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2009年5月

2009年5月27日 (水)

V1 私の天の時、地の利、人の和

  印象に残る十六話題を[天の時、地の利、人の和]という観点から再構築。 福岡市には戦時中を除いて、東京に転居するまで約三十年間、居住した。福岡市というのは鎌倉時代の元寇の上陸地点でもあり、ある意味での国際的な感覚を帯びている都市であった。終戦直後、米国陸軍民間検閲局が設置されたため、就職先が発生した。また昭和二十五年六月、朝鮮戦争が勃発、福岡市雁ノ巣に米国空軍基地が設置され、ここでも就職の場が発生した。これは働きながら専門学校、大学英文科に通学することが可能であった。関西の私鉄阪急電鉄㈱が将来における海外旅行市場を見越して代理店部福岡営業所を設置していたため、福岡営業所旅客係として採用された。働きながら上級学校へ進学するには、そのときに置かれている環境を活用することが重要であった。

  私の天の時、地の利、人の和

V2 航空貨物企画でのオペレーシヨンズ・リサーチ手法の展開

  終戦の2ヶ月目に就職したのが米国陸軍第三地区民間検閲局(福岡)で郵便検閲業務に従事、オペレーシヨンズリサーチ(OR)手法により検閲管理業務を行い、成果が挙ったため、その後の業務においては、OR手法を実務面に応用することを心懸けた。
  昭和284月に阪急電鉄㈱に入社、阪急交通社に出向、旅行業務に8年、貨物業務に8年従事し依願退職。自営業として「坂本システム研究所」を設立、第二の人生を歩ゆむことにした。


航空貨物企画でのオペレーシヨンズ・リサーチ手法の展開

2009年5月28日 (木)

V3 私の好奇心 パソコンの英語音声朗読

  富士通の電算機 FACOM230-10 機種により、航空貨物需要開発のソフトを開発したのが1967年で 英文業界紙にも記事として紹介された。記事を音声朗読したことはなかったので、これには大変興味があった。私の業務に関連している記事を集め、これを私のホームページに登録した。下記は英語音声朗読原稿概要である。
10 航空と海上との輸送方法判定方式 1969年10月10日の記事

   海外旅行業務から航空貨物業務に転勤した当時から、航空と海上との輸送手段を荷主がどのように判断しているか?ここで、軽量化できるものとして10種類の要因を選定し、これを我流により組み立てた。荷主やセールスマンの経験と勘を組み込み,試行錯誤により、当たる判定方法を考案した。電算機で処理する方法は、珍しいので、話題性があった。

20 フライング・タイガー航空の感謝状 1968年9月20日付の書簡
   昭和43年夏に米国貨物専門航空会社フライング・タイガーが、日本における航空貨物市場調査を行った。私はコンピユータで、日本より各仕向け地別の貨物の需要予測を行い、同社の市場調査に協力した。これのお礼状である。翌年九月より、同社の専門職社員に採用された。

30 航空と海上との総流通経費分析 1968年12月25日の記事
     海外の航空会社の航空と海上との総流通経費分析は、手作業であることに着目して、最初はSAS航空のシステムのコンピユータ化、次にフルトハンザドイツ航空のシステムのコンピユータ化、次に阪急独自のシステムを構築した。昭和43年12月25日のクリスマス号に紹介された記事である。
40  航空貨物輸送経済研究の発表 1969年4月25日の記事

   昭和44年4月末で、阪急交通社を依願退職することとなった。海運関係の新聞が上司を通じて航空貨物について発表するように依頼された。署名入りで執筆した。

50 外国航空会社の貨物市場調査 1969年5月10日付の書簡
     カナダ太平洋航空の日本における航空貨物市場について、私の研究についての論評が送付された。これは同社の社内においての検討状況の報告であった。
60 フライングタイガー航空出張内容 1969年11月24日付の書簡
 1969年9月15日、フライング・タイガー航空会社の専門職社員となった。本社の役員、部長などに面接しいろいろ打ち合わせを行うための航空会社の社内業務連絡簿である。

70 航空機パレット積付早見表開発 1974年8月10日の記事
   航空機の貨物を搭載する場合、どのサイズのカートンボックスなら何個搭載できるか?その並べ方まで書いた早見表、約450頁を開発した。1冊1万円の価格である。英文業界紙はこれを海外にも紹介してくれた。
英語音声朗読原稿

以上

2009年5月29日 (金)

W1 転職思案 1 勤め先に将来性がなければ

    昭和十六年三月に福岡市立福岡男子尋常小学校を卒業した。航空機のパイロットを養成するには少年時代からという国に方針で、航空機乗員養成所五年制養成コースがスタートした。最初にケースであったため、一般にはあまり知られていなかったが、十人に一人の競争率であった。入所試験に合格し、四月より米子航空機乗員養成所本科三期生として入所した。それから八ヶ月後に太平洋戦争が勃発した。養成機関が五年であったので、卒業したのは終戦の翌月の九月であった。
   大日本帝国は連合国に無条件降伏した。連合軍総司令部の命令で民間航空は禁止となり、国家資格となる航空機整備士のライセンスも不要なったが、中等学校五ヵ年の卒業、十八歳で実社会にでることになった。
   占領政策遂行のため東京、大阪および福岡には連合軍総司令部管轄の米国陸軍民間検閲局が設置された。日本語で書かれている郵便物を検閲する検閲官を募集されていたので応募、採用された。食料難の時代で、七百万人が餓死すると予測された時代であり、とくに戦勝国米国の支援が必要であった。検閲局で忠実に働くことは、日本人が信用されることであり、これが日本の再建にはプラスするという考えをもっていた。
   米軍というのは年齢や学歴は関係なく、成績を重視するところで、検閲業務は従事者の勤務状態で成績が数字として現れ、私は成績がよかったので、給料でも可なり優遇された。
       検閲局に就職して二年半経過した昭和二十三年三月に、検閲管理業務から和文英訳業務に変わりたいと思い、試験を受けて翻訳係にまわった。給料は以前の半分となった。
   検閲管理業務を行っていると、郵便から入手できる情報が次第に低下していることに気づいており、検閲局が存続するのは一年乃至二年と推測した。「勤め先に将来性がない」と判断した。
       ここで同じ検閲局内で翻訳係になり和文英訳の仕事を指導してもらうことは賢明と判断した。これと同時に西南学院専門学校英文科〔夜間)に通学することにした。それから一年半後の昭和二十四年十月に検閲局は閉鎖となった。
   私は検閲管理業務では、六十名の監督責任者であったが、これはたまたま、運がよかったためで、日本の社会には通用しない人事であると思った。「人の上」に立つ「長」という仕事よりも、「腕に技術」をつけることが、就職には有利であると思っていた。年齢二十四歳で専門学校を卒業したことになる。順調に行った人と比較すると四年遅れになるが、和文英訳という技術はそれからの進学と再就職にはきわめて役にたった。

      
   

2009年5月30日 (土)

W2 転職思案 2 公共職業安定所に就職 

   終戦の年の二十年十月に米国陸軍第三地区民間検閲局の一般郵便検閲部に日本人従業員として勤務し、二十四年十月に検閲局が解散となり、離職した。現在の厚生年金制度は二十四年四月からスタートした。私は二十三年四月から西南学院専門学校第二部(夜間)英文科に通学していたので、専門学校二学年のときであった。自己の退職でなく、検閲局解散であったため、退職金の手取りは五万二千円で昭和二十四年における大学卒の初任給は五千円であった。勤務年数四年で、六ヶ月分の退職金と思われる。
   検閲局が解散となり、一週間で就職したのが、福岡公共職業安定所調査統計課であった。検閲局時代には統計を作成して検閲業務を行っていたので縁故を頼り、統計課に勤務するようになった。国家公務員の試験に合格しての就職でないため、資格は臨時雇員であった。仕事としては潜在失業者の推定であった。この仕事は二十五年三月末で終わった。米軍検閲局の勤務は、厚生年金受給資格が発生しているが、この福岡公共職業安定所は公務員共済組合関係で、年金の対象にはなっておらず、年金記録では、六ヶ月の空白の期間となった。
   二十五年三月で安定所を依願退職した。母が不動産仲介業をしていたので手伝いを行った。時間的な余裕があったので、西南学院専門学校クラス会の幹事を担当した。家事手伝いはなかなか賃金がもらえないので再就職口をさがした。
     二十五年六月二十五日、朝鮮戦争が勃発した。ここで米軍基地の日本人従業員の仕事が発生した。 

2009年5月31日 (日)

W3 転職思案 3 夜間通学のメリット

    昭和二十五年六月二十六日に朝鮮戦争が勃発した。福岡市は、朝鮮半島に最も近い西日本における都市であった。福岡市の西戸崎に米軍の宿舎が建設され、私は七月より建設業㈱松村組の米軍宿舎現場工事の通訳の仕事をした。これは短期契約であった。
   西南学院専門学校第二部英文科西原一男氏と商学科田尻重彦氏とは、お互い学級委員であったので親密な関係があった。
   米空軍輸送部隊が福岡市雁ノ巣基地に駐屯することになり、飛行場建設、補給施設、食堂、空港警備に多数の日本人従業員が必要になり、労務管理事務所が設置されていた。この労務管理事務所日本人マネジャーが友人の西原一男氏で、また田尻重彦氏も同管理事務所で幹部として勤務していた。
   西原氏よりよい仕事があるから働かないかと紹介されたのが、空軍憲兵隊通訳の仕事であった。英会話が上手な通訳も多いが、
警察関係の調書など、和文英訳の仕事も発生するため、西原氏はこの点、憲兵隊側にPRしてくれた。
   勤務は昼間、夜間、深夜とローテシヨンが組まれており、憲兵隊は四分隊にわかれ、各分隊は軍曹を長として十名、日本人警備員は小隊長以下十名、これに通訳が一名の構成であった。事務所には軍曹と数人の米兵これに通訳一人が勤務。警備の仕事は「居眠り」が厳禁であるが、通訳は事件がなければ、事務所で本を読むことも許されていた。
   二十五年四月に、西南学院専門学校第二部英文科三学年になったが、学制改革で西南学院大学短期大学部英文科二学年に横すべり、翌年三月に西南学院大学短期大学英文科卒業となった。
   憲兵隊通訳の仕事を継続することとなった。よく考えると通訳には、九州大学学生が私の交替前の勤務、私の交代後の勤務の人とも懇意にしていた。このため、お互いに勤務時間の調整を行うと、昼間の授業に出席可能と判断し、西南学院大学英文科三学年の編入試験を受けて、大学三年生に編入された。短期大学の単位六十四単位は全部、四年制大学の単位として認められた。
       就職よりも卒業することが最大の目標であった。

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