W4 転職思案 4 学友の就職先紹介
西南学院専門学校第二部英文科に入学したのは二十三年四月で二十五年四月に学制改革があり、西南学院大学短期大学部二年に切り替わり、翌年の二十六年三月、短期大学部を卒業した。
四月より西南学院大学英文科三年に編入試験を受けて編入した。米国空軍雁の巣輸送部隊空軍憲兵隊通訳の仕事は継続した。
通訳同士で勤務時間の調整を行えば、学校に行けない日はい一週間のうちに一日の割合で、大学卒業可能と判断した。勤務の都合で、午後四時から翌朝八時まで勤務、それから雁ノ巣から福岡市内へ行くトラックに便乗し十時ごろ学校に到着、このようなことも多く、体力的には可なり無理をしていたが、大学卒業資格を取得することが目標で、就職運動はしなかった。
二十八年は就職難の時代で、英文科の学生は中学や高校の英語の教師や牧師を希望されている人が多く、一般企業への就職口というのは少なかった。
日本航空が設立されたのは二十六年十月であった。民間航空が禁止され、六年経過して民間航空の再開となった。私は航空局航空機乗員養成所で四年半、航空機整備工学を勉強しているので航空産業には関心があった。
西南学院専門学校時代の学友で雁の巣基地労務管理事務所に勤務されていた田尻重彦氏は労務管理事務所を退職され、日本航空㈱福岡支店に勤務されていた。
阪急電鉄㈱は日本航空㈱の大手株主で代理店であった。阪急電鉄㈱は二十三年にIATA航空会社の旅客&貨物代理店であり、阪急福岡営業所の安藤昌彦氏が日本航空の田尻昌彦氏に、二十八年三月大学卒業予定で、二十八年十月ごろから働らける学生の紹介を依頼された。
田尻氏は私が雁の巣基地通訳しながら大学英文科に通学していることを知っており、私を阪急に推薦してくれた。私は卒業論文は仕上げており、阪急福岡で就職することした。通訳の月給は一万三千円程度で、阪急の給料は可なりダウンしていたが、二十八年四月本社採用の大学卒という条件であるため就職を決定した。
阪急福岡には二十七年十一月より二十八年三月まではアルバイトであった。このため雁の巣基地通訳の仕事は三月まで継続することにした。阪急、雁の巣基地、大学と三箇所への出勤であった。
二十六年十月から二十八年三月まで、二年半基地通訳をしていたため、退職金は五万二千円であった。またこの間、厚生年金の加入期間であるため、大学卒業の時点での厚生年金支払期間は満三年であった。
戦後の就職では米国陸軍民間検閲局に四年、福岡公共安定所に半年、家業に半年、米国空軍雁の巣基地に二年半、阪急交通社に十六年勤務した。私の就職の特徴は福岡市内に居住する人の紹介、殆どが職業を紹介する機関の人とのコネであった。筆記試験なしあった。占領軍の仕事は将来性がないため、不安な仕事である。然しながら上級学校に行き専門学校、大学の卒業資格をとるには給料は高く、退職金もよく厚生年金加入期間であるため、占領軍の仕事は考えかたによっては、学生の仕事としては適職であった。
