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2009年3月

2009年3月 1日 (日)

R1 個人から会社組織に変更 1 パートナーとの関係

 昭和五十四年春にホテル・レストランの内装工事設計管理会社エクスブレーイン・インダストリー(EX社と仮称)にキャノンのパソコンを納入した。最初に開発し納入したプログラムは、内装工事会社の期日管理経理システムであった。その後、ホテル・レストラン建設事業計計画、ホテルトータル・コンピユータ・システムのプログラムの開発を行っており、坂本システム研究所においてはホテルへのパソコンの納入実績では東京第一ホテル、第一ホテル富山、第一ホテル筑波、ホテルサン沖縄および成田エアーポート・レストハウスの五件となった。
 昭和四十四年五月より坂本システム研究所を設立、一名一社という零細組織で十六年間、活動したことを評価され、新会社を設立し、代表取締役になることを提案された。昭和五十年七月よりキャノン販売㈱のパソコン販売店契約を行って十一年になるが、新会社を設立して日本IBM機種にもホテル・コンピユータ・システムの移殖の必要性を感じていた。
  昭和六十二年二月十二日、ソアレックス株式会社、資本金千二百万円、本社所在地、港区赤坂で設立登記を行った。代表取締役に三木正也氏(EX社長)と私が就任した。出資比率は各々五十パーセントとした。
  会社の事務所はEX社の事務所の一部を借用した。
対外的には坂本システム研究所の会社組織ということになり、プログラム開発例と会社概要、私の経歴などを紹介した。EX社はホテル・レストランの内装工事設計会社であるため、ホテル・レストランという同一マーケットを対象にした新会社であった。

R2 個人から会社組織に変更 2 営業案内パンフレット

昭和四十四年五月にSOHO業者として設立した「坂本システム研究所」は一社一名の零細企業であり、法人組織としても一社一名の組織である。新会社の紹介には個人としての業務の実績が必要となり、①経歴、②取引先および③ソフト開発対象業務の紹介を行った。

代表取締役の経歴として

二八~四三 阪急電鉄㈱社員  出向先㈱阪急交通社
四二~四三 総務部事務機械課長兼貨物部企画課長
四四~現在 坂本システム研究所代表 
四四~四八 フライングタイガー航空会社社員
四七~四八 ボーイングコンサルタント
四五~五八 ソニー倉庫、ソニーサービス嘱託
新会社のプログラム開発例として
1 フロント会計  2 予約管理  3 会計経理 
4 予算管理   
5 償却資産管理  6 在庫管理
7 給与計算  8 顧客管理         9 売上請求 
10 部門別売上売掛集計

プログラム開発実績として

官公庁  運輸省(航空機騒音証明)
      国家公務員共済組合連合会(医療経理)
運輸   ルフトハンザドイツ航空(コストシミュレーシヨン)
      日本航空(本社部門各種プログラム)
         
  日本通運(関税申告計算)
商社   三井物産(約二十部門、各種プログラム)
リース
  三井リース事業(リース計算、期間損益計算)
       とみんリース(リース業経理)
       日本ランディツク(リース採算)
 
ホテル   成田エアポート・レストハウス(フロント会計)
      富山、筑波第一ホテル 
      ホテルサン沖縄(フロント会計)
 
飲食 
 ジロー(経営管理) 
        ハピーモア(レストランチエーン経営管理)
建設 
  エクスブレーン・インダストリー(建設業)

以上の会社案内は六十二年三月六日及び二十日の「ホテル・レストラン」週刊業界誌の
中開き四面広告に掲載され、これを新会社のパンフレットに使用した。

会社概要

経歴・開発実績 

 EX社はこの業界誌に隔週でレストラン内装工事作品事例を紹介のためスペースを確保しており、これを利用してのソフトウエアの紹介という販売面での武器があることが新会社の特徴であった。 

 

2009年3月 2日 (月)

R3 個人から会社組織に変更 3 日本IBMパソコンへホテルソフト再開発

  六十二年二月にソアレックス㈱を設立し、当初の開発目的としてはホテルコンピユータシステムのCRT画面が英文字使用となっているものを漢字仕様にキャノン機種を対象として変更することであった。坂本システム研究所において日本IBMプログラム作成登録店の承認を得て、IBMパソコン55を発注した。三月八日、機械を会社に設置した。次女は日本IBM(六本木本社)に五十九年四月に入社、六十二年四月にシステム・エンジニア部門へ転勤したため、IBM機種のプログラム作成研究には好都合であった。
  キャノン機種のOSはMS/DOSでIBMのDOSとはかなりの類似性があるが、フロッピーディスクへのデータの入出力命令が異なるため、プログラムは打ち直しを余儀なくされた。七月末でIBMパソコンに移行できたプログラムはフロント会計、部門売上売掛集計及び客室予約管理の三種類で、これをまとめてフロントシステムとした。会社設立当初は仕事がないことを予想しこの間、IBMにも利用できるソフト開発を行った。

2009年3月 3日 (火)

R4 個人から会社組織に変更 4 石垣島よりホテルソフト開発依頼

六十年三月にホテルサン沖縄にフロント会計プログラムを納入、この時、SCAT沖縄の名嘉課長の紹介であったが、六十年秋にはSCATを退社して、㈱国建システム部次長として就職した。
 
㈱国建は倒産したホテルを買収し、改装工事を行うことになり、六十一年夏、ホテル建設事業計画採算業務で沖縄に三泊四日の日程で出張した。このときEX社と共同で開発したホテル建設事業計画プログラムを持参した。㈱国建システム部はキャノン販売㈱の販売店であり、機械を所持していたので国建のホテル開発担当者と買収したホテルの改装工事後、ホテルの運営を行った場合の長期経営計画のシミレーシヨン作業を手伝った。交通費と滞在費とを同社で負担、出張費として十五万円程度が支払われた。 新たに改装されたホテルは沖縄県石垣島に設立された八十室の石垣グランド・ホテルでここにホテルシステムを納入して欲しいとの連絡をうけた。 六十二年八月よりこのホテルへフロント会計、部門売上、売掛集計および客室事前割当システムを納入するため、キャノン機種により作業を行った。
 
島には八月より十月までの期間において、約五日の滞在で三回出張した。東京から沖縄那覇まで空路約三時間、それから南西航空で石垣島まで約五十分であった。航空券は約七万円、ホテル宿泊費はホテルの招待であった。ソフト収入は交通費を含めて二百五十万円であった。東京都内には販売対象のホテルが存在しなく、きわめて遠隔地に需要が発生していた。 新会社の最初の仕事が石垣島のホテルであった。ホテル建設事業計画というソフトによって、コンピユータソフト開発を受注した最初のホテルであった。

R5 個人から会社組織に変更 5 富士通電子交換機との接続

  成田エアポート・レストハウスには、六十一年四月にフロント会計システムを開発、納入していたが、同ホテルより六十二年十一月、使用中の電話交換システムを撤去して新たに電子交換機システムを導入したいとの連絡を受けた。
 客室から外部へ電話をかける場合、客室ごとのメータ計に電話の度数が表示され、夜間に客室料金や飲食代金を各部屋に付け込むとき、電話課金を手入力していた。
  電子交換装置を導入して各部屋の電話料金はプリンターで印刷し、更にフロント会計コンピユータと連動させ、毎日、夜間に自動的に電話料金を各室ごとに付けこみ、チェックアウト時に早朝で使用した電話課金があれば、自動的に会計書に追加記入をさせるシステムがホテル側の希望であった。数社の電子交換機で使用中のキャノン機種と連動する交換機として、富士通の電子交換機FETEX2700をホテルに推薦した。富士通より提供される電子交換機インターフェイスの仕様書が唯一の資料であった。
 
富士通のコンピユータと電子交換機との接続を前提としていたのが富士通側のシステムであるため、キャノンのような他のメーカーの機種との連動の経験が富士通にもないため、接続の研究は大変苦労した。コンピユータと電子交換機とを結ぶインターフェイスRS232Cの接続方法から研究した。電話交換機を取扱っている富士通の千葉特約店は電話機販売業者であり、電子交換機と他社のコンピユータの接続方法はこれが最初であった。また通信手順という用語の解釈も不慣れであったので、打ち合わせにかなりの時間がかかった。
 
フロント会計はBASIC言語でプログラムを作っていたが、電子交換機との接続命令に機械語が必要かもしれないと考え、キャノンに問い合わせたが、機械語が不要と判明したのは、二ヶ月後であった。 富士通より接続の研究のためFETEX2500電子交換装置と数台の電話機が会社事務室に提供され、私は会社でホテルに導入したパソコンと接続して接続の研究を行った。
 
三月十五日にレストハウスは新旧の電話交換機の入替を行いに、これに使用中のキャノンパソコンと接続した。通信機との接続にはホストコンピユータとしてのパソコンよりの電話課金の問い合わせよりの信号に応答しないケースがあり、この際、再度の照会を行うが、解答がなければ打ち切る処置を行わないと業務が進まないケースも発生する。この場合、結果的には電話課金の取漏れとなる。他機種との接続には電話交換機の欠陥、コンピユータの欠陥、接続のケーブルの欠陥、あるいは電圧に問題があるか、それともプログラムに問題があるか、責任を他社に転嫁できないことがある。
  阪急在職中、電算機を導入したのは富士通の機種で、ユーザーの論文集には二回掲載されていた。メーカーよりの支援が必要であるため富士通の通信機との接続を希望した。

S1 ホテルソフト開発と専門学校OA講師 1 ホテル学科実習ソフト開発受注

  六十三年一月末、国際観光専門学校東京校国際ホテル学科講師志賀景昭氏より、学校に東芝パソコンが二十一台設置されるので、フロントシステムを開発して欲しいとの連絡を受けた。志賀講師は二年前まではEX社の顧問であり、私が開発したシステムの内容を点検し、販売が可能なように説明文をワープロで書く業務に従事されていたため、私が開発するホテルフロントプログラムの内容は熟知されていた。
 
学校に納入を予定されている東芝のパソコンは観光学科、航空輸送学科および国際ホテル学科が共同で使用し、ソフトウエアは東芝のソフトハウスで開発中であったが、開発中のソフトは観光学科では旅行計画書の作成、航空輸送学科では航空貨物運送状の作成で、実習担当講師がソフトハウスに業務内容の概略を教えて開発させていたが、コンピユータ授業が四月から開始されるため、ホテル学科のプログラムはこれに間に合わないと判断された。新規開発よりも実際にホテルに納入し、使用されているシステムのほうがよいという結論になった模様である。
 
私が開発したホテルフロント会計システムは米国式の会計経理であるため、国際的に汎用性があると判断された。志賀講師より見積書には志賀講師が内容についてすでに点検済であること付記するように助言された。国際観光専門学校には留学生が多く、またホテル業界用語に慣れさせるためにプログラムを日本語と英語との二種類とすることを学校へ提案した。このため見積書は四百二十万円となった。ホテルに納入する場合、パソコン一台を対象にしているが、今回は二十一台を対象とした金額であった。
   
コンピユータ処理の対象となるホテルのモデルは客室規模を二百室とし、レストランおよび宴会施設を七ヶ所とした都市型ホテルとした。また電話料金自動登算の仕組をプログラムの中に折リ込み、使用中の客室から外部へ電話をかけたと同じような現象をコンピユータに乱数を発生させて再現させる計画とした。参考資料としてIBM機種で開発したフロント会計システムは日本語と英語の二種類の説明書を添付した。一年前に英文の説明書を作成していたので好都合であった。見積書を学校に提出し、承認を得てから開発に着手するのでは、四月十三日よりの授業に間に合わないため、間違いなく発注されるという想定で、プログラム作成に取り掛かった。プログラムを開発する私が國際ホテル学科コンピユータの非常勤講師をも兼ねることを希望された。授業を行う講師がプログラムの内容を把握しておく必要があり、ソフト開発者と講師とが同一人物であることは、学校としては大変魅力的であると言われた。学校よりの見積書の承認は確実であると予想し、二月のはじめよりIBMパソコンでプログラムを開発し、それから東芝のパソコンに移行する計画を立てた。

2009年3月 4日 (水)

S2 ホテルソフト開発と専門学校OA講師 2 取引先の環境

国際観光専門学校東京校事務局へ国際ホテル学科がコンピユータ実習に必要なソフトの見積書を六十三年二月に提出し、その後、校長室に挨拶に行った。校長は鷹司信兼氏で元日本航空㈱本社広報室次長であった。授業としては航空輸送概論を担当されていた。校長は私の経歴書を見るや、今年、阪急の混載部門JFCより卒業生を採用していただき有難うとお礼を言われた。日本航空の貨物部長であった網倉氏を知っているかということを質問された。即座にこれに答えた色々の話で私が知っている約二十名の日航社員の名前を申しあげたところ、校長は全員の名前を知っておられた。私は福岡で旅客業務、東京で貨物業務であったので、日航社員で面識がある人は多かった。最後に私を阪急に紹介したのは田尻重彦氏であると申しあげたところ、彼は校長の羽田時代の部下であったと答えられた。私が観光、航空貨物、ホテルを経験していることは、専門学校の全学科を網羅しており航空局航空機乗員養成所で航空機整備まで経験していることを大変評価された。
 
この学校の教務部長、学生部長は元日航社員であり、他に日航の関係者が五、六名、教職員として勤務していた。学校で使用するプログラムは、成田エアポートレストハウス(客室規模二百十室)で使用されたものをモデルとしており、このホテルは東京航空食品㈱の一部門で日本航空の関係会社であった。
 
国際観光専門学校の教育科目で語学はきわめて重要であり、コンピユータのプログラムでは日本語と英語との二ヶ国語を対応させるというアイデアはコンピユータ業者にはない発想である。私が講師を依頼された場合は、二ヶ国語を対応したほうが講義に有効であると思った。専門学校の授業では私は英語の講師ではないが、自己の語学での体験をコンピユータ授業に組み入れることが重要と考えた。
  プログラム納品時のデモの立合は鈴木  博氏で、国際ホテル学科講師でまた学校の顧問であった。帝国ホテルから日本航空開発㈱に入社され、専務取締役で定年退職された経歴の持主である。日本航空㈱関連会社IFCは日本航空開発㈱の子会社であり、IFCにコンピユータを納入していたので鈴木氏の名前は知っていた。鈴木氏はプログラムの立合で私がよい技術をもっていることを讃賞された。
 国際観光専門学校東京校には、昭和六十三年四月から平成九年三月まで満九年間取引が継続されたが、私にとっては、きわめて職場環境がよいところであった。

S3 ホテルソフト開発と専門学校OA講師 3 講師派遣業務

  六十三年四月十三日より国際ホテル学科二学年のコンピユータ実習の非常勤講師を委嘱され、学校とソアレックス㈱との講師派遣契約に基づいて実習を担当することとなった。講師料は九十分授業が「一コマ」で一万三千円である。講師料は毎月一回、学校より会社の銀行講座に振り込まれるため、一般の非常勤講師とは授業に対する考え方が異なる。講義は毎週水曜日九十分授業で四クラスを担当、年間二十七週で四単位の教科である。
  パソコンは二十台設置、一クラスは約二十名の編成であり、このなかには韓国、台湾、中共、香港、マカオ、ミクロネシア及びフィジィからの留学生が二十四名含まれており、また男女の比率では三割八分が女子学生であった。フロントシステムを学校に納入、かつ実習を担当するわけであるが、開発したシステムが妥当か否かは、学生が理解できるかどうかである。このため学生の理解を容易にするための教育資料の開発にかなりの時間を投入した。一日に四回にわたり講義をするために同じことを黒板に書くという作業を合理化しておく必要があり、事前に講義内容をワープロで作成、学校の複写機にかけて必要枚数を配布公休その他で欠席した学生にも資料を配布した。学生間でノートを借りる必要性がない授業であった。
  最初から教科書を作成するのは困難であるため、学生はパソコンのスプロケット付パソコン連続用紙を綴じ込むことができるファイルを教科書替わりに購入し、学校で準備された書庫棚に保管させた。実習でのアウトプットを各学生のファイルに順序よく整理させ、講師がファイルの見本として「目次」を配布した。試験においてはこのファイルを持込資料とし、この中から試験問題を出題することにした。

   

S4 ホテルソフト開発と専門学校OA講師 4 ワープロ自己研修に自分史作成

  六十二年二月にソアレックス株式会社を設立し、事務所にはキャノンAS300二型とIBMパソコン5540機種が設置されていたが、会社設立前から自宅(坂本システ研究)にはキャノンAS300とハードディスクを設置しており、六十年五月より㈱とみんリース会社よりリース物件として借受け月額五万円程度支払っていたが、プログラム作成業務は会社の機械を使用する頻度が多く、自宅での機械の使用頻度は減少した。
 
六十三年四月より國際観光専門学校の講師となり、授業の資料を作成するにはワープロを使用するため、パソコンを使用してワープロの練習を行う必要性を感じた。
   
専門学校講師では還暦を過ぎた人が多いが、ワープロで教材を自分で作成して配布する人は、割合少ないのが現状であった。リース会社より借受けた機械は陳腐化しているが、リース期間中にこの機械を返却することはかなりの額の解約料を支払う必要があり、このため継続してこの機械を使用することにした。機械の有効的使用としてパソコンをワープロとして利用することにした。 四月末の連休より自分史を書くことにした。休日あるいは会社から帰ってきて、文章の作成にとりかかった。余暇の利用方法としての自分史の編集は作文、手を動かす訓練、過去の記憶を蘇えさせるという効果はあると考えられる。 自分史の作成を計画したとき、これには根気力が必要で、これは今後の仕事にも重要なことであるので、この点からも自分史をワープロで作成することは意義があった。
 自分史を書くためにワープロの機械を導入するのでなくて、月額五万円のリース料の支払を有効にするための対策であった。 最初に四百字詰めの原稿用紙に鉛筆で二百枚程度書き、三十八字X三十八行を一頁として一話ずつにわけ約五十頁の文章を作成した。ワープロ文章の作成時間を入れると約千時間かけたことになる。  六十四年一月六日、昭和天皇が崩御された。この日から毎日の如く、テレビでは昭和時代というものを特別企画として放映されていた。私は昭和になって四ヶ月目に誕生したため、昭和というのは大変意味をもっており、自分史のワープロ作業とオーバーラップさせながら、テレビや新聞記事をみていた。一月八日、年号は平成となった。二月末には一応、自分史の編集は終了した。これを私の昭和時代とした。

   

S5 ホテルソフト開発と専門学校OA講師 5 新規消費税を授業に反映

  平成元年において特筆されるのは消費税の導入で色々と反対があるため、これが先送りされることを想定していたためホテル関係の消費税関係の詳細は事前に把握できなかった。四月一日に消費税が導入されることになり、その詳細が判明したのは、二月十五日ごろ成田地区で税務事務所がホテルの担当者を召集しての質疑応答であり出席した担当者は係員に矛盾点を質問するわけである。
 消費税の徴収は運用面では地区により解釈が異なるが成田地区での解釈をコンピユータのプログラムに反映させた。ホテルにおける消費税の導入は従来の一名につき一泊五千円以上が課税、税金は課税対象から二千五百円を控除額として、一割の税金であった。消費税の導入により、すべて三パーセントの消費税、一泊の宿泊代と食事代との合計がの宿泊費と食事代の合計が一万五千円以上となると課税対象となり、矛盾があり、これ一万五千円以上の場合は、特別地方消費税がかかる仕組みとなった。
  同じ価格のものをホテ
ルで食事をしたとき、現金で払えば特別地方税がかからないが、サインすると当日の宿泊費と食事代の合計が一万五千円以上となると課税対象となり、矛盾があり、これを指摘しない地区ではプログラムが大変面倒になる。成田エアポート・レストハウスのプログラム変更の料金は一四五万八千円であった。沖縄では那覇地区は成田地区と同じプログラムであるが、石垣島は地方税務事務所の解釈通り行うため、プログラムの修正が困難であった。
   消費税の導入はすでにフロント会計
システムを納入したホテルへのプログラムの変更を伴う。  ホテルサン沖縄では使用していた機種をAS300EXへ切り替え、プログラムの再開発を行った。プログラム料は百万円であった。消費税の導入に伴い会計書に県税務事務所の承認申請が不要となった。
 
国際観光専門学校国際ホテル学科の授業は、四月十日前後より開始され、これに間に合うように、消費税組込みのプログラムの作成を行い、十一月に変更の約八十万円の見積書を提出、これが承認された。
 
専門学校の授業では税金などの計算はアップツウデートの情報が必要であり、学校側の決済を得てからの開発ではタイミングを逸する場合があるため学校を信用しての見切り発車であった。

2009年3月 5日 (木)

S6 ホテルソフト開発と専門学校OA講師 6 在庫管理・リネン管理ソフト開発

六十三年四月末、東京第一ホテル京都より連絡を受け、京都に出張することとなった。

建設地は京都市中区三条であった。中田氏とは五十四年に㈱第一ホテルの関連会社㈱第一インに就職されていた当時、ホテル建設事業計画を担当され、その時からの知合であった。
   
東京第一ホテル京都の中田氏とのプログラムの打合わせで年末まで六回出張し、十二月末にキャノンパソコンを京都に発送、ホテルにセットした。翌年の三月にプログラムの開発は終了した。その後、四回出張したので、合計十回の京都出張であった。
  ㈱オフィスコンピユータの代表取締役である佐々木源基氏の紹介で平成元年四月にオープンするロイヤルパークホテル箱崎の客室部門のリネン管理プログラムを納入することになった。このホテルは箱崎シテイターミナルに隣接しており、航空会社、代理店とも密接な関係があるホテルであった。
 
第一ホテル京都と同じく在庫管理システムであったので、リネン管理プログラムの開発の見本として、第一ホテル京都のシステムを紹介した。四月一日よりの消費税の導入は最初に想定していなかったため、納品直前に消費税のプログラムの追加が発生した。ホテルにはIBMの汎用コンピユータで導入され、客室管理部門には佐々木社長が端末機としてIBMパソコン5550機種を納入していた。この機械を利用してのホテル従業員の制服や客室のシーツ類の洗濯代やマッチや灰皿など備品を管理するためのシステムで、在庫管理と経費の管理が主体であった。ソフトを納入して殆ど問題が発生しなかったのは、機械の保守の必要性がなく、ホテルにはシステム管理部があり、色々な問題点はここで解決された。

2009年3月14日 (土)

S7 ホテルソフト開発と専門学校OA講師 7 宴会管理ソフトの展開

    成田プリンスホテルは東京航空食品㈱よりホテル施設を借用していたが、契約期間が終了し、施設は東京航空食品㈱に返還され、宴会施設を約三十億円かけて建設、成田ウインズホテルという名称で平成元年十一月十五日より営業することとなった。
   
レストハウスにはキャノンの機械が使用されたが、今回から日本IBMの5550機種を三台設置し、同一データをこれらの三台の機械が共同で使用するロカル・エリア・ネットワーク・システムとなった。機械及びソフトウエアの請求金額は一千一百万三十万円であった。プログラムはきわめて面倒であったが十一月十五日に間に合うように納品した。
  専門学校の卒業生が次第にホテルでのフロント部門よりはレストラン・宴会部門に入社直後、配置が行われている傾向があったため早速、宴会管理システムを専門学校の授業用に再開発した。宴会場名、使用メニューの名称や価格を改定して汎用性をもたせた。 宴会の手配書、見積書および請求書に必要な項目は日本語と英語とを対応していたためこのプログラムから観光、ホテル、航空輸送学科での業界用語編集システムを開発した。
  平成元年十月よりこの宴会管理と業界用語編集システムを試験的に実習に追加し、学生の興味があるかどうかをチェックした。予定していた教科を若干統合し、業界用語編集システムと宴会管理とを追加した。期末試験においては宴会管理も出題した。

S8 ホテルソフト開発と専門学校OA講師 8 札幌天神山宿泊管理ソフト

  平成二年四月、日本IBM㈱本社の地域プロジェクト開発部次長(北海道担当)の田中宏武氏より連絡をうけ、札幌市国際部が設立する札幌天神山国際ハウスのフロント会計システムの開発を行うこととなった。
   客室規模としては十三室であるが海外から学者、技術
者が札幌を訪問したときの長期滞在に向く家族単位の宿泊施設で天神山という丘の上に設置され、日本庭園や教育設備があり、他のホテルと異なるのは札幌市の条例によりホテルの消費税が免除され、売上はすべて札幌市の公金として計上することになっていた。
   二年四月二十三日より一泊二日の予定で空路、札幌に出張した。札幌市役所内会議室で国際部企画課職員、国際ハウス職員、IBMの田中次長、IBMの特約店㈱ホシ・伊藤の社員が出席した。この会議で一応、システム開発の方法が決定し、見積書をIBMの特約店に提出するが、会議出席者のホテルシステムに対する理解度により出張回数が決定するがこの会議に出席していないのは肝心の電話機器の納入業者であった。
  このプロジェクトを日本IBMと富士通とが入札でIBM機種が納入された場合、コンピユータと電子交換機との接続の話合ではIBMと富士通との話合は無理と考えた。この接続ではキャノンパソコンと富士通FETEX2700機種との接続を成田エアーポートレストハウスで行い、今回はIBMパソコンとの接続であるが、富士通機種の特徴を把握しているので、ソフト開発を引き受けることにした。
 このシステム開発には、札幌市国際部、天神山ゲストハウス、日本IBM札幌支店、富士通、電話交換機納入業者の五者が絡むため、相互の意志疎通がきわめて重要である。
  
  最初からシステムの完成まで何回、出張が必要か?羽田・札幌間の往復航空運賃は四万
三千円、自宅から羽田までの往復交通費、千歳空港から札幌天神山までの往復交通費、旅行傷害保険料、夏場のオンシーズンにおけるホテル代などの不確定要素を考慮してプログラム開発料金の見積を七回程度の出張で百九十六万円とした。納入が遅れると、天神山という高台に雪が降るため、この点も考慮しなければならない。この予想が外れると、大変な赤字となるため、難しい出張計画であった。
 

S9 ホテルソフト開発と専門学校OA講師 9 小規模ホテルと電話交換機接続経験

   平成三年に日航関連会社㈱インターナシヨナルフーヅの専務取締役本間昭治氏より、アリマックスホテル渋谷の設立準備室長となった関氏を紹介されたことがあった。このホテルは福岡市天神町にアリマックスホテル福岡を開設し、また札幌市にアリマックスホテル札幌を建設中であった。福岡のホテルにコンピユータを納入した業者が札幌にも納入する予定で、関係者のミーチングが行われた。このとき私も呼ばれた。
 札幌の総支配人として就職された人は東急ホテルに勤務したことがあり、シチィホテルのフロント会計のポイントを理解されていた。福岡に納品したシステムは日本式旅館型の会計方式であった。札幌のホテルがオープンするまで、数か月の期間しかないので、私は時間的な制約があるため、札幌のホテルのシステムを開発する考えはなかった。
  ホテル側
はホテルのコンピユータシステムも建設会社に依頼しているケースが多い。二十室程度のホテルでレストランやバーにPOSシステムを導入すると、コンピュータシステムが割高となる。小規模ホテルではこれはらシステムの使用頻度が少ない、そして移動が激しい職場でのコンピユータ教育は、あまり歓迎されない。ホテル側は経済性を考えてパソコンの導入を検討された。
 
四年八月よりアリマックスホテル渋谷のコンピユータシステムの開発を担当するようになった。ホテルは渋谷のNHKの近所に設立される二十三室のホテルであったが、システムの開発のコンサルチングとソフト開発の契約を行った。開発の対象はフロント会計、顧客管理およびホテル部門別会計経理システムであった。
   
電子交換機の接続では富士通の交換機で特約店としては、成田レストハウスで共同作業を行った大崎コンピユータ㈱を推薦し、これが承認された。札幌でのIBM機種と富士通機種との経験を今回活かした。富士通の電子交換機との接続は今回が三回目であった。 五年十月にホテルはオープンした。新規にオープンする二十室程度のホテルではフロント会計での経験者はきわめて少ない。システムのマニュアルには国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習で私が開発した教科書を使用した。
   
システムは順調に作動したので、保守のためホテルから呼び出されることは非常に稀であった。ホテルは自宅からバスで十五分の距離であり、歩いて四十分の距離にあった。沖縄、札幌と比較してきわめて近距離にあるホテルであった。

SA ホテルソフト開発と専門学校OA講師 A 航空輸送学科講師担当

 国際ホテル学科のコンピユ-タ実習を六十三年四月より担当し、平成八年三月で非常勤講師を満八年委嘱された。八年二月中旬、教務部長より航空輸送学科の通関士の国家試験において貿易関係のFOBやCIF価格の計算問題が出題され、試験に失敗した学生が多かったということを知らされた。
   
航空貨物業務についての経験ではコンピユータによる航空と海上との貨物輸送コスト計算を行い、また総合商社のFOBやCIF価格計算の経験があるため、これらの価格計算を授業に組み入れたコンピユータ実習は可能と判断した。
 
七年三月に航空輸送学科で航空運送状発行をコンピユータで行う授業を担当されていた講師が退職され、七年度の授業は廃止されていたが、これを復活したいという要望もあった。学校より授業内容の文書による報告を求められ、貨物関係の私の研究で業界紙などで活字となった資料(約二百四十頁)を提出した。このなかには講師としての航空貨物業務の経験もレポートした。航空輸送学科のエアカーゴ・コンピユータという授業は新たなチャレンジであった。この授業は航空貨物についてのコンピユータの講義である。パソコン五十台を設置している教室での授業であるため、機械を操作せずに講義だけを行うことは困難であった。学校に提出した資料は二十年前の私が作成した航空貨物のコンピユータ処理例でありこの中で学生がFOB、CIF計算が理解できるものを選んでプログラムを作成、これをコンピユータ実習授業に使用した。
    
国際ホテル学科の講師料は年間七十万円であった。航空輸送学科のコンピユータ授業を担当することにより、講師料は年間百四十万円となる。専門学校の講師料は授業時間に対して支払われるが、授業用に開発するプログラムには約七百時間の労働投下が必要であるが、学校としては機械の使用は前提条件ではないので、プログラム開発は無償であったが、これにチャレンジした。
   
航空貨物業務は五十年(一九七五年)に終了したが研究資料は大切に保存していた。三十年前の資料を再び持出して授業を行うことは大変、勇気が要ることである。一般の授業で三十年前の資料はきわめて古いと思われるが、その内容はマイクロ・コンピユータで開発したものを、授業においては最新式のパソコンでこれを復元するわけである。私は現在の航空貨物業務がどのように変化していることはあまり知らないが、基本的なものは変化していない。航空輸送学科で使用されている教科書と市販の貿易関係のFOB、CIF計算例をみて、海上、航空関係の運賃などをチェックし、航空貨物輸送でのパソコンの使用方法を紹介することにした。

T1 開発・販売したホテルソフト 1 フロント・システム

 昭和五十四年よりホテルおよびレストランにパソコンによるシステム開発を行った。売上が多かったのは、フロント・システムで、その内容は次の通りである。
[フロント・システム]
 チェックインからチェックアウトまでの宿泊に伴う会計処理を行う。
会計計書の発行
、売上・現金売掛照合表、伝票入力明細、消費税、特消税算出根拠、宿泊統計、会計書管理表、伝票入力訂正明細、宿掛残高表、客室売上日報、客層・旅行業者別売上日報及び月報など夜間バッチ処理が完備。室料は会社へ請求、食事その他は宿泊者の現金払等の支払方法条件による分割会計書の発行ができる。部門売上現金売掛集計、予約管理が組込まれている。                                                                             


T2 開発・販売したホテルソフト 2 ホテル宴会管理

[ホテル宴会管理]
 見積書、精算書の作成を行う。
毎日の手仕舞としては、バッジ処理により、宴会別売上/
現金売掛集計、利用形態別、予約経路別、売上科目別日計、及び月間累計を印刷する。
  宴会データはハードディスクに利用年月日順に格納され、有効な販売管理ができる。
ウエディングプラン、忘・新年会プラン等の各種のパック料金の登録ができる。    

                            

T3 開発・販売したホテルソフト 3 ホテル会計経理

[ホテル会計経理]

  会計経理伝票で総勘定科目、補助科目、部門、取引先、摘要、決済期日、消込照合番号金額および貸借コードを入力項目として、日計表の作成を行い、月末に貸借対照表、損益計算書、部門別売上、原価、人件費および経費の補助科目別集計を行う。
 
総勘定元帳、補助元帳、銀行口座別残高、借入、売掛、買掛金等、取引先別残高の把握を行う。

 

T4 開発・販売したホテルソフト 4 ホテル経営計画支援

[ホテル経営計画支援] 別名 「ホテル建設事業計画」
  ホテルの建設、改装、中期長期経営計画の立案において、建設設備、資金調達、借入金返済、償却資産再投資、売上計画、売上原価、人件費、経費、部門別損益、貸借対照表、損益計算書、資金繰など最長30年まで試算できる。
    客室
稼働、物価上昇、金利率を変化させ、最適解の経営計画を試算することができる。

                                 

                                                                       

T5 開発・販売したホテルソフト 5 レストラン・メニュー材料展開

[レストラン・メニュー材料展開]
  ホテルの宴会・レストラントを対象にメニューレシピー作成、食品材料構成とポーシヨン別の材料原価計算を行う。メニュー売上数量(予想、見積)から理論的なレシピー上の消費数量、仕入ベースによる数量と金額を把握する。
   仕入とレシピー上の単位が異なる
ため、両者の換算率を設定することによりスピーディな原価計算を行うことができる。                                    

   

T6 開発・販売したホテルソフト 6 ホテルリネン管理

[ホテルリネン管理]

 客室リネン、洗濯費、貯蔵品、入出庫、部門振替、棚卸、支払等の伝票により本日仕入入出庫、買掛金発生の日計表を作成する。
   月末処理として、買掛金残高表、仕入先別仕入
台帳、品目別仕入台帳、部門別貯蔵品在庫残高、入庫台帳、出庫台帳、在庫振替台帳、棚卸台帳などの帳票を作成する。  

                                          

U1 古希以降 1 専門学校非常勤講師契約終了

  昭和六十三年四月に国際観光専門学校東京校国際ホテル学科のコンピユータ授業に必要なホテルフロント会計システムを開発、納入し、毎週水曜日に午前九時より午後四時までコンピユータ実習授業を担当した。
   
これは学校とソアレックス株式会社で講師派遣契約を締結し、ソフト開発を行った私が講師として派遣された。当初の実習はホテルフロント会計が主であったが、次年度からは学校側に提案し、宴会管理や食材管理などを実習に追加して教材の充実を図った。 平成八年四月からは航空輸送学科の[航空貨物]という授業を担当、プログラムを開発して、阪急およびフライング・タイガー航空会社に在職中研究していた航空輸送分野の業務処理をパソコンにより紹介した。
   
平成九年三月、古希を迎えた。学校側のパソコンにおける授業方針の変更があり、講師として九年間継続した時点で講師契約の終了となった。昭和十六年四月に航空機乗員養成所に入所したが、六十九歳になって航空輸送学科の非常勤講師となったことは、きわめて意義があったものと思う。
 ホテルコンピユータソフト開発・販売をビジネスとして、ソアレックス会社を設立しており、一週間に一日だけは講師派遣契約により学校へ出勤しているが、その他の日は会社に出勤していた。
   ホテルに機械を販売し、ソフトを開発、納入すると約五年間はアフターサービスを必要
とし、高齢化して健康を害して保守サービスができないと顧客に迷惑がかかるため、六十五歳以降は新規ホテルヘのセールスを行わなかった。

U2 古希以降 2 建設事業計画ソフト開発&計算業務

昭和五十七年に、ホテル・レストラン内装工事設計監理㈱エクスブレーイン・インダストリーより
ホテル建設事業計画のソフトの開発を受託し、その後、ホテル・レストランソフトの開発を継続していた。六十二年に同社とソアレックス株式会社を設立し、翌年から国際観光専門学校の非常勤講師となった。
平成九年三月に、非常勤講師契約が終了した時点で、㈱エクスブレーイン・インダストリーより下記のようなプログラム開発を要望され、同社の計算業務を手伝うことになった。
DCFホテル建設事業計画
 

U3 古希以降 3 坂本システム研究所としての業務継続

   昭和六十二年二月にソアレックス株式会社を設立した。事務所は港区赤坂三丁目十三番地の東相ビル七階で、共同出資の㈱エクスブレーイン(以後、EX社と仮称)の事務所の一角を借りていた。社員は私だけであるが、EX社の関連会社で、同社の経理関係のソフト開発ならびに保守も行っていたので昭和五十四年より二十年にわたり取引関係にあった。
  平成五年十月にEX社は新宿区下落合三丁目四番十一号、三木宅の構内に移転し、ソアレックス㈱も三木宅に移転し、十一年四月まで事務所を設置していた。その後、会社の事務所を杉並区高井戸西一丁目の自宅に移転した。十三年三月末でソアレックス株式会社を閉じることにした。
 昭和四十四年五月より坂本システム研究所として税務申告を行っており、専門学校非常勤講師の講師料はソアレックス株式会社に振り込まれており、坂本システム研究所の青色申告では給料としての税務処理である。ソアレックス㈱が終わったとしても坂本システム研究所は継続されている。

 SOHO業者として最初から一名で仕事をしており、会社組織においても一名でソフト開発、営業を行っており、このような組織に向く仕事は専門学校非常勤講師であり、ソフト開発を継続できたことは幸いであった。
 

U4 古希以降 4 IT&パソコンボランチア

 平成十二年二月ごろ杉並区でIT&パソコン講習のボランチィアが募集され、これに応募した。昭和四十四年五月より航空と海上との輸送方法比較でSOHO業者として独立、四十六年七月より現在のパソコンの元祖となるマイクロ・コンピユータのソフト開発と機械の販売に従事し、六十三年四月より国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習講師となった。
 
Window95が発表されていない時代ではソフトや機械を販売する取引先に対して、漢字などの入力方法を教える必要はないが、開発したソフトの説明では、メモ程度の知識でワープロ操作ができれば充分であった。
 専門学校のOA授業の講師を九年間従事したが、学生に日本語の漢字変換などを教えたことはなかった。これはワープロの講師が別に任命されており、私が開発したプログラムを学生が機械操作することにより、業務の流れを理解させることが、実務教育であった。
 平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習会では、一クラスに二十名の受講者に対して講師一名、ボランチィア助手四名の構成であった。操作が不慣れの受講者をサポートする仕事であった。コースとしては一日三時間のコースで四回であった。初年度は五十時間程度、講習会助手として従事した。
 平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習ボランチィアは初級コースであり、十三年四月より杉並区内の図書館でパソコン講習補講講座に切り替わった。
 これは初級コースで理解できなかった人に対する補講で、私は属していた高井戸図書館では十台のパソコンで、ボランチィアが三名で毎週木曜日の午前九時から十二時、午後一時より四時を担当、特別な授業はなく機械操作や質問事項があれば、これに対応する。初級コースが前提であるため、表計算やデジカメなどの質問はあまり発生しなかった。十六年三月に各地図書館でのパソコン講習補講講座は終了した。満四年間、パソコンボランチアの仕事に従事した。以後、自分史の作成にチャレンジすることとなった。

U5古希以降 5 自分史永和会でパソコン勉強+自分史作成

 平成十二年四月よりスタートした杉並IT&パソコン講習会で地域社会のボランチィア活動に参加した。同年七月二十二日と二十三日に杉並区永福・和泉地域区民センター祭りが開催され、同センターに自主グループとして団体登録を行っている「自分史永和会」が展示会に出品していた。同じ展示室に書道の展示があり、家内が「自分史永和会」の会場で、パソコンの勉強会も行われるとのことで私にこの会に入会するように勧めてくれた。早速、入会した。
 八月二十日よりの会合から出席することとなった。最初の出席の前に私の自分史「生い立ちから終戦まで」を事務局担当山口氏に送付した。八月二十日の会合には私の自分史を同氏が朗読してくれました。当日、午後三時より暑気払いを兼ねての懇談会があり、参加した。
 事務局を担当する山口氏が平成十四年三月から八月まで六ヶ月間、バンコックへ会社の業務で長期出張することになり、また平成十八年八月より十九年一月までの六ヶ月間、ヨルダンのアンマンに会社の業務で長期出張となり、このため会計と事務局とを担当するケースが発生した。山口氏の海外出張の余暇でデジカメで撮影された映像とレポートとが、に二回程度会員に送信されるが、インターネットを利用していない会員もあるため、送付資料は私のパソコンにダンロードして、センターより借り受けた液晶プロジェクターで内容の紹介を行った。
 平成十六年九月より十八年十二月までの二年四ヶ月、自分史永和会の代表になった。十九年一月より代表は山口氏、会計担当は私、事務局は高橋氏となり、山口氏の海外出張での会の運営の円滑化を図るため、改選を行った。研究会は第二日曜日の午前九時より十二時までであるが、発表できる資料を常時、準備しておく必要がある。自分史の作成経過を研究会でしばしば発表した。

U6古希以降 6 同期生全国組織

 逓信省航空局航空機乗員養成所は仙台、新潟、印旛、米子および熊本の五ヵ所に設置されており、昭和十六年四月、各々六十名が入所し、本科三期生は全国で参百名であった。入所して三年間は普通学科で、四年生より操縦科は米子、整備科は新潟に転属することになり、終戦の時点では入所時の九割に相当する約二百八十名が同期生であった。
 戦後、開催された同期生会は最初に入所した養成所ごとに開催されたが、戦後、四十六年経過した平成二年に五ヵ所の養成所の合同の全国三期同期会が結成された。
 米子本科三期生会は毎年一回開催され、これに出席していたが、還暦より新たに全国組織での同期生会が毎年一回開催されるようになった。
従来、継続していた米子同期生会に還暦より新らたに全国組織の同期生会が発足した。還暦前の同期生会は発足して三十二年間で十回、これに対して還暦から十六年間で米子三期会が十四回、全国会が十一回で、合計二十五回であった。これは還暦前と還暦後とは同期生会の開催が五倍に増加したことになった
 三期生は約二百八十名で居住地が北海道から鹿児島まで分散しており、戦後六十年経過した現在、消息が判明している同期生は約百五十名であった。 同期生会の開催は各地の同期生が世話人となって、持ち回りで行っていたため、私が出席した同期生会の開催地は米子皆生、玉造、三朝、岡山、倉敷、坂出、湯田、別府、福岡、京都、東京、新潟、仙台、札幌であり、旅行友の会的な色彩の強い同期生会であった。
   記念写真には開催年月日と同期生会開催番号が表示されているので、自分史の作成においては有効な資料となった。
 全国三期生会は平成十三年六月、第十一回を北海道定山渓温泉賞月グランドホテルで開催、高齢を理由に解散となった。

U7古希以降 7 同期生会寄稿集HPにアップロード

 昭和十六年四月に、航空局米子乗員養成所本科三期生は、入所時六十名で、二十年九月に卒業したものは五十六名であった。戦後十年経過した昭和三十年九月に第一回同期生会を米子市皆生温泉で開催、当時、消息が判明していた三十名のうち十五名が出席した。
 平成十七年九月十五日に、第二十四回、同期生会が北九州脇田温泉ホテル楠水閣で開催された。当時、消息が判明している三十五名の同期生のうち十名が出席した。総務幹事松本好信氏が「米航養本科三期生情報」を作成、同期生に配布した。私は編集に協力しているためワープロ資料のコピーを所持しているため、これをホームページにアップロードした。
 米航養本科三期生情報

 

2009年3月15日 (日)

U8古希以降 8 自分史永和会でのパソコン学習

 平成12年8月に杉並区永福・和泉地域区民センターに自主団体として登録されている「自分史永和会」に入会した。毎月第2日曜日、午前9時~12時、例会を開催している。毎年7月に同地域区民センターではセンター祭りが開催されており、展示室には児童画、絵葉書、装飾品、染物、陶芸、水彩画、油絵、日本画、書道、俳画、表装、生け花、俳句、彫刻、写真などの「作品」の展示が行われている。
   自分史永和会は会員の自分史出版物の展示を行い、CDの無料贈呈を行った。平成15年に作成した自分史と21年に作成した自分史では同じような題材でも、パソコンのOS、インターネットの接続環境で中身が可なり変化している。
  平成15年度版、
太平洋戦争体験者のパソコン利用体験記
使用容量は8メガバイト、OSはWindows98、電話回線はISDLである。
 平成21年度版、
太平洋戦争と戦後の情報処理実務体験記
使用容量は260メガバイト、OSはWindows
VISTA、電話回線はひかりONEである。
   自分史の作成を開始したのは昭和63年4月で、Å4版で50頁、画像の組込なしで容量は300バイトであった。平成21年度において、ホームページにアップロードしたときの容量は270メガバイトで、スキャナーによる活字となった資料を取り込んだため、容量は1000倍に膨らんだことになる。
   21年5月より、ひかりONEホームタイプで高速の「ギガ得プラン」が受け付けられるようになり、パソコンの取り巻く環境に応じて、自分史の中身のレベルアップを図っている。
  
 

U9古希以降 9 ブログへの投稿開始

 パソコンを使用して自分史の作成を目的とする「自分史永和会」には、平成12年8月に入会した。会員は5名程度の小グループで、毎月1回の例会には各会員が30分を目途に、お互いが作成した資料の発表を行っている。
 平成18年1月、会員の高橋直之氏より「ブログ」の紹介を受けたが、当初、私はホームページを作成しているため、その必要性はないと判断した。それから1年半の後の19年7月に、本屋でエクスメヂア社の「ブログを作ろう」という本を見つけた。定価が550円であった。早速、永和会の経費で6冊購入し、会員に配布した。
  19年8月よりニフテイのFREE ブログに投稿することにした。タイトルは、「新規業務へのチャレンジ」で今回で880件の投稿となった。また、昨年8月より、ニフテイのBASIC ブログに投稿することにした。タイトルは、「新規業務への研究」で今回で120件の投稿となった。この二種類のブログを合わせると、投稿件数は丁度1000件となった。アクセス件数は本日の時点で18,744件である。
  20ヶ月で1、000件の投稿は月平均、50件である。文章を書くには資料が必要である。私はブログを始める前に「太平洋戦争と戦後の情報処理実務体験記」という自分史を作成しているため、これを参照しながらブログを作成している。
   
   

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