有料のところは私に廻されることになり、約二年間これが継続された。

  五十年四月よりソニー本社のマイコン・サービス部門をソニーザービス㈱に移管、ソニーの電卓部門の撤収作戦は終了した。このとき私はソニーサービス㈱の嘱託となり、週に一回、ソニーサービス㈱の電卓修理部門に出勤し、ユーザーよりのプログラム依頼の受付を行い、坂本システム研究所でソフトを作成、納品を行い、代金はすべて坂本システムの収入とした。

   特約店が存在しないのでソニーが直接セースルした顧客に対して、私が機械を仕入れて納入するケースが発生、国家公務員共済組合虎ノ門病院、東京女子大学、東京工業大学、防衛大学、科学技術庁など官庁にも納品ができた。これは撤収作戦において「殿」を勤めたわけであるが、このためソニーとしては私の経営が成り立つように、このような形で支援された。

  私がソニーの顧客から電話がかかり、説明のため顧客に出向いた場合も、三時間を限度として一時間千二百円の日当が支払われた。ソニーサービス㈱の嘱託は十年間ぐらい継続された。全国で販売した機械を一括して修理している本部での嘱託であった。  ソニーサービス㈱においてはマイコンのソフトの情報は不要であり、このためマイコンソフトについての過去の資料から研究を行った。他の特約店がマイコンより撤収しているため、他の特約店からも顧客を紹介されるケースも発生した。

 撤収したメーカーの機種の保守サービスというのは顧客からは喜ばれる業務である。マイコンの耐用年数は約五年であるので、四十六年に発売されたソニーのマイコンの買替時期は五十年頃からスタートすると予想した。

零細企業が顧客を見つけることは困難であるが、ソニーが販売した顧客の保守サービスが次の機種のセースルに結びつくと判断した。

K3 電卓部門撤退殿作戦 3 ソフト開発依頼先

 四十八年四月よりソニー・マイコンSOBAXプログラム作成指定店として、ソニーより顧客の紹介をうけ、プログラムを開発し、納入を行ったところは次の通りである。

  帝都高速度交通営団(減価償却)、国立栄養研究所(統計)、東北大学医学部(統計)、神戸女子薬科大学(統計)、トヨタカローラ和歌山(給与計算)、㈱ニチイ(出店計画)、吉田工業㈱(統計)、徳山機械㈱(技術計算)、大東工業㈱(保険計算)、野村証券㈱、(統計)、山一証券投資信託㈱(統計)、太平住宅㈱(統計)、日本予医学予防協会(検定)、日本ランデック㈱(リース)、㈱レイク(金利)等であった。プログラム作成料金は四万円前後であった。

 四十九年四月にソニーより運輸省交通公害研究所を紹介され、航空機騒音証明プログラムでマイコンと騒音調整装置とを連結し、飛行場でテープコーダーに録音した騒音を騒音調整装置にいれ、マイコンで数値解析を行い、プリンタに印字させるプログラム作成を依頼された。同じ機種構成を所有していないと開発できないソフトであった。

各国政府間で構成された国際民間航空機構ICAOで決定された航空機騒音を測定するための計算式のプログラム化である。これは日本で製造した航空機に騒音証明を発行するため、航空法を改定するための前提となるプログラムであった。このシステムは米国航空機メーカーロッキード社で開発され、汎用コンピユータで処理されていたものと思われるが、今回、ソニー機種を官庁に納入した騒音専門メーカーがソフト開発をソニーに依頼しソニーより私に回されたものであった。

  官庁の予算は四十万円しかないと知らされたので、その額が見積並びに請求価格であった。計算式の説明は六頁にわる英文で今までに最も難しいソフトの一つであった。
 
ソニー本社が紹介している業者であるため、官庁よりの指名入札となった。一般に官庁に業者が取引をする場合は、株式会社組織が前提であったが、個人の資格で納入を行った。 

 運輸省の研究所長が注目したのは、私が航空局航空機乗員養成所で航空機整備を学んでいたこと、米国貨物専門会社タイガーの専門職社員やボーイング社の仕事等をしていた経験があり、航空産業と密接な関係がある経歴書で、研究所長はこの仕事は私にピッタリの仕事であり、このプロジェクトは将来、プラスになる実績であると激励された。

K4 電卓部門撤退殿作戦 4 マイコンによる数表作成

ソニーがマイクロ・コンピユータも製造打切りを発表したのは四十八年四月であった。それから一年経過した四十九年四月ごろにはソニーのマイコンの在庫は殆どなくなった。フライング・タイガー航空会社やソニー倉庫などで、商品の梱包、パレットへの積付作業を観察していたので、販売する商品がなくたった時点で、マイクロ・コンピユータを使用しないで処理できる数表の開発を考えた。ソニーの機械がもつ性能を活かしたシステムとして、航空機パレット積付早見表の制作に取掛った。

  航空機に搭載される八八吋X一二五吋パレットは貨物専用機DC8ー62F、63F、Bー707F、B747F、旅客機DCー10およびB747等に使用されている機材でこれに積付けられる貨物の外法は標準化されている。

  外法は縦が八八吋、高さが六○吋までは横が一二五吋であるが、航空機の胴体が蒲鉾型に丸みを帯びているため横幅が次第に細くなり、天井の高さが八四吋になると六○吋ぐらいになる。内法で縦と横は外法よりも四吋少なくなっており、高さは内法で八○吋で、内法容積は四四○立方フートである。

  マイクロ・コンピユータがどんな業務に向くかという検討の時に、航空と海上との貨物流通経費分析という金額的な計算のプログラムをデモ用として開発した。また、特定のカートンの貨物をパレットに搭載したとき、各段にカートンの縦と横を、どのような方法で積付ければ最大となるかの物的流通問題の計算のプログラムをもデモ用として開発した。

  早見表にはカートンサイズの高さが八吋より二十四吋まで、横が八吋より三十六吋まで、縦が八吋より四十八吋までのカートンを一吋間隔で組合せると八、四一五種類のカートンモジュールができる。各段ごとの積付方法と最大搭載個数を計算し、カートンごとの積付容積(立方吋)と積付ロスを表示、四五○頁に製本し、三百冊印刷した。この早見表制作のため機械を二台使用し、計算には約五百時間を投入した。

  計算機で印刷されたものをそのまま台紙に張付、数字の転記ミスを皆無とした。価格は一冊一万円とし、この早見表をコピー機械で複写した場合、複写して製本したほうが割高になるような工夫をした。

企画、システム設計、プログラム作成、機械操作、早見表の張付編集、説明書の英訳は私が行い、印刷製本は外注した。印刷費用は約百万円であった。 

  四十九年八月十日、航空貨物英文誌  JAPAN  AIRCARGO に  QUICKPALLET  LOADING  REFERENCE  TABLE  COMPLETED BY  SAKAMOTO FOR SALES と題して英文で説明、紹介された。

 阪急に在職していた時代に私が開発した航空貨物のコンピユータ・システムを英文業界誌により海外にも紹介したのがこの航空貨物英文誌であった。

編集長は棟尾氏で今まで英文紙で紹介されたのが昭和四十一年から四十四年までの間に五回程度あった。このような関係があったので、今回、早見表を開発した旨、電話で連絡したところ、こころよく英字新聞で紹介してくれた。

業界紙は海外の情報に通じているため、開発者のプロフィルもうまく紹介してくれた。

早見表一冊一万円の販売のPRであるが、航空貨物につての研究情報の公開であり、日本で開発したシステムの紹介は業界紙としては必要であった。

K5 電卓部門撤退殿作戦 5 早見表の納入先分析

 四十八年四月にソニーは電卓の製造を打切ると発表し、私はソニーのマイクロ・コンピユータの在庫がなくなるまで販売を続行したが、当初の予想よりも早く在庫がなくなったのが、四十九年六月であった。コンピユータを使用しないで、情報処理を行うものとして、航空機パレット積付早見表の作成を開始した。
   このシステムは企画、プログラム作成、計
算、英文作成、宣伝広報、フールドセールスおよび代金回収は、すべて私自身が行った。四十九年八月十日に英字新聞「ジャパン・エアカーゴ・ニュース」にパレット積付早見表の発表を行い、また十月二十一日号、二十二日号および二十三日号の「日刊航空通信」に延べ七頁にわたり「航空貨物パッレト積付早見表販売 坂本システム研究所、販売方法に活用可能」と宣伝された。
  販売においては業界紙による宣伝広報を行い、頃会みて足でのセールスを行った。セールスマンとして私が直接、航空会社や代理店を訪問し販売した。貨物のセールスマンを対象としての販売で、会社の一括購入ではない。
  このため
航空会社のセールスマンに一冊づつ複数の人に販売した場合、会社としては一括して払込むため、誰が入金したか不明である。このため本が売れた順番に一円づつ値引きをした。最初は九九九九円、次は九九九八円となり、まとめて入金されても仕分けが出来るようし、販売においては売掛金の回収方法を考えた。
  納入したところは百パーセント振込が行われた。早見表を購入された会社は四十四社、合計百十五冊であった。航空会社と貨物代理店との数は百三社であったので、四割近い会社が購入された。早見表を購入された航空会社は次の通りである。                  記
  エアフランス、エアインド、英国航空、カナダ太平洋、カーゴルクス、カンタス、キャセパシフィック、フライング・タイガー、ナシヨナル航空、ノースウエスト、マレーシア航空、パンアメリカン、シーボード航空、TMA、ワールド航空、エアアソシエイト台湾ノースウエスト総代理店、日本航空および全日空の十八社。
航空代理店および荷主では次の通りである。

日本通運、近鉄、交通公社、商船、三井、山下、新日本、川崎、大和、阪神、南海、名鉄、東急、ダイヤモンド、日本エメリー、東洋シャルマン、丸善、ニュージャパン、ノボ東京エアサービス、マグレガースワイヤー、UAC、TAC、JAC、AGS、TACT伊藤忠商事、ソニー倉庫、キャノン等。  早見表の内容が極めて正確であるということの信用がセールスには重要であった。使用方法は業界誌に詳しく説明した。
         
        

L1 キャノンのパソコン販売店 1 パレット早見表販売でキャノン訪問

四十九年秋、パレット積付早見表の販売で田町のキャノン株式会社輸出課を訪問した。担当者は一冊、早見表を購入された。このとき担当者から私はコンピユータが専門であるのでキャノンのパーソナル・コンピユータを売らないかと薦められ、キャノン販売㈱のパーソナル・コンピユータ販売部門へ紹介された。
 
その後、キャノンには二、三度訪問したがメーカーと関係を継続するには、まず機械を購入することであると考え、キャノンのパーソナル・コンピユータSX-100(価格約七十万円)を一台、購入した。
   
私は当時、品川のソニーサービス㈱の嘱託であり、ソニーより電話をかけて機械の購入の申込を行った。キャノンとしてはソニーのマイクロ・コンピユータの後続機種として私がキャノン機種を購入したことを評価された。
   
五十年七月一日付でキャノン販売㈱のパーソナル・コンピユータの販売店契約を行った。パレット積付早見表の販売は百十五冊で終了、回収金は百十万円で交通費を差引と荒利益ゼロである。 早見表は三百冊を印刷、約百二十冊販売し、在庫は約百八十冊であったが、早見表の販売によりキャノン㈱のパーソナル・コンピユータの販売契約ができ、これに専念するため在庫百八十冊は数冊を残して、すべて破棄処分とした。
   
販売店はメーカーの第一次販売店になったほうが有利で、ソニーの場合も第一次販売店であった。零細業者はメーカーの第一次販売店になるのは困難で、第一次販売店の傘下の販売店になるのが通常であった。キャノンの場合は供託金を求められない第一次販売店となったので優遇された販売店であった。
  航空貨物分野の研究で独立したが、このパレット積付早見表の開発を最後に航空貨物分野の研究から撤退し、一般の事務商業分野へ進出することとなった。
   
航空貨物システム販売は羽田が國際空港であった場合は距離的にも近かったが成田國際空港ができ、セールスを行うには距離が遠く、また成田空港開設反対派の活動で空港施設を訪問するには訪問先からのアポイントを取付ける必要があり、航空貨物業務から撤退せざるを得なくなった。
 三十六年七月に福岡から東京貨物課へ転勤、五十年六月までの十四年間、航空貨物業務にタッチしてきたが、ここでパソコンを一般企業へ販売する業者となった。ソニーとキャノンのパソコンの販売が航空貨物のソフトを媒介してきたという特徴があった。
 キャノン販売㈱のパソコンを五十年七月より販売したが、平成三年ごろまで約十六年にわたりキャノン販売㈱のパソコン販売とプログラム作成作業に従事した。キャノンの販売店になった時点ではソニーサービス㈱の嘱託を行っており、ソニーに顧客からソニーマイコンの問合せがあると私はキャノン製品を推奨することにした。

L2 キャノンのパソコン販売店 2 パソコン販売広報活動

阪急電鉄㈱を依願退職したのは、昭和四十四年四月であるが、㈱日本経営科学研究所のCOMPUTOR  REPORTという月刊専門誌の四十四年四月号、五月号および六月号に航空貨物の経済性の分析で執筆したことがあった。

  五十年七月よりキャノン販売㈱のパソコン販売店となった。五十年八月号より五十一年七月号まで十二ヶ月にわたり、「マイクロ・コンピユータ・アラカルト」と題して執筆した。
 今回は航空産業以外に一般企業でのマイコンの対象業務となったものを含めて、一品料理形式に「マイクロ・コンピユータ・アラカルト」と題してして二十六事例を紹介した。昭和五十年というのはマイコンが出現して五年目であり、パソコンの揺籃期でもあったので、この時期の事務商業関係ソフトの記録を活字に残すため執筆した。パソコンが爆発的に売れ出したのは、WINDOWS95からである。このアラカルトの紹介は1975年であるので、WINDOWS95の出現の二十年前であった。

航空産業

 一 航空機騒音証明

 二 航空貨物市場調査検証用計算

 三 航空機パレット積付個数計算 
四 利益差異分析

 五 チャーター機スペース販売価格
六 航空運賃改定作業

 七 関税部分申告計算日本通運)
八 空港グランドサービスのシフト編成

総合商社・リース会社

  九 木材容積計算   

一○ 真鍮ロール板の切断計算

一一 輸入南洋材CIF 
一二 輸出鉄鋼線材FOB

一三 輸入生糸コスト 
一四 輸出自動車FOB

一五 輸入錫の標準価格計算
一六 DCF計算

一七  分譲マンシヨン価格試算
一八 プラント売上目標設定

一九 リース採算計算 
二○ レストラン出店の売上目標 
             

その他 

二一 統計計算  四元一次回帰式
二二 三変数の重相関計算

二三 給与計算   
二四 賃金体系調整 
二五 カタ式気流測定
二六 銀行借入実質金利計算     

 十二ヶ月の執筆で原稿料は一事例研究で約一万円であった。
キャノンの販売店としての連載執筆で、パソコンがどの分野に応用できるかを、事例により紹介した。キャノンのパソコンの広告が数回、掲載された。                

2009年2月23日 (月)

L3 キャノンのパソコン販売店 3 経理関係ソフト開発

 五十年七月にキャノン販売㈱の販売店となった。ソニーはマイクロ・コンピユータの製造を打ち切ったため、顧客から他のメーカーの機種を紹介して欲しいという希望があった場合は、ソニーサービス㈱の嘱託である私が対応することになっていた。
  紹介された会社はパイオニア㈱、日本ランディック㈱、()日本予防医学研究所などがあった。日本ランディックにおいては賃貸マンシヨンの収支計画、リース採算などのプログラムの作成を行った。この会社は新橋にあり、三井物産㈱本店の隣であった。

永妻寿氏は仙台航空機乗員養成所の一期生でパイロットであったが、日本航空㈱で電算機課長をしておられた。同じコンピユータの仕事をされていたため阪急在職中、日本航空本社に用があるときは、しばしば永妻氏を訪れていた。

四十四年春、私は阪急を依願退職したが、永妻氏も同じころ、日本航空を依願退職され、渋谷の道玄坂でシステム開発㈱を設立され、代表取締役となられた。永妻氏の紹介でとみん銀行の子会社である「とみんリース」に五十二年四月にキャノン・パーソナル・コンピユータを納入し、またリース採算計算、リース事業経理システム、償却資産申告、保険料計算、リース料請求システムなどを開発するようになった。

当時、フロッピィ・デイスク装置は一台一○○万円で、IBMゴルフボールタイププリンタは一台の価格は一二○万円であった。経理業務を行う場合のパソコン一セット価格は約四百三十万円であった。ソフトの開発では、同じような機種を自宅に設置しておく必要があり、キャノンや販売店からプログラム作成作業を依頼されるケースが発生した。

在庫管理での部品展開、売掛管理、経営コンサルタントの部門別経理、抵当証券の経理、国家公務員共済病院連合会の病院医療経理などの開発があり、経理システムが業務の主流になった。  

L4 キャノンのパソコン販売店 4 海外投資ソフト開発

五十二年夏に三井物産㈱非鉄金属総括部よりアルミ工場海外建設計画プログラムの作成を依頼された。総投資額が数百億円の大型投資プロジェクト計画はキメの細かい事例研究を必要とし、プロジェクト計画担当者が直接コンピユータを使用するケースが発生する。

  海外でアルミ工場を建設するには二十年先の計算も必要であった。アルミの製造に係わる約十五項目のコスト予測が行われ、これに基づいてアルミ販売基礎価格の設定が行はれていた。次に建設の資金計画、金利計算、返済計画、投資資産の減価償却、追加投資の減価償却現地会社の採算としての生産高、販売高、直接原価、創業費、一般管理費、投資控除、課税対象額、法人税、税引き後利益、キャシュフロー、借入金、追加借入金資本コスト、借入金返済計画が必要であった。

  また海外でアルミ工場を建設し、国内で原材料を引取るときは、国内での採算計算が行われた。この事業計画というソフトの開発はその後に展開されたホテル建設事業計画のソフトの開発では貴重な体験であった。         

  

L5 キャノンのパソコン販売店 5 パソコンとXYプロッター接続ソフト

 四十六年末より三井物産㈱本店には二十台以上納入したが、需要も限界に近づいたので、一般会社のソフト開発に転向した。会計経理システムをキャノンのBXー1で開発していたため、キャノンから顧客を紹介されたケースが五、六社発生した。

  兜町の商品取引会社にキャノン販売店が売り込み、その販売店から商品取引プログラムを私に外注されるケースも発生した。
 
商品取引で三色XーYプロッターで各商品の高値、安値、寄付、大引のデータをフロッピーディスクに登録し、移動平均、三日、六日、一二日、二四日、四八日の荷重平均、複合平均、人気度測定、これらの数値を赤、黒、青の三色を使ったXーYプロッターで打ち出すソフトの開発を行った。縦九○糎、横六○糎の方眼紙に罫線とグラフをプリントし、高値、安値を色でわけたたり、髭を作ぅたり、塗りつぶしたりするプログラムであった。コンピユータ本体が二十キロの重量に対してXーYプロッターは四百キロの重量であった。機械を所持しないため作業はその会社へ出向いての作業であった。

  取引先が大手企業から税理士、電子部品組立業、弁当調理工場、中古車販売業の処理プログラム開発ならびに機械販売に移行した。経理、在庫管理の業務処理が多くなった。

2009年2月24日 (火)

M1 パソコン30年前のソフト 1 第1回 マイクロ・コンピユータ・アプリ国際会議

 五十三年十一月十四日より十八日までの五日間「七八国際マイクロ・コンピユータ・アプリケーシヨン・ショウ」が、東京都立産業会館で開催された。主催は日刊工業新聞社、社団法人日本電子工業振興協会、後援は通商産業省、科学技術庁であった。
これは第一回の[IMAC 78]という名称の國際会議で、会費は三万円、報告者は無料、講師料は一万五千円であった。約七十人が報告を行った。
  ビジネス部門ではチェヤマンとして矢矧晴一郎氏(日本タイムシエア)、報告者として次のような報告が行われた。
* 戦略的計画立案へのマイクロ・コンピユータ(略称マイコン)の応用
   報告者 矢矧晴一郎(日本タイムシエア)
* 労働力対策としてのマイコンの応用
   報告者 奥村栄太郎(石川島播磨重工業)
* 航空産業、総合商社ならびにリース会社等におけるマイコン使用の実態
   報告者 坂本清助(坂本システム研究所)
   
この会議に私が選ばれた理由は、チェヤマンである矢矧晴一郎氏はかって富士銀行に就職されており、これより十年前の四十三年二月、旅行業界専門誌、トラベルジャーナルで時局座談会として「航空産業におけるORとは何か」という議題で日本航空、西鉄、阪急、日本交通公社、日本通運の担当課長五名が出席した。そのとき外部から座談会に招聘したのが富士銀行調査部調査第一課副長の矢引氏であった。そのとき初めて私は矢矧氏にお目にかかった。パネル・デスカシヨンであり、一人の持ち時間は二十分である。報告内容は事前に事務局へ文書で報告し、事務局ではこれを製本し、出席者に配布されていた。
  五十三年でレストラン関係では㈱新宿中村屋の笹塚本社工場の構内に㈱ハピー・モアがあり、レストラン・チエーンの給与計算、食品材料展開、各レストランの月次収支計算速報などのプログラムの作成を依頼された。私のプログラム開発の主流が経理システムとホテル・レストラン部門に絞られてきた。
 汎用コンピユータメーカー、富士通、東芝などがパソコン市場に乱入したのは五十四年であった。パソコンのモデルチェンジは同一メーカーで約十八ヶ月であり、新機種が発表されると、新旧機種間での互換性に乏しいため、プログラムの作成には機械を新たに購入しなければならず、またプログラムの作り直しが発生した。
 このため販売の対象となる業種を絞り、その業種での専門家になる必要性を感じた。個人として航空と関連するソフトウエア開発はホテル関係であるという認識を強くしていた。      

M2 パソコン30年前のソフト 2 日航社員より東亜国内航空へ紹介

   航空旅客・貨物代理店に勤務しておいた私は、代理店内部の人々よりも航空会社の社員の方々のほうが、仕事の関連で知合が多かった。昭和四十七年より日航東京支店および本社貨物部開発課、経営管理室、財務部会計課にマイクロ・コンピユータをレンタルで提供し、プログラム開発の相談を行っていた。
   
財務部会計課の担当者より東亜国内航空㈱(日本エア.システム)ではホテルに計算業務を行っているので、コンピユータの話をされては如何という提案をうけた。
   
東亜国内航空㈱本社は虎ノ門の第十八森ビルの四階にあった。担当者からの情報であり、正式な紹介を受けたわけでないので会計課長の名前が不明であったが、乗員養成所の本科四期生の大石博司氏が整備部次長になっていたので、課長の名前を尋ねて面会を求めた。
   
同社には大手コンピユータ会社がセールスを行っていたが、六ヶ月後、経営管理室および財務部会計課に、それぞれ一台づつ機械をレンタル形式で納入することができた。プログラム作成の方法を個別に教えた。
   
これにより可なりの数の担当者がプログラムを組むことが出来た。航空会社の路線別分析はフライング・タイガー航空会社や日本航空での経験からその内容を知っていたため、これが評価されての契約となった。
 
ここで取引いただいた航空会社は米国のフライングタイガー、西独のフルトハンザードイツ航空、日本航空、東亜国内航空、米国航空機メーカーボーイングとなった。

M3 パソコン30年前のソフト 3 航空会社からホテルへ展開

四十七年に三井物産㈱の紹介で、渋谷区NHKの近くのジローレストラン・システム㈱にソニー・マイクロ。コンピユータを納入、ソフト開発の継続的な指導を行っていたが、このジローの紹介で東京第一ホテル㈱企画室とレストラン関係レシートのデザイン作成で取引が出来るようになった。

 第一ホテル㈱企画部は新橋の本社ビル改装工事のため、臨時に虎ノ門の第十八ビルの四階に移転していたが、このビルの四階、五階及び六階は東亜国内航空㈱本社が使用していたため、同航空会社に用があったときは、ついでに第一ホテル企画部を訪問した。 

 第一ホテル本社の改装工事が終了し企画室は新橋に移転した。新橋の第一ホテルの地階には、阪急交通社の旅行案内所があり、阪急の東京営業本部も新橋にあり、第一ホテルは阪急とは密接な関係にあったため、阪急に勤務していたということと、東亜国内航空本社に機械を納入し、ソフト開発を教えていることがビジネスにプラスであった。

 第一ホテルは五十四年二月に私からキャノンのパソコンを購入され、チェィンホテルの十五年間売上計画およびホテルの損益比較計算プログラムの開発を依頼された。

  二十八年四月に阪急電鉄㈱代理店部福岡営業所で海外旅行業務を担当していたが、電鉄に入社した同期の社員にはホテルへ出向した人も多かつた。

M4 パソコン30年前のソフト 4 航空貨物研究が縁でレストラン&内装工事会社へ

  三十六年七月に阪急交通社福岡営業所より東京貨物課に転勤した。航空と海上との輸送要因分析研究のため有楽町のパンアメリカン航空会社貨物部に出入りしていたが、そのとき知合となったのが本間昭治氏であった。その後、本間氏は日本航空㈱へ入社された。 

  四十七年に本間氏は日本航空㈱管理部貨物担当主任教官になり、その後、貨物部開発課長を経て、関連会社日本航空開発㈱の子会社、インターナヨナルフーズ㈱(IFC)に取締役として出向された。この会社は日本航空関連会社として、海外のホテル内レストランの経営管理を行っている会社で、売掛金管理のため私からキャノンのパソコンを購入された。

売掛管理プログラムは本間専務が開発された。日本航空の主任教官時代にソニーマイコンでプログラムを組まれていたのでBASICプログラムの作成では理解が速かった。航空会社の部課長クラスが関連会社へ出向し、売上管理が問題となったとき、会社で機械をリースされ、プログラムを組まれたことは新しい管理職の姿であった。

  この日本航空関連会社IFCが経営しているレストランに銀座弁慶があった。このレストランの内装工事を請負ったのが㈱エクス・ブレーイン・インダストリーで代表取締役社長は三木正也氏であった。五十三年秋に三木社長はIFCに設置されたキャノンのパソコンをみて、即座に機械の購入を決定された。このような関係で、その後、二十年以上の取引関係が発生した。

M5 パソコン30年前のソフト 5 第2回マイクロ・コンピユータ・アプリ国際会議

   五十五年七月八日より十日までの三日間、「八○国際マイクロコンピユータ・アプリケーシヨン・シヨウ」が東京大手町の農協ビルで開催された。主催は日本電子工業振興会、後援は情報処理学会などの約十六団体ですべて社団法人であった。
   
これは第二回の「IMAC 80」という名称の國際会議で会費は三万円、報告者は無料、講師料なしであった。約八十名程度が報告を行った。ビジネス部門のチェヤマンは前回と同じく矢矧晴一郎氏であった。次のような報告が行われた。
* マイクロ・コンピユータ(略称マイコン)による経営戦略・計画・管理の総合シミュレーシヨン
報告者 矢矧晴一郎(矢矧コンサルタント) 
* 工場総合管理システムにおけるマイコンの応用例
報告者 奥村栄太郎(石川島播磨重工業)
* オフイス・オートメーシヨン機器のマイコン制御
報告者 関谷邦彦(東京芝浦電気)
* マイコンの商業部門への応用、十年間のうちのこの二年の特徴
報告者 坂本清助(坂本システム研究所)
  以上四名が、報告者となった。
私は前回で開催されたと時でのプログラム開発とその後、二十ヶ月経過したその時、どのような変化があったかを紹介した。
国際会議において出席者より会費を徴収するが、後援の内容については事前に原稿を事務局で提出しているので、一冊の本として参加者に手渡される。このためその時の資料により、私が五十三年十月頃より五十五年五月頃まで何をしていたかが判明する。この二年間の開発例として、次のような記載があった。
ミニフロッピーディスク・システムの開発により、ビジネス部門においるマイコンの販売は、零細企業にも可能となった。
1 電子製品組立工場でのシステム
2 電気工事店見積計算システム
3 レストラン商品販売傾向分析
4 レストラン給与計算
5 ホテル収支計画表
6 アルミ工場海外建設計画
7 航空会社経営管理
8 会計経理システム
   最後に紹介したのはエクスブレーイン・インダストリー社(社長三木正也氏)とで共同開発したホテル・レストラン工事設計施行会社の会計経理システムであった。三木社長は同社の会計経理システムを一般に紹介したことを大変評価された。
 
開発したシステムを同業者へ紹介することは,ソフトウエア会社ではノーハウの流失である。このような国際会議で自社の経験を披露する会社は少ないが、一社一名の零細企業においては、どのようなソフト開発に経験があるか?をPRするにはまたとない機会であった。                                 

N1 ホテルパソコンシステム開発 1 第一ホテル福岡での併行作業

五十六年十月、新橋に本社がある㈱第一ホテル企画部より、ホテルフロント会計のプログラム作成を依頼された。五十四年にキャノン・パーソナル・コンピユータBXー1による新規ホテル建設のための十五年間ホテル営業収支計算プログラムの作成を行ったことがあった。 

  キャノンにおいては五十六年春、CXー1が発表され、この機械によりホテル・フロント会計のプログラムの作成を行い、約四ヶ月で作業は終了した。パソコンを都市ホテルのフロント会計の業務処理に使用するのは、これが最初のケースであると思われる。

 実際にホテルに機械を設置してテストすることとなった。最初に選ばれたのが

福岡市東
中洲の第一ホテル福岡で、客室規模は二百二十室であった。仕事を行うとき土地勘は重要であり、このホテルの二百米以内に、かって阪急に勤務していた当時の福岡営業所があり、また宝塚会館があった。この宝塚会館には東宝関係の映画館が四館あり、私の実弟坂本利彦が勤務していた。三十三年に弟は自衛隊を退職し、阪急福岡営業所の安藤昌彦氏の紹介で東宝映画の関連会社九州興行㈱に入社していたが、それから二十年後、このとき東宝関係劇場四舘の総支配人になっていた。

  第一ホテル企画室の山田主任と一緒に福岡へ出張し、現地でフロント会計の導入テストを行った。このホテルに五年前から導入されていたのが日立製品でHITAC10というオフコンで、そろそろ機械の買い替え時期になっていた。

  四月の最初の一週間出張し、私は東京へ帰り、第一ホテル企画室の担当者は福岡に残った。フロント会計の業務はホテルで深夜の業務となるため、宿泊は第一ホテルに宿泊した。

  現在、使用中のコンピユータとテストのために設置したキャノン機種との二種類の機械で同じ結果を求める併行作業に、同じ人員で処理することは非常に難しい作業であった。四月末であったので連休に入った。導入テストは終了した。この時代、パソコンでホテルのフロント会計を納入したのは前例がなく特に、記憶容量が少ないフロッピィ・デイスクを使用しており、ハードウエア的にも無理であった。結果的には二百二十室のホテルでのパソコンを導入することは困難で、新規ホテルは導入しやすいが現在、他の汎用コンピユータを使用している会社で、機械とソフトが異なるとき、同じ結果を求める作業というのはホテル側の要求が無理であった。 

 

N2 ホテルパソコンシステム開発 2 第一ホテルグアムへ導入調査

  ㈱東京第一ホテル企画部と共同で開発したフロント会計プログラムを最初にテストしたのは第一ホテル福岡であったが、次の導入先として米国グアム第一ホテルが選定された。

  五十七年六月二十九日、第一ホテルの山田主任と第一ホテルグアムへ出張した。四十六年十一月に米国へフライング・タイガー航空会社の出張で渡航したのが最後で、十年ぶりの海外業務出張であった。

  コンピユータを納入するホテルは米国であり、キャノン販売㈱は日本国内に限定された販売会社で保守面では可なりの制約があったが、前向きで対処することとした。ホテルにはコンピユータを一台設置し、残り一台を予備として、故障した場合は航空貨物として東京へ修理に依頼するということで、予備の機種を使用し、保守面はこれで対応することにした。

  プログラムの開発のための客室タイプ、レストランなどの科目の調査などを行っていたが、グアム島は電力事情がきわめて悪く停電が非常に多い。停電が発生した場合、自家発電装置が作動するような設備をホテルでは採用されていない。このため何か停電対策を講ずる必要があった。

  グアム第一ホテルのフロントは通常のオフィスではなく、吹き曝しで海岸からの潮風に晒されるので、機械が錆びやすいという懸念があり、故障しやすいということが現地調査で発見された。色々な点を考え、最終的には導入が見送られた。 

  グアムには新しく阪急の事務所が開設されたので、ハワイから阪急米国の社員二名がきていた。一人はAPL汽船神戸支店旅客課に勤務していた宮本茂氏であった。私は阪急福岡においては米国行きの移民の手続をしており、神戸以西ではAPL汽船での予約数は最も多く、宮本氏には色々お世話になっていた。

 この宮本氏にお願いして、三十三年七月に神戸から横浜へAPL汽船クリーブランド号の一等船室に無料で乗船させてもらったことがあった。海洋航路には一般の人は乗船できないが、代理店として北米への永住渡航者の渡航手続をしていたため、特別の計らい乗船させてもらった。

私の阪急退社後、宮本氏は米国阪急交通社に入社、ハワイ在住の副社長となった。他の一人は阪急に入社したときの同期生の武井二郎氏であった。この二人と懇談した。

  ホテルのシステムというのが一般のパソコンセールスと異なり、広域であったのはチエィンホテルの第一ホテル企画室との共同によるシステム開発であったためである。

  ホテルでのコンピユータの開発が最初に福岡、次にグアム島であり、導入の仕事で旅行が発生していた。最初の段階は二つのホテルとも導入は成功しなかったが、出張に要する旅費と日当は補償された。実際の導入は新規に設立された富山と筑波のホテルであった。

N3 ホテルパソコンシステム開発 3 富山第一ホテルへ納入

   五十七年十月、富山市の中心部に第一ホテル富山がオープンした。客室数百十五室、レストラン四店舗、宴会施設があるシティホテルである。北陸地方であるため十一月頃より雪が降り、保守その他で出張するときは、富山空港が積雪のため閉鎖される場合は、小松空港から金沢へ出て、列車で富山へ行くこともあった。
   
第一ホテルでの第一号フロント会計納入は富山であった。プログラムは順調に作動したがプログラムの納入、保守作業は深夜勤であるため、割合疲れる仕事であった。耐用年数は五年であり、プログラムおよびデータが五・三吋のフロッピーディスクに格納されているために磨耗し、読み取り困難になることがあり、このため現地への出張が発生した。機械のリース期間、五年間で富山には五回程度は出張した。一回の出張費は五万円、交通費は実費であった。

N4 ホテルパソコンシステム開発 4 筑波第一ホテルへ納入

  五十八年三月に第一ホテル筑波がオープンした。レストラン、宴会施設があるシティホテルで、客室数は百二十六室であった。機械とプログラムを納入した。筑波科学博覧会は五十八年三月十五日に開催されこれに合わせてオープンされた。
   三月十二日より天皇陛下
(昭和天皇)や皇太子殿下が、最初に休息されたホテルで、一般には三月十五日にからの予約受付となった。
  上野から列車で常磐線の牛久駅に下車し、タクシーでホテルへ入ったが、保守その他で五年間で延べ十回程度出張した。深夜業務が殆どであるため、一般には知られていない夜間でのホテル会計業務にはかなり精通するようになった。
ホテルは日曜日も祭日も稼動し、また一日二十四時間稼動であり、深夜でも電話がかかることが多いため、誰かこれに対応出来る社員が必要となり、一般のコンピユータ・ソフト会社では営業が困難であるのがこのホテル・フロント・システムであった。
   
第一ホテルのチーエンで積極的にホテルを紹介された時は、セールスが可能であるが、他社への納入の場合はシステムが異なるため、手直しが多くなるため、他よりのソフト開発をビジネスとしては優先していた。。

N5 ホテルパソコンシステム開発 5 ホテル・レストラン内装設計監理会社よりの注文

㈱エクスブレーンは赤坂に事務所があり、ホテル・レストランの内装工事・設計施行会社で五十四年四月に建設業の会計経理システムを開発しキャノン機種を納入していた。

  この会社は英国のトラヴェル・ロッジというホテルチエィンの日本での総代理店を計画されており、ホテルの内装工事を引き受け、またホテルを運営することが狙いであった。このため私にホテルに必要なコンピユータ・システムの提案を行うように要請された。

  ホテルでどの程度、コンピユータ化が行われているか?ホテル・レストラン関係の業界雑誌の調査内容を見ても、大型コンピユータを対象としたシステムであり、また実際のホテルの担当者に話を聞きに行っても必要が情報は得られないため、市場調査を行わず、私が考えたものを提案した。

 英国のホテルチーインの日本での展開を希望されているので、依頼された会社の社長の考えに合致したシステムが重要である。ホテル・レストラン工事の設計会社であるため、ホテルの建設並びに運営にようする費用を中心とする事業計画が最初のソフトプとなる。

  総合商社における海外のプラント建設の事業計画、リース会社で体験したマンシヨン建設、販売の事業計画、貸ビル事業計画、リースの期間損益計算、ホテルの建設十五年間収支計算、三木社長の会社の経理システムを考慮にいれて、独自のシステムを構築し、五十八年三月には納品した。その後、ホテルを対象とした会計経理、予算管理、フロント会計、客室予約管理、在庫管理、償却資産管理、料飲管理、宴会予約、セールスマンの業績管理であった。

  この会社は日本航空関係会社より紹介をうけ、五十四年四月以降よりホテル・レストラン工事会社としての会計経理、業績評価、給与計算、建設工事積算システムを開発していた。

2009年2月25日 (水)

P1 トータルホテルコンピユータシステム販売 1 海外旅行自由化20周年特集号編集協力

五十八年四月にエクス・ブレイン社(EX社)はホテルチエィン展開のための顧問として志賀景昭氏を採用した。私が開発したホテルパソコンソフトもホテルに詳しいコンサルタントの目で監修することとなった。
  海外旅行の自由化は三十九年四月で、旅行業界専門週刊誌「トラベル・ジャーナル」は三十九年正月に、海外旅行自由化二十周年記念として自由化の歩みの特集を別冊として発行した。この特集号にEX社で開発したTHCS(トタルホテルコンピユータシステム)の全面二頁広告が掲載された。
  五十九年二月中旬、この雑誌社を志賀氏とともに表敬訪問した。この時、森谷社長より二月下旬に私の知合の中村正生氏が編集局長兼編集長に就任することが伝えられた。この中村氏は四十五年夏にトラベル・ジャーナルを退職し、航空貨物専門誌「SPACE]の編集長となった。創刊号より私は約三十五回、連載執筆した。その後、中村氏はグアム観光局へ転職された。私が独立してビジネスを展開できたのは、この中村氏の支援の賜物であった。
  五十九年四月より海外旅行自由化二十周年特別企画として、中村編集長が書く特集記事として、海外旅行二十年間の需要分析を行うことになり、データ処理の手伝をした。
  阪急福岡営業所での海外旅行業務では三十三年ごろから旅行のマーケットの研究をしており、外務省で公表された旅券発給統計を分析したものである。海外旅行の自由化は三十九年四月であり、その時点での分析をジャパン・エア・ジャーナルで行ったことがある。海外旅行の統計データの分析には非常に興味をもっていた。
  トラベル・ジャーナルで編集された海外旅行二十年間の統計データを分析して、これを特集記事にするわけであるが、どのデータとどのデータとを対比させれば、二十年間の傾向を分析できるかがポイントとなる。
  海外旅行二十年間の統計データを自宅に設置しているキャノンパソコンAS100に約千種類入力し、半対数グラフによる最小自乗法プログラムを開発、比較関連するデータを一画面にカラーで表示、これをカラーで印刷するシステムを開発した。カラーの画面印刷を納品として提出した。
  画面の縦軸は約十八糎でこの中に最低五万人から最高五百万人の目盛を入れ、また画面の横軸は約二十四糎でこの中に三十九年より五十八年までの二十年間の年度を表示させるわけである。伸び率が同じであれば半対数表では直線として表示されるので、関連性があると思われる特定の時系列データを、コンピユータで呼び出し比較すると、一般には気が付かない傾向を把握できる。
  例えば、年齢別で二十歳未満、二十一歳から三十歳までの年度別渡航者数の時系列データの画面表示によりヤングかミドルかの伸び率が視覚により把握できる。
分析する私がこれらの特徴があるデータをコンピユータより呼び出し、データ分析のポイントとなるところを編集長に説明し、編集長は読み物としての記事を書くわけである。                                                                           

五十九年
四月 二日号 1984年の需要を予測する。成長期より微成長期へ
  二二日号 照る日、曇る日、みぞれの日 海外旅行市場今年の空模様
五月二八日号 海外旅行者の年齢別分析 ヤングかミドルかシルバーか
六月一一日号 デスチネーシヨンはそうのびるか 一四ケ国 二十年間
八月二七日号 航空座席は過剰か不足が 路線別、需要、供給を分析する
九月  三日号 1984年日本発航空座席調査
  一七日号 Cクラスの乗り心地、各路線の推移を分析する

以上

P2 トータルホテルコンピユータシステム販売 2 晴海国際見本市にソフト出品

  五十八年三月にエクスブレーイン・インダストリー㈱(以下EX社と略称)に次のプログラムを開発、納品した。
  ホテルフロント会計     客室予約管理
  在庫管理                  償却資産管理
  料理飲料管理            会計経理 
  予算管理                  給与計算 
  EX社は英国のホテル・チエーントラベルロッジの日本での総代理店を取得するため、日本でホテルを展開するために必要なホテルのコンピユータ・システムであった。このプログラムはEX社が一般に販売するソフトウエアであった。 
  五十八年四月より顧問として志賀景昭氏が同社に採用され、志賀氏は私が開発したプログラムの監修と販売用の宣伝資料を作成、このソフトの販売責任者となっていた。
  五十九年三月十二日より五日間、晴海の国際見本市で「ホテル・レストラン・シヨー」が開催され、EX社がプーズを借りていたので、EX社が保有するキャノン機種AS100によりフロント会計のデモを行った。
   
機械の操作並びに説明はこのプログラムを私が担当した。開催中は連日、大雪が降っていた。このデモにおいては契約の成果はなかったが、志賀顧問の紹介で㈱リードの営業部長伊東氏と知合となった。伊東氏はその後、会社を退職され、㈱シードを設立され、成田レストハウスへのフロント会計の売込みに協力された。また日本IBM㈱のホテル・レストラン部門担当課長の金子一郎氏と知合、二年後、 日本IBMのプログラム登録店になったとき顧客の紹介に協力された。

P3 トータルホテルコンピユータシステム販売 3 ホテル・レストラン産業視察団に同行

  EX社はホテル・レストラン専門月刊雑誌「ホテレス」に毎号、レストラン内装工事での自社の作品を二頁にわたり広告をしており、また、海外のレストランのインテリアを見学するため、ホテル・レストラン関係者のツアーを募集していた。
  五十九年六月二十九日より二週間、「ホテレス」の出版会社㈱オオタバブリケーシヨンと共同で主催していた「第十四回ホテル・レストラン産業視察団」に参加した。訪問先はサンフランシスコ、ニューヨーク、アトランチクシチイ、ロンドン、ウインザー、パリーおよびシンガポールであった。
 
宿泊した各ホテルの支配人やレストランチエーンの経営者からセミナーを受ける旅行であった。この参加者の中にホテルを建設する会社の課長クラスがいるため、EX社の要請により参加した。 シンガポールでは第一ホテルでお世話になった山田主任が近くオーブンするシンガポールの第一ホテルの開業準備委員として赴任していたので会食を共にした。山田主任とは福岡、グアム、富山、筑波へのコンピユータ関係では同行された。

                              

P4 トータルホテルコンピユータシステム販売 4 都市ホテルとリゾートホテルへのアプローチ

 五十九年はじめにトタルホテル・コンピユータシステムを㈱エクスブレイン(EX社)へ納入した。EX社はホテル・レストランの内装工事が本命であるが、英国のホテルチェィン展開のためのビシネスに志賀顧問を採用しており、ホテルが設立された時に必要なコンピユータのシステムを私が開発した。このシステムを一般に市販するのはパソコンの機械としての限界と開発したプログラムの特徴を知る必要があった。
  EX社から依頼される前に開発したフロント会計システムの納入実績は第一ホテルの富山と筑波の二つのホテルであり、客室数は百二十室前後の新築の都市ホテルであった。  EX社の取引があるホテルは五百室以上のホテルで都市ホテルよりもリゾートホテルでありパソコン一台で処理するシステムでは可なり無理があった。
C
RT画面が英語使用で、漢字システムはまだ開発していなかった。ワープロ機械が発売された初期の段階では一台三百万円と高価であり、パソコンにはまだ漢字システムが組込まれていないため、漢字組込システムの販売が困難であった。コンピユータの対象となる百室程度のホテルのシステムには漢字の処理が必要であったが、この処理ができないために、旅館関係の処理は不向きであった。

P5 トータルホテルコンピユータシステム販売 5 鹿児島へ経理システム研究会に出張

 六十年一月に鹿児島城山観光ホテルにEX社長に同行して出張した。このホテルの内装工事をEX社が引受けているため、ホテル会計経理のコンピユータの開発で参考となるシステムの説明会で、二泊三の日程であった。

二月に再び城山観光ホテルにホテの会計経理の講習会で二泊三日の日程で出張した。内装工事会社のコンサルタント的サービスの色彩を帯びていた。部門別の損益計算システムには部門別コードの設定が必要な旨、力説した。交通費はEX社が負担、ホテル滞在費はホテルの無料宿泊となったが、坂本システム研究所のビジネスとしては成立しなかった。

  EX社で紹介されたのはリゾートホテルで、日本式旅館の色彩が強いため一室の料金の観念がなく、一名、食事込みでいくらという日本旅館的な料金設定はフロントシステムとは可なり処理体系が異なっていた。

  客室へ電話料金の自動登算、複数のCRTよりの客室への入力など、色々なシステムの発生が予想されるが、初期の段階においては、コンピユータの中身を知っているものが販売しないとシステムは無理であった。

  客室の料金の計上では、その日の売上はその日の宿掛に計上するのが都市ホテルで、客がチェックアウト時に、すべての売上を計上するのが日本式旅館システムであった。この様な相違があるため、プログラムの中身は全く異なるものであった。 

  ホテルのシステムの価格は数百万円から数億円までの価格の相違があり、数千万円、数億円かけて機械を導入したいとするホテルよりも、最も経済的に機械を導入したい会社にパソコンの市場があると思われた。ホテル用語(英語)を理解するホテルが最初の導入先になるもとと思われる。

Q1 ホテルフロント会計ソフト販売 1 沖縄よりの照会

  六十年二月上旬にキャノン㈱の東京での販売店である㈱BPCの吉本社長に開発した建設業の経理システムとホテルフロント会計資料を手渡しプログラムの紹介を行った。吉本社長は沖縄出身であり、休暇で沖縄に帰省したときキャノン㈱の販売店であるSCAT沖縄の名嘉課長に見せたことがあった。SCAT沖縄は税理士事務所が親会社であったため、私が開発した経理システムを評価してくれた。
  五十二年六月のキャノン販売㈱
のセールスコンテストの表彰式(於熱海、金城館)に同課長も出席していた。キャノン販売㈱パソコン販売担当小関部長より坂本システム研究所はパソコンの販売以外にソフトウエアの開発で可なり収益をあげている旨、紹介されたので、同課長はこのことを記憶していた。
  六十年二月下旬、同課長より電話がかかり、フロント会計で出張して欲しいとのことがあった。私は日本航空の沖縄線開設招待飛行で二十九年九月に約一週間旅行したことがあり、その後の沖縄に対して興味もあり、出張する旨返事をした。
 
EX社よりの要請で開発したフロント会計は、まだ一台も納入したことがないため、顧客がこのシステムの納入実績を尋ねられた時は、まだ何処にも納入していないという回答になるわけで、最初が非常に難しいセールスであった。
 
EX社がトラベル・ロッジホテルを日本で展開する場合、EX社が期待するホテルシステムとして開発しており、EX社の経営理念が反映されているシステムであった。EX社あるいは他社の紹介で東武ホテル渋谷、大京観光、東海観光、筑波ホテル、三島グランドホテル、東洋ホテル、日本ユニバック、十和田湖ホテルなどの担当者へデモを行ったが、新規に開発したプログラムで納入実績がないため説得性に欠けていた。最初の納入先を確保することが重要であった。
 
コンピユータの販売においては対象ホテルの客室規模、ホテルの性格の把握が必要であり、とくにパソコンを使用しているため、従来のコンピユータに比較しての特徴と欠点とを把握することが、セールスでは重要であった。EX社より東京の某ホテルを紹介されたが、このホテルはチェィンホテルで、ソフトの売上高も多く、場所もセースルには好都合な東京であったが、成功するにはかなり時間がかかるため、沖縄の売上高は少ないが、沖縄の方が確実性あるものと判断した。
 
ソフトウエアの開発、販売における出張では業者が交通費を負担するのが通常であるが沖縄のような遠隔地の場合、航空運賃でも往復五万円になるため、出張が困難であるが、これをSCAT沖縄で負担するという条件であったので出張することとなった。

 

Q2 ホテルフロント会計ソフト販売 2 ホテルサン沖縄へ納入

 六十年三月二日、全日空で沖縄に出張した。東京より約三時間の飛行であった。名嘉課長は最初にムーンビーチ・ホテルに案内したが、コンピユータを導入するための社内の話合が整備されていなかった。同課長はセースルの予備としてホテルサン沖縄(客室数二百八十室、レストラン四店)を紹介した。このホテルは空港より十分以内の距離にあり、この近所に国場組の関連会社、㈱国建があった。の会社の会議室を借用して、翌日デモを行った。デモに出席したホテル経理課長嘉味田氏はデモのプログラムにバグ(虫)が無いこととホテル側のソフト修正要求に応ずることを条件としたため、三日後に納入が決定、三月末に機械が導入されるようになった。

プログラムの予算は百五十万円で交通費を入れると採算的には良くないが、独自に研究したシステムの第一号であった。ホテルとしては他の業者にこの金額の予算でシステムの発注を行っていたため、この予算で了承して欲しいとのことであった。開発していたフロント会計でのCRT画面は、英語仕様となっていて一般のホテルでは敬遠されるところが多いが受入れられた。

経理課長は米国系ホテル・チェィンで勤務された経験があり、開発したシステムが米国式経理処理を採用していたためOKとなった。一台のパソコンで客室規模二百八十室まで処理できる実績を第一号より作ることは極めて恵まれた条件であり、東京より一八○○キロの遠隔地で稼動させることとなった。プログラムに欠陥があるときは修正したプログラムを速達郵便で送ることにした。

六月一日より本番計算を開始した。沖縄の状況にあわせまたホテル側の提案でよいと判断されるものは、この提案システムに織り込んだ。ホテルサン沖縄には三月上旬にデモ、三月下旬に機械設置時のプログラム・セットアップ、五月末にフロント会計書(沖縄県税務事務所承認済み)の正式印刷様式の採用開始時三回わたり出張した。

Q3 ホテルフロント会計ソフト販売 3 沖縄地区訪問販売

ホテルサン沖縄には六十年三月上旬にデモ、三月下旬に機械設置時のプログラム・セットアップ、五月末にフロント会計書(沖縄県税務事務所承認済み)の正式印刷様式の採用開始時三回わたり出張した。
その後、六月、七月および八月に他のホテルのセールスで沖縄へ出張した。これらの往復交通費や滞在費は当方の負担であるため、ホテルに二度、訪問してデモを行う時は、訪問先のホテルの客室タイプや料金の手直しを行っていた。
  名嘉課長が運転する乗用車で西部オリオン(二百室)、沖縄シエラトン(二百八十室)ムーンビーチ(二百六十室)、パシフィック(三百八十室)及び那覇東急(二百八十室)、沖縄リーゼントホテルを訪問、とくに日本航空開発㈱のホテルグランドキャスルには二回デモを行い可成りよい線が出ていた。
しかしながら、きわめて運が悪いことは八月十二日の京~大阪間の一二三便が御巣鷹山で墜落事故があり、日航のホテルでは設備投資が差控えられ、また沖縄への旅行者数は急に冷えこんだ。このため沖縄のセールスは断念せざるを得なかった。これは、大変な痛手であった。
 
ホテルサン沖縄で採用されたフロント会計がその後のフロント会計の基礎になるが、沖縄と同じく英語の会計書を抵抗なく受け入れられる地区が次のセールスの目標となる東京国際空港周辺ホテルであった。

Q4 ホテルフロント会計ソフト販売 4 新東京空港内ホテルへ納入

五十九年三月に晴海のホテル・レストラン・シヨウで当時、ホテル専門の汎用コンピユータソフト会社の㈱リードの営業部長であった伊東と知合った。その後、伊東氏は会社を退職し、独立して㈱シード・プランニイングを設立し、社長となった。

六十年六月に伊東社長に同行し、成田の新東京国際空港内にある東京航空食品㈱(略称TFK)の一部門である成田エアポートレスハウス(二百十室)にフロント会計システムのセールスに出向いた。TFKは国際線の機内食を提供している会社で日本航空㈱が四十三パーセント、エアフランスが三パーセント出資していた。

レストハウスは空港構内にある唯一のホテルで管制塔と接近しており、付近には国際航空貨物施設であった。この地域は警備が厳重で訪問するには警察官がゲートで訪問先よりの了解の有無を確認しており、五十米間隔に盾をもった機動隊員の前を通りぬけてのセールスであった。

四十三年六月に航空局の推薦で私は、航空貨物需要予測委員会委員の委嘱をうけた。これは新東京国際空港貨物施設の規模を検討するための委員会であった。四十四年五月より航空貨物システム開発で独立、五十年に航空貨物分野から撤退した理由が、この厳重な警備体制であり、航空会社や代理店への飛込みセールスが困難と予想した。実際、空港が開港したのはそれから三年後であった。空港構内の仕事は私にとっては、きわめて土地勘があるところの仕事であった。 

 六十年六月よりホテルサン沖縄のフロント会計システムが本稼動した。パソコンの簡易ワープロで沖縄でのフロント会計システムの説明文を作った。十二月末に見積書を提出、この説明文が決済のための稟議書に添付され、見積書が承認され、六十一年四月よりのコンピユータの導入が決定した。

  見積書には経歴書の添付となるが取引先が航空産業であり、レストハウスが日本航空の関係会社であったことはプラスであった。六十一年三月にフロント会計に機械一台を納入、開発したプログラムをテストし、四月一日より本稼動した。

 見積書には売掛管理システムの開発もあり、四月に売掛管理用として機械一台を納入した。売掛管理は新しく開発したため、担当者との打ち合わせにかなりの時間を要した。スカイライナーで上野から成田空港まで出張した回数は約四十回、開発に要した時間は約千三百時間となったが、八月には作業が終了した。

このホテルの主な売掛先は航空会社と旅行代理店、空港内の航空貨物関連会社などであり、会社名で略称を使用する場合が多い。また通過客の場合の宿泊料は航空会社で負担するが、その金額を二社の航空会社で分担するが、その分担方法を「プロレーシヨン」とよばれている。このような業界用語が必要な特殊ホテルであった。            

 

Q5 ホテルフロント会計ソフト販売 5 売上不振、会社組織に組替

   EX社の顧問であった志賀氏は退社し、ホテルコンサルタント会社を設立し、また国際観光専門学校東京校の国際ホテル学科の非常勤講師となった。
   六十一年八月に成田エアポ
ートレストハウスのプログラム開発作業が終了したが、それ以降のビジネスとして、㈱シードプランニングの伊東社長と東京都内並びに成田地区のホテルへセールスを行った。 伊東社長の本命の業務は都市の色彩関係の仕事であり、ホテルのコンピユータの導入が成功した場合は紹介料を支払っていたが、成田レストハウス以後のセースルでは順調に行かないため、伊東社長はホテルセールスを断念された。 沖縄のSCAT販売店の名嘉課長はSCATを退社され、㈱国建のシステム部次長として就職された。  このため販売に協力された人が消滅した。
  -
四十四年五月より坂本システム研究所を設立したが、株式会社組織にせずに仕事を展開したが、一般ホテルへの販売には信用の面で限界が発生しており、六十一年八月の時点では、新規のプログラム依頼先がストップしていた。
   
EX社においては顧問の志賀氏の退社により計画していた㈱IHD社が設立されないままになって中断したため、EX社長より私にこの会社を設立し、その代表者に就任するように要請された。
  設立予定の㈱IHDはホテル建設のコンサルタント業務やホテルへの人材を派遣、予約センターの業務を主なビジネスとして企画されており、副次的なものとしてホテル・コンピユータ・システムを開発する業務などがあった。  ホテルのコンサルタント業務や人材派遣業務は経験がないため引受けることはできないが、五十八年一月よりEX社のコンピユータ・ソフトウエアの開発を行っており、ホテルのコンピユータシステムの開発と販売に限定した業務での会社設立は可能と考えた。
   EX社は日本航空関連会社の紹介で五十三年末より取引を開始しており、同社の経理システムの処理、給与計算、工事積算などでは、私から機械を五台程度購入され、またプログラムも開発も委託されていた。個人で販売を行うことは暗礁に乗りあげており、このとき取引先よりの提案により、新会社を設立し、新たなビジネスを行うこととなった。 六十二年三月十七日に私は還暦を迎えることになったが、十九年継続した自宅でのソフト開発ビジネスから会社へ定期的に通勤するサラリーマンへ転身することとなった。
 
会社組織において当座、為すべき業務として、今までにキャノン機種で作成したホテル関係コンピユータソフトを日本IBM㈱のパソコンに移行することであった。キャノンからIBMへの転換を考えた。将来OSがIBMに移行することを予測した。四十二歳の厄年から六十歳の還暦までの期間の仕事がこの自営業「坂本システム研究所」であった。 

 

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