昭和十六年三月に福岡市立福岡男子尋常小学校を卒業した。航空機のパイロットを養成するには少年時代からという国に方針で、航空機乗員養成所五年制養成コースがスタートした。最初にケースであったため、一般にはあまり知られていなかったが、十人に一人の競争率であった。入所試験に合格し、四月より米子航空機乗員養成所本科三期生として入所した。それから八ヶ月後に太平洋戦争が勃発した。養成機関が五年であったので、卒業したのは終戦の翌月の九月であった。
大日本帝国は連合国に無条件降伏した。連合軍総司令部の命令で民間航空は禁止となり、国家資格となる航空機整備士のライセンスも不要なったが、中等学校五ヵ年の卒業、十八歳で実社会にでることになった。
占領政策遂行のため東京、大阪および福岡には連合軍総司令部管轄の米国陸軍民間検閲局が設置された。日本語で書かれている郵便物を検閲する検閲官を募集されていたので応募、採用された。食料難の時代で、七百万人が餓死すると予測された時代であり、とくに戦勝国米国の支援が必要であった。検閲局で忠実に働くことは、日本人が信用されることであり、これが日本の再建にはプラスするという考えをもっていた。
米軍というのは年齢や学歴は関係なく、成績を重視するところで、検閲業務は従事者の勤務状態で成績が数字として現れ、私は成績がよかったので、給料でも可なり優遇された。
検閲局に就職して二年半経過した昭和二十三年三月に、検閲管理業務から和文英訳業務に変わりたいと思い、試験を受けて翻訳係にまわった。給料は以前の半分となった。
検閲管理業務を行っていると、郵便から入手できる情報が次第に低下していることに気づいており、検閲局が存続するのは一年乃至二年と推測した。「勤め先に将来性がない」と判断した。
ここで同じ検閲局内で翻訳係になり和文英訳の仕事を指導してもらうことは賢明と判断した。これと同時に西南学院専門学校英文科〔夜間)に通学することにした。それから一年半後の昭和二十四年十月に検閲局は閉鎖となった。
私は検閲管理業務では、六十名の監督責任者であったが、これはたまたま、運がよかったためで、日本の社会には通用しない人事であると思った。「人の上」に立つ「長」という仕事よりも、「腕に技術」をつけることが、就職には有利であると思っていた。年齢二十四歳で専門学校を卒業したことになる。順調に行った人と比較すると四年遅れになるが、和文英訳という技術はそれからの進学と再就職にはきわめて役にたった。