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2009年6月

2009年6月 1日 (月)

W4 転職思案 4 学友の就職先紹介

       西南学院専門学校第二部英文科に入学したのは二十三年四月で二十五年四月に学制改革があり、西南学院大学短期大学部二年に切り替わり、翌年の二十六年三月、短期大学部を卒業した。
       四月より西南学院大学英文科三年に編入試験を受けて編入した。米国空軍雁の巣輸送部隊空軍憲兵隊通訳の仕事は継続した。
   通訳同士で勤務時間の調整を行えば、学校に行けない日はい一週間のうちに一日の割合で、大学卒業可能と判断した。勤務の都合で、午後四時から翌朝八時まで勤務、それから雁ノ巣から福岡市内へ行くトラックに便乗し十時ごろ学校に到着、このようなことも多く、体力的には可なり無理をしていたが、大学卒業資格を取得することが目標で、就職運動はしなかった。
       二十八年は就職難の時代で、英文科の学生は中学や高校の英語の教師や牧師を希望されている人が多く、一般企業への就職口というのは少なかった。
   日本航空が設立されたのは二十六年十月であった。民間航空が禁止され、六年経過して民間航空の再開となった。私は航空局航空機乗員養成所で四年半、航空機整備工学を勉強しているので航空産業には関心があった。
   西南学院専門学校時代の学友で雁の巣基地労務管理事務所に勤務されていた田尻重彦氏は労務管理事務所を退職され、日本航空㈱福岡支店に勤務されていた。
      阪急電鉄㈱は日本航空㈱の大手株主で代理店であった。阪急電鉄㈱は二十三年にIATA航空会社の旅客&貨物代理店であり、阪急福岡営業所の安藤昌彦氏が日本航空の田尻昌彦氏に、二十八年三月大学卒業予定で、二十八年十月ごろから働らける学生の紹介を依頼された。
   田尻氏は私が雁の巣基地通訳しながら大学英文科に通学していることを知っており、私を阪急に推薦してくれた。私は卒業論文は仕上げており、阪急福岡で就職することした。通訳の月給は一万三千円程度で、阪急の給料は可なりダウンしていたが、二十八年四月本社採用の大学卒という条件であるため就職を決定した。
   阪急福岡には二十七年十一月より二十八年三月まではアルバイトであった。このため雁の巣基地通訳の仕事は三月まで継続することにした。阪急、雁の巣基地、大学と三箇所への出勤であった。
    二十六年十月から二十八年三月まで、二年半基地通訳をしていたため、退職金は五万二千円であった。またこの間、厚生年金の加入期間であるため、大学卒業の時点での厚生年金支払期間は満三年であった。
   戦後の就職では米国陸軍民間検閲局に四年、福岡公共安定所に半年、家業に半年、米国空軍雁の巣基地に二年半、阪急交通社に十六年勤務した。私の就職の特徴は福岡市内に居住する人の紹介、殆どが職業を紹介する機関の人とのコネであった。筆記試験なしあった。占領軍の仕事は将来性がないため、不安な仕事である。然しながら上級学校に行き専門学校、大学の卒業資格をとるには給料は高く、退職金もよく厚生年金加入期間であるため、占領軍の仕事は考えかたによっては、学生の仕事としては適職であった。
   

W5 転職思案 5 海外旅行から貨物へ同一企業内転職

   高等小学校卒が親からの支援なしに中等学校、専門学校、大学を卒業し、阪急電鉄㈱に二十八年学卒者として採用されたのは、家庭の事情で経済的に恵まれなかった私には幸いなことであった。
       阪急電鉄㈱代理店部は後に㈱阪急交通社となり、電鉄社員は交通社に出向となった。二十八年四月入社、福岡営業所に勤務、三十六年三月の時点では福岡に満八年勤務した。学卒者は入社して八年を目途に係長に昇格するが、私もその時期となった。
      福岡営業所は所長以下七人規模で所長は係長ポストであるため、転勤を申し出なければ福岡営業所長になることが予想された。ただ福岡営業所長となると、その後、可なり期間にわたり所長を継続し、万年係長ということも考えられた。この際、大阪本社や東京本部に転勤したほうが、社員としては出世しやすいと判断した。
   大阪や東京に転勤するとき、住居の問題がポイントとなるが業務用社宅は数が決まっている。また大阪や東京に必要な社員でないと転勤は難しい。福岡では英文科出身であったため仕事が発生していたが、東京では英語に堪能な社員は多く、旅客部門への転勤は望み薄であった。
   私は「何処でもよいから転勤したい」という希望を総務部長に手紙を書いた。これは会社としては、次期所長と考えられていたので、慰留されるところであったが、鷹峰次長が貨物部門の管理スタッフにしたいとの考え方で、転勤が承認された。
   海外旅行の係長というのは、仕事で海外へ行けるチャンスが多い。これに対して貨物の仕事は通関業務、貿易実務などの知識が必要で英文科出身者には、馴染みがない仕事であった。同期生が貨物部門におり八年以上のベテラン、私は新入社員並みの貨物業務知識であった。私は貨物部門の社員が手懸けなかった業務にチャレンジすることにした。幸い私の上司は鷹峰弘文氏と吉田茂夫氏で私に向く仕事が与えられた。、    

W6 転職思案 6 札幌転勤内定拒否の損得

    私の希望により福岡の海外旅行部門から東京の貨物部門へ転勤したのが三十六年七月末であった。単身赴任で、三十七年一月に家族を福岡から呼び寄せた。三月に国際業務部第三課貨物係長となり、翌年の三十八年一月に組織変更により貨物部業務係長となった。 私の上には課長はいなくまた下には部下なしてあった。
  札幌営業所長が事故により出社不能となり、その後任として私が札幌営業所長に昇格することになった。福岡から東京、それから札幌への転勤となるが、戦時中、雪の新潟で、二米ほど積雪があった海岸で過した経験があり、寒冷地は私には不向きと判断した。
       係長クラスの人事は所属長の意見は聞かれておらず総務部で一方的に判断されていたようであった。私は貨物部業務係長であったが福岡で旅行業務八年以上の経験があり、適任と考えられての人事であった。このことを上司の鷹峰部長に報告した。私が内定に承諾すると、貨物部長を敬遠しての転勤したことになる。貨物部長の判断に任せることにした。最終的には貨物部長は私の転勤を拒否した。このため、海外旅行業務課係長が札幌営業所長に転出された。私は貨物部業務係長で上には課長はいなく、下には部下なしというポストを四年間継続した。このとき電算機導入企画も兼務した。
        
  

W7 転職思案 7 電鉄出向取消 退職を決意

   昭和三十五年に阪急電鉄㈱代理店部は、阪急国際交通社となり、代理店部所属社員は新会社に出向となった。その後、社名が変更され㈱阪急交通社となった。高卒は㈱阪急交通社の採用、大卒は電鉄採用となり、阪急交通社に出向した。それから八年経過した四十三年六月に、四十四年三月末をもって電鉄出向社員の打ち切りが発表された。電鉄に復帰したい社員は復帰が認められ、阪急交通社に残りたい社員は従来通の勤務で、退職金は支払われることになった。
     阪急電鉄がIATA航空会社のライセンスを取得したのは、戦後まもない昭和二十三年でその頃から出向していた人は二十年間、出向したことになり、ここで出向が打ち切られた。出向社員が電鉄に復帰しても、経営にはあまり支障がないという判断であった。
   私は総務部事務機械課長兼貨物部企画課長であり、いずれ貨物部企画課長のポストは解任され、総務部事務機械課長専属となり貨物の研究は打ち切りとなることを予想した。
   私の航空貨物の研究を米国航空機メーカー・マックドナルド・ダグラスに送ったところ、米国で就職しないか?という招聘状を受取った。航空会社の代理店から、航空会社に航空機を販売するメーカーへの転職にチャレンジすることとなった。米国で就職するには、永住査証申請となり、査証が下りるのは約十ヶ月で、果たして査証が下りるかどうか、五分五分であった。お世話になった会社への退職では、男の「寿退職」であった。

   

2009年6月 3日 (水)

W8 転職思案 8 富士通ファミリー会論文集応募

  富士通小型機種 FACOM230-10が阪急交通社東京本部に設置されたのが、昭和四十二年四月で、私は管理責任者となった。この機械を阪急と関連会社JFCとで共同使用し、経費は折半となった。当時、毎月のレンタル料金は約四十万円で、課長の給料の四人分に相当しているため、航空代理店で電算機を導入しているところは、数社しかなかった時代である。
    富士通のユーザーで結成された FACOMファミリー会で論文集を発行することになり、ユーザーに論文の提出を要請された。これは極めてよい機会と判断し、「航空と海上貨物とのと輸送を決定と要因と比重について」論文を提出した。四十三年四月に論文集第一集が発行され、約五百頁の論文集となった。約百社の論文が掲載された。
  富士通春季大会が長野市で開催され、一泊二日の予定で招待された。このとき偶然にも善光寺の前で米川義夫氏と出会い、これが縁でその後、同氏の会社を訪問していた。
    四十四年四月に論文集二集が発行された。私は「航空と海上貨物の総流通経費分析」の論文が、第二集に掲載され、四十四年五月二十六日、春季大会が千代田区大手町経団連会館」であり、第二集の論文集がら九種類選ばれ、私は約一時間二十分の講演を行った。私は四十四年四月末で阪急交通社を依願退職し、翌日の五月一日から「坂本システム研究所」を設立した。
    善光寺の前に偶然に出会った米川氏は富士通FACOM機種を設置して、計算センターを経営されており、米国へ渡航するまでの約一年、非常勤の顧問として採用していただくようお願いした。五月一日より、同氏の計算センターに勤務することになった。計算センターにはFACOM230-10と230-25とがあり、この機種のプログラム作成作業と機械操作が出来、また電算機導入企画を行っていたため、米国行きがご破算になっても何とかなると判断した。
  五月一日からセールス開始、日本近畿ツーリストにはFACOM230-10機種が導入されていた。航空貨物システム開発で指導を担当した。
   自営業というのは業務を開始した時点から、採算ベースに乗せていないと駄目で、阪急時代にお世話になった航空会社や代理店、
業界紙などにアップローチした。  
  

W9 転勤思案 9 管理部門課長、営業部門係長兼務

   福岡の海外旅行係を八年従事、それから東京貨物課へ転勤した。私は英文科出身で旅行業務は適職であるが、ここで同一企業内転職の必要性を感じ、東京貨物課に転勤した。貨物業務は通関や貿易実務などの知識が必要であったが、これらの準備なしの転勤であった。年限が来て係長になる社員に与えられた仕事は、貨物営業担当者の参考となる情報の作成と配布であった。
  昭和三十七年三月より四十二年二月まで満五年間、私の上には課長はいなく、下には部下なしであった。これはサラリーマンとしては頭は使うが神経は使わない係長であった。仕事は部長補佐業務であったので、部長の仕事は把握していた。
  四十二年二月に私の上司である貨物部長の鷹峰弘文氏が海外旅行部長に転出、東京総務部次長の吉田茂夫氏が貨物部長の後任となった。これと同時に電算機導入が発表され、私は総務部事務事務機械課長となった。これは貨物部業務係長から総務部への転勤であった。新貨物部長吉田茂夫氏は私の新入社員時代からの上司であり、私の総務部門への転勤には不承知であった。このため総務部事務機械課長・貨物部業務係長兼務となった。営業部門の係長が管理部門の課長を兼務することになった。
    旅行および貨物代理店の仕事では、電算機は異例の業務であり、電算機業務を希望する係長、課長がいないため、兼務の仕事が発生した。私は貨物部業務係長であったため、電算機を使用しての貨物販売促進の企画を考えた。これにより私は、企画に向くと考えられ、総務部事務機械課長・貨物部企画課長兼務となった。これから数ヵ月後に、電鉄社員の出向停止が発表された。

2009年6月 4日 (木)

WA 転職思案 A 長期計画委員会委員兼務 

      阪急電鉄㈱より㈱阪急交通社に出向している社員は四十四年三月末で出向が取り消されることになり、その発表が行われたのは、一年前の四十三年三月であった。この時、私は貨物部業務係長から貨物部企画課長に昇格した。このため私の肩書は総務部事務機械課長・貨物部企画課長兼務となった。
   出向社員は電鉄に復帰するも可、阪急交通社に残るも可であったが、出向が取消されると、阪急交通社の経営はどうなるか?このような不安を解消するため会社の長期に亘る展望を社員に示す必要があった。
   このため「長期計画委員会」が発足し、委員長に常務取締役の鷹峰弘文氏、委員に貨物部長の吉田茂夫氏、海外旅行部長の益田章雄氏、その他の部門から三名程度が委員となり、これに須藤社長が委員会に出席された。長期計画には電算機が必要と判断され、私は委員に加えられた。
   貨物部門では予算編成に関連して、需要予測に必要な「最小自乗法による時系列分析プログラム」を開発していたため、これを長期計画に応用することにした。
   電算機を導入している代理店は少ないため、取材のため電算機室を訪れる旅行や貨物専門業界紙記者も多く懇意になっていた。
       業界紙は公表された統計数値を紙面でしばしば発表しているが、その数字に基づいての数年先までの予測数値は広告スポンサーには、きわめて関心が高いと判断された。
   阪急交通社での旅客や貨物の収入を予測するにはマーケットの伸びを知る必要がある。 業界紙記者にデータの提供をお願いしこれをコンピユータ処理を行い、正副二枚のストックフォームに印刷、一部は会社用、残り一部は業界紙にフードバックしている。
   一本のプログラムで多様性を持たせるには、昭和四十三年五月の時点では三十八年、三十九年、四十年、四十一年、四十二年の五年間を入力データの期間とし、予測としては四十三年、四十四年、四十五年、四十六年の四年間というパターンとした。
      時系列分析では①毎年、同じ数だけ増加する予測と②同じ比率だけ増加する予測の二種類とした。どちらを採用するかは、人それぞれの判断とした。
    
      
  
      
      
      
     
   
     
   
          
  

WB 転職思案 B 代理店収入管理合理化共同研究会

  昭和四十二年四月に富士通小型電算機を東京営業本部に設置されることとなった。航空旅客代理店は国際線では毎月半月ごとに、航空券を使用している航空会社にセースルレポートを提出していた。支払が遅延したり、レポート漏れが発見されると、色々な罰則規定があり、私は電算機の対象業務としてはこれは、危険な業務であるので、機械化対象業務から除外していた。
  航空会社は代理店からのセースルレポートシステムを廃止し、旅客が最初に搭乗する航空会社のチェックイン時に回収した航空券に表示されている全区間の運賃を、銀行のコンピユータに入力して、逆に代理店に請求するというシステムが進められていた。
   日本航空㈱東京支店収入管理課が窓口で、真野課長が各代理店を廻り、代理店収入管理合理化研究会の結成を提案された。航空旅客および貨物代理店は約百社があり、会場の都合でまず旅客と貨物とを兼業している代理店に絞り、研究会を四部会にわけた。各部会の名称と正副幹事は次の通りであった。
 ①国際旅客部会は交通公社と東急航空、②国内旅客部会は西鉄航空と名鉄観光、③貨物部会は日本通運と近畿日本ツーリスト、④機械化部会は阪急交通社と三井航空であった。発足当時、共同研究会に参加している会社は二十八社で、出席登録人数は約五十名であった。
   研究事項は主要業界紙にプレスレリーズを行い、各社の合理化にも参考になる情報の提供を行うことにした。私は国際旅客業務、国内旅客業務、貨物業務および機械化業務の経験があるため、広報担当となった。
   討議している内容は、①機械化についての意見交換、②セースルレポートとこれに対応する航空会社と代理店とのシステムの問題、③航空券、貨物運送状様式の問題および④代理店の売掛金の問題であった。
  中高年層が会社を退職し、再就職するとき、会社の内外に多くの知り合いがいることが、再就職に有利な条件とされている。この研究会のお陰で社外に知り合いが多くなった。

 
 

WC 転職思案 C 国際航空貨物需要予測委員会委員

     福岡の海外旅行部門から東京貨物課に転勤した。私はこれからの高速大量輸送時代においては、海上貨物を航空に吸収する手法が必要と考え、自宅でも研究していた。会社では売掛金回収問題で電算機の導入が検討されており、売掛金回収にはあまり関心はないが、電算機が会社に設置されれば好都合と考えた。
      航空と海上輸送との輸送を決定するのは商品価格であり、両者の総流通経費が等しくなる商品分岐点に着眼し、要因となる十乃至二十種類のコストを一つずつ変動させて商品価格の分岐点がどう変動するか、コンピユータにより試算、これにより航空輸送経済の法則を解明しようとした。海外でも始めてのケースであった。
  新東京国際空港は、予定よりも数年おくれ、五十三年に開港されたと記憶しているが、その十年前の四十三年六月に財団法人航空振興財団四十三年事業「国際航空貨物需要予測委員会」が発足した。政府関係十七名、民間十四名、計三十一名の委員であった。この委員会に航空局監督課の推薦で、阪急交通社企画課長として私が委員となった。
    四十四年二月に約三百頁の報告書が出版され、荷主や航空会社、代理店に贈呈されたようである。この委員会のメンバーは、航空輸送経済専門家で構成されたと書かれており、二ヶ月後の四月末に阪急を依願退職したが、この委員の所属会社に日本航空、日本通運、ソニー、三井物産があり、私はそれから三年後、マイクロ・コンピユータの特約店となり、ソフトと機械販売で取引を頂いた。

WD 転職思案 D 講義のお礼に貨物を頂く 

   海外旅行から貨物部門に転勤した私は、通関業務や航空貨物運送状の発行など勉強したことはない為、会社在籍中、社員教育にはタッチしたことはない。また営業のセースルマンを集めての講習というのは、その分だけ売り上げ低下を招く為、営業部門には遠慮していた。
   東京貨物課の主任の西村六一氏が、新規セースルでソニー㈱を訪れ、ソニーの担当課長に私のことを話したら、その担当課長は、航空貨物需要予測委員会委員であったので、面識ある旨伝えられ、私がソニーの輸出担当者に航空と海上との輸送方法判定方法を講義することを提案された。GIVE AND TAKEと言われ、講義の代償としてソニー輸出部門に阪急が机をおくことが出来るようになった。四回程度、ソニーに参上し講義した。
   ソニーは航空貨物の荷主としては業界でも注目されており、日本通運㈱が海上貨物、東急航空が航空貨物の業者として、運送業務で担当員を派遣しており、これに阪急が加わったわけである。阪急と東急は混載会社JFCのパートナーであり、この件、東急航空の部長は了解された。会社に依願退職を行った後に発生した業務であった。一年後、私はソニー倉庫㈱航空チームの嘱託、ソニーマイクロ・コンピユータの特約店になった。
  
   

2009年6月 5日 (金)

WE 転職思案 E 代理店収入管理合理化研究会と広報活動

     海外旅行、国内旅行、航空貨物の代理店が収入管理共同研究会を開催していたが、これに最も関心かあった業界紙は旅行週刊誌トラベル・ジャーナルであった。四十三年三月四日の同誌に下記の記事が発表された。
本社主催 業務合理化懸賞論文
審査結果 最優秀賞 一席  該当作品なし
       優秀賞    二席   賞金五千円
「航空セールスとコンピユータリゼーシヨン」 坂本清助(阪急交通社機械課長)
「国内線航空券の諸問題とその合理化策」馬原孝〔西鉄航空旅客係長)
上記の懸賞論文が可なりの紙面を割いて紹介された。また同日付には「時局座談会:として、航空産業におけるORとは何か、大量高速時代のMIS戦略について
司会はトラベルジャーナル編集局  中村正生記者
出席者(順不動、敬称略)
矢矧晴一郎 富士銀行調査部調査第一課副長
大久保   健  西鉄航空営業部営業課副長
坂本   清助  阪急交通社総務部事務機械課長
真野      日本航空東京支店総務部収入管理課長
氏原  儀一 日本交通公社経理部審査第二課長
吉田   武男 日本通運東京航空観光支店海外旅行業務課長
この座談会の内容はかなりの紙面を割いて紹介された。
 中高年が会社を退職、再就職を行うとき、社内外で多くの知り合いをもつことが有利とされている。阪急を退職して時点からトラベルジャーナルの中村氏より度々執筆を依頼された。また、これから十年後、マイクロ・コンピユータ・応用技術国際会議が開催され、矢矧晴一郎氏の推薦で、二度にわたり報告者となった。
 
 

WF 転職思案 F 代理店における航空貨物研究のまとめ

     電鉄出向社員制度が打ち切られるのは四十四年三月末でそれよりも六ヶ月前の四十三年十月に上司には退職する旨、届けていた。
   私は総務部事務機械課長と貨物部企画課長との兼務であり、電算機を利用して航空貨物の需要開発の広報を行っていた。幸い、英文業界紙は記事として、私の研究を取り上げてくれた。四十三年十二月二十五日のクリスマス号には「航空と海上との総流通経費分析
Distribution AnalysisがJapan Aircargo Newsという英文貨物専門月刊紙に掲載された。四十四年四月二十五日のShipping &Trade Newsという貿易と輸送専門紙には航空貨物輸送経済 Total cost analysis が、私の署名入りで発表された。
    会社で研究したものを、会社在籍中に発表しておいた方が会社にもプラス、私もプラスと判断し、退職まで電算機を使用していた。

  

WG 転職思案 G 米国航空機メーカーに打診

    北欧三国の共同運航会社 スカンヂナビア航空会社 SASは、四十年夏に、東京の貨物代理店から社員一社一名を招待し、航空貨物開発のセミナーを開催した。トータル・コスト・コンセプト(TCC)と呼ばれるセミナーであった。
  航空貨物運賃は海上運賃と比較して割高である。しかしながら運送に付随するすべてのコストを比較すると、航空輸送が安い場合があるという説である。私はこれが手計算であることに注目した。
    阪急に電算機が設置されたのは四十二年四月であった。三ヵ月後プログラムの練習を兼ねて、このSAS航空のシステムを電算機化した。
     このことをSAS本社貨物部長に報告したら、日本という国は日本から米国あるいは欧州などへの輸送では地理的に恵まれているため、アジア地区では最初の電算機化となったという論評が行われ、またこのようなシステムに最も関心があるのは、米国の航空機メーカーマックドナル°ド ダグラスであることも手紙に書かれていた。
    西独の航空会社ルフトハンザ本社から貨物部長が来日、同航空会社も真剣に研究に取り込んでいる旨知らされた。その後、同航空会社より提供される情報により、阪急独自のシステムを構築した。
     私は貨物部業務係長であったが、四十三年三月から貨物部企画課長となり、研究が英文業界紙に取り上げられるケースが多くなった。
 私の友人に我澤雅夫氏がおり、マックドナルドダグラスに私の研究資料を手渡していただくようお願いした。資料としては①英文業界紙に紹介された私の研究記事と②COBOL言語で書いたプログラムであった。このCOBOL言語は米国で開発された言語で、素人でも判る英会話方式であった。
  四十三年十一月に、ダグラス社より米国での就職の招聘状を受けた。当時の私の給料の約四倍であった。永住渡航査証の申請となり、査証が下りるまで約十ヶ月で、実際に渡航が出来るのは一年後であった。会社を退職しての再就職の内定である。その間は無収入、景気変動で内定取消も想定した。しかしながら米国の大手貨物専門航空会社で、近く太平洋線に乗り入れることも知っていたので新しい業務にチャレンジした。

WH 転職思案 H 国内航空貨物運賃専門委員会に研究発表

    航空会社や利用航空運送事業者の運賃は、当時は公共料金として認可運賃で、その申請の窓口は、航空局監督課であった。三十九年七月一日から発効した混載業社JFCの運賃申請に添付した運賃改定の説明書には私の名前があったと思われる。混載業者の運賃は、航空会社の運賃にを基いているので比較的原価計算は簡単で、また国際航空貨物運賃はIATA航空会社の決議に基いて申請が行われるが、国内線の場合は、独自に計算を行う必要があると考えられ、非常に難しいと思われる。
  私は四十四年二月六日、国内航空運賃専門委員会に国際航空混載貨物の運賃体系の講師として航空局監督課より要請されたので今回、講義内容を紹介する。あと二ヶ月足らずに代理店を退職することになっており、これは大変名誉なことと考えた。
四十四年二月六日の航空混載運賃の研究会でのニュースを二月二十日の航空関係業界紙TRAVEL POSTは次のように報道した。                 記事
  航空混載運賃体系の研究会を開催 航空局監督課
  航空局監督課の主催で二月六日午後二時より霞ヶ関全日空会議室で、国内航空運賃委員会として、航空混載運賃体系の研究会を開催した。
講師は阪急交通社事務機械課長坂本清助氏。
 現行の国際航空運賃体系は昭和三十九年五月十五日に発効したIATA航空会社の大幅な特定品目大口割引料率に基づいて設定されたものであり、この理論構成を担当したのが同課長であるため、今後の運賃設定に必要な基礎理論をオペレーシヨンズ・リサーチの手法を用いて英文テキストを使い説明した。
  そのテキストの内容は 1序論 2 混載業と代理店との収入源の分析 3 共同混載4 混載仕立の条件 5 混載に要する経費 6 混載業の成立すべき条件 7 混載業の基礎的営業方針 8 小重量貨物に対する損益分岐点 9 混載差益についての観念 10 むすびとなっていた。特に同課長が協調したのは、1 運賃改定においては関係者の間でトラブルが発生しやすいのは総合的なものを見ない時に多く(イ)混載と代理店との収入源の変更は航空会社荷主、混載業者、代理店との間の総合収支をみること、ロ)重量並びに運賃には度数分布の研究が必要であること。2 業界としては、業界の各専門委員会委員などスタッフ組織を平時においても整備し、たえず研究ができる体制にしておかないと大量輸送時代においては運賃体系が根本的から変化したとき、その対策が困難」となり、業界の混乱を招くおそれがある。これは混載運賃が公共料金である以上、運賃体系の基礎理論の研究会は重要となるというもの。以上、講演する阪急、坂本課長  講演会で黒板を背にして説明する写真が添付された。
   
主催は監督官庁の航空局監督課であり、出席者は日本航空、全日本空輸と東亜国内航空の運賃専門家で構成される研究会のメンバーであった。航空会社の代理店課長が航空会社スタッフへの講演であった。当時、ワープロが無いため活字として研究資料を保存するには、英文タイプを使用していた。日本人に説明するため約十頁、英文で書き日本語で説明した。官庁の行政指導というのは広報が必要であり、業界紙は私が講師となった情報を航空局監督課より入手し、業界紙として報道するわけである。官庁を訪問した記者が私を個人的に知っているということが、記事として取り上げられるという背景でもあった。監督官庁が私を講師としてこの研究会に呼んだのは、国際航空混載貨物料金の申請業務において、私が開発した原価計算方式が採用されていたためでもあった。この研究会の八ヶ月前、昭和四十三年度、国際航空貨物需要予測委員に委員となった。その背景の一つに混載運賃申請業務があったようである。これは阪急交通社を退社することになるが、混載貨物の研究が官庁に評価されたことは、海外旅行業務から航空貨物に同一企業内転職は成果があったと痛感した。

                         

2009年6月 6日 (土)

X1 私の転職のノウハウ 1 地域社会活用法

    尋常高等小学校を卒業したのは昭和十六年三月であった。現在の学制では中学二年終了と同じ学歴であった。太平洋戦争が勃発したのは十六年十二月であったが、それより四年前の十二年七月七日、盧溝橋事件があり、日本では支那事件と呼ばれていたが、実質的には戦争に突入していた。中学に進学する児童は、全体で二割、残り八割は高等小学校へ進学した。
    航空機操縦士の養成は少年時代より行うべきという国の方針で、小学校卒業した児童を対象に航空局航空機乗員養成所本科生の募集が行われた。五年間の養成で卒業時には甲種工業学校五年間の卒業資格、二等航空機操縦士、航空士、滑空士が与えられ、卒業は国の命令で指定された職業に二年間付く義務があった。
  これは就職が百パーセント保証されたきわめて珍しい工業学校であった。二十年八月十五日に終戦となり、故郷福岡市に帰った。
  終戦直後は就職するところが少なく、食料が不足しており、約七百万人の餓死者がでると伝えられていた時代であった。就職することが重要で、専門学校、大学へ進学しようという考えはなかった。
  福岡から東京へ転勤したのは三十六年七月で、戦時中を除いて約三十五年間、福岡市に居住していた。東京や大阪には住んだことはなかった。
  福岡市には西南学院、米陸軍民間検閲局、福岡公共職業安定所、米空軍雁の巣基地、米空軍板付基地、阪急電鉄福岡営業所、日本航空福岡支店などがあり、自宅から通勤、通学できるという地区に住んでいた。このため、地域社会の人との関連で色々なところに就職ができた。米陸軍検閲局、福岡公共職業安定所、米空軍雁の巣基地、阪急電鉄への就職が職業を紹介する部署の職員に知り合いが多かったためである。
   関西の私鉄阪急㈱に就職し、地方営業所出身者は転勤の意志表示をしない限り、福岡営業所に引続き勤務は可能で、入社して八年を目途に係長に昇格、阪急福岡営業所長は、係長ポストであるため、所長に昇格する可能性は濃厚であった。
 ここで、転勤の意思表示をした。これは地域社会の恩恵を蒙ったものが、居住したことのない地への同一企業内転勤、転職であった。  
  会社に入社したサラリーマンとして福岡で定年まで五人や六人の旅行案内所の所長よりも、苦労はあるが、会社では認められるような仕事に就きたいと考えた。これには新規業務へのチャレンジという心構えが必要であった。

X2 私の転職のノウハウ 2 航空代理店の人脈

    阪急㈱代理店部は後に㈱阪急交通社となった。福岡営業所に八年勤務したが、社長にお目にかかたことは皆無、専務取締役は一回、総務部長は二回、業務課長鷹峰弘文氏は一回であった。
      これに反して電鉄の社長や専務が福岡に用件でこられ、福岡営業所に立ち寄られたこともあり、秘書を通じて一流の料亭に接待されることも多かった。
      仕事の上で密接な関係があったのは日本航空福岡支店、全日本空輸福岡支店の人々であり、きわめて少数の社員を除いては、福岡から東京に転勤、本社、東京支店、羽田空港管理部に転勤された社員が多く、また私は旅行業務から貨物に転勤していたため、東京で知合った航空会社や航空代理店の部課長クラスの方々と面識があった人と多くなった。
      私が航空貨物部門で研究していたのは海上貨物と航空に切り替えされる手法の研究であったため、航空貨物業界紙などに取り上げられることも多く、航空産業全般からはプラスになる研究と評価されていた。福岡においては、地理的な関連であったが、東京に転勤してからは、航空業界での仕事との関連であった。
   大学を卒業して会社に入社した多くの人は、中学が何処であったかは問題にならないが、 東京に転勤し、混載運賃申請で航空局監督課に出入りしていたとき、専門官より「どこの学校を卒業したか」と問われた。専門官がこのような質問は異例であった。
   私はお宅の学校を卒業した。監督課の隣の乗員課長塚谷三彦氏は私のグライダーの教官であることを伝えた。お宅の学校というのは航空局航空機乗員養成所のことであった。
    阪急を退社する昭和四十三年度において航空貨物需要予測委員会委員になったのは、航空局監督課の推薦があったためと思われる。古希を迎える一年前、国際観光専門学校航空輸送学科「航空貨物」の授業の講師となった。
      阪急交通社で電算機導入企画は総務部が推進していたが、貨物部長鷹峰氏は、この仕事を貨物部が引き受け、私に担当させた。
   サラリーマンは手に職をつけることが必要で、チャレンジすることにより、会社を退職しても何とかやれるという自信がついた。これには、知り会いが多い航空業界でのビジネスを考えた。これはある意味で地域社会の活用法といえよう。 

   

    

X3 私の転職のノウハウ 3 航空会社には協力していたほうが賢明 

   昭和四十四年、太平洋線に乗入れを行っていた航空会社は、JAL,PAA,NWA,CP,VARIG,KALで、オフライン航空会社としては、TWA,AAL,NAL,UAL、FTLがあった。日本と米国間の乗り入れ交渉は、政府の協議ではきわめて長期間の交渉が続いたが、これが決着して、米国貨物専門航空会社FTLフライング・タイガーが四十四年九月から週六便、太平洋線に乗り入れを開始することとなった。
 これより一年前に、FTL航空の東京貨物部マネージャー西山氏が本社マーケッチング担当のハーマン氏をともなって会社にきた。目的は航空貨物市場調査であった。私はあまりよいデータがなければ再び来店欲しいと告げた。再び来店された時、コンピユータで日本から各地向け地別の混載貨物の重量で、過去五年間の統計と、これからの四年間の需要予測を行い資料を差し上げた。その後、丁重な感謝の手紙を頂いた。これは同行した西山支配人の顔と立てたことになった。
  私が阪急を退職して孤軍奮闘しているとき、米国本社から赴任してきた極東総支配人兼副社長ジョウジA ゼトラー氏から面接したいとのことで、会社に参上したとき、同氏は阪急時代に同航空会社に提供した航空貨物データを持参し、航空貨物統計関係資料の分析を私に依頼するという話で、これは西山支配人の推挙であった。
    同航空会社は貨物ジェット機二十三機を保有し、製造メーカーがマックドナルド・ダクラスであり、私がその会社に就職するため査証申請中であったことを知っていた。航空機メーカーのコンサルタント部門のスタッフになる予定であったため、同副社長は人手が不足している同航空会社には使えると判断された。最初は分析を依頼され、一件七万円程度の料金であったが、本社へ報告して各件ごとに承認を取り付けるのは面倒であるため、毎月、定額料金を支払契約を提案された。
  会社には出勤無用、夏一ヶ月、冬二ヶ月のボーナスあり、給料はセールスマン並みの十二万円であった。厚生年金加入資格あり、これは米国本社では顧問弁護士、医師などで専門職社員契約であった。複数企業への就職はOKであり、肩書は副社長付のマーケッチンク代表で、この仕事は同副社長が米国へ帰国するまで三年半継続された。
    本社が米国であり、航空会社としては中小規模の会社であるが、新規国際線に進出した会社であったため、海外業務出張は十回であった。
  西山支配人は私をソニー、倉庫㈱航空チームの嘱託に紹介した。そのお陰でソニーがマイクロ・コンピユータを発売するとき、ソニービジネスマシン㈱の特約店となった。航空会社の支配人が、社員のアルバイト先を見つけてくれる会社は非常に珍しい会社である。これもトップに報告していたと思われる。

2009年6月 7日 (日)

X4 私の転職のノウハウ 4 英文航空貨物業界紙の活用

 JAPAN AIRCARGO NEWSという英文貨物業界紙は月に二回発行され、編集長は棟尾氏で、海外の航空貨物事情には通じており、また航空局、航空会社、貨物代理店などへ広告と取材のため訪問されていた。
  阪急交通社東京営業本部で富士通小型電算機組織の稼動は、代理店業界で最初の試みであったため、しばしば訪問され、また航空貨物需要予測のソフトを私が組んでいたため、航空貨物ですでに業界で発表されたものを提供されると、これにより需要予測を行った。通常、このような処理を計算センターに依頼されると可なりの料金となるが、会社としても航空貨物需要予測は必要であり、無料奉仕であった。
   電算機を会社に導入、私は総務部事務機械課長という仕事の外に、貨物部業務係長というポストであったため、海上貨物を航空に吸収する手段として、「SEA,SEA-AIR,AIR CARGO JUDGMENT」 システムを開発した。これは海上輸送、海上と航空との連帯輸送、航空輸送手段判定システムである。
      電算機の判定に必要なデータを入力すると、英語で、海上輸送がよい、航空郵便小包で10キロずつ分割しておくれ、これは100パーセント航空輸送というようなメッセージ三十種類が、検索されるシステムであった。私は人間の勘と経験とを組み合わせての研究を行い、これを電算機化した。編集長棟尾氏が来社した折、このシステムのことを話たところ、早速、原稿おくれと云われた。私は自分の研究は自分で英文を作り、これを電算機プログラムを組み操作が出来るので、内容はすべて把握していた。
      「航空輸送は世界的なネットワークと信頼性がある当社」へという広告は、スポンサーは可なりの掲載料を支払う必要があるが、これに関連した記事は読ませる記事であるため、業界紙としては歓迎される原稿であった。経験ある編集長は英文で書かれた原稿を、読者にアピールするようにリライトされ、このようなシステムの海外航空会社や大学ので研究との比較で「航空貨物業界では世界で最初」という論評が付された。
   スクープとして誰がこのシステムを開発しているか?の紹介が行われた。自分で研究内容を報告するよりも記事として取り扱われることは客観性があった。その後、航空と海上輸送との総流通経費分析システムを開発した。
       航空貨物代理店で、航空貨物の企画というのは、対象業務を見つけることが困難である。海外旅行は「世界遺産をたずねて」というような企画では募集、航空会社予約、ホテル、旅費清算など色々な業務が発生する。貨物では団体旅行に匹敵するのは、航空混載業務であるが、海外への提携先契約は殆ど終了しており、貨物企画という的を絞るのは難しい。航空貨物の研究が英文業界紙に発表されることは、代理店としては航空輸送システムを研究していることにもなる。
       これから六年後、航空貨物パレット積付早見表を開発した。編集長棟尾氏に電話をかけ早見表のことを話したら、原稿送れといわれた。可なりの画面を割いて紹介された。これは代理店時代の関係が自営業として引き継がれた。これも読ませる記事であり無料であった。
    
      
       

   

X5 私の転職のノウハウ 5 転職決断

     福岡で海外旅行八年以上、希望により東京貨物課に転勤、私は英文科出身であるが、統計学は可なり研究しており、この分野で自己の能力を伸ばすことができると判断した。①会社から与えられたテーマは、航空混載差益配分方式の研究で、②私自身で関心があったのは、海上貨物を航空に吸収するっための手法であった。会社から与えられたテーマが、その後、航空貨物運賃設定問題で私の研究が業界から認められるようになった。
   海外旅行の従事者が係長にまもなく昇格する時期に貨物部門へ転勤、この場合、与えられる仕事は、貨物課の現業部門に属さない仕事で課長の補助業務であった。課長は吉田茂夫氏であった。吉田氏は後の㈱阪急交通社取締役社長、会長を歴任された。
      三十八年一月より私は貨物部業務係長となった。貨物部長は鷹峰弘文氏であった。三十八年一月より四十四年四月阪急交通社退社までの約六年半、私の直接の上司は鷹峰氏と吉田氏で、貨物部門ではNO.1とNO.2とが上司というのは、きわめてよい仕事が与えられた。
       阪急交通社退職時の役職は総務部事務機械課長・貨物部企画課長兼務であった。会社としては会社全般のコンピユータ化の管理職、貨物部門としては貨物に必要な専門職と判断された。しかしながら、貨物部企画課長職は解任され、総務部事務機械課長選任となる公算も高い。総務部は本社機構として大阪であり、いずれ転勤となる。殆ど社内外では面識がない地域への転勤は、リストラが発生する場合、きわめて危険であると判断した。
   研究というのは評価されている時点で、継続していないと日進月歩の時代、忘れ去られる。サラリーマンが会社を退職するには、その時の社会情勢を見る必要があり、①電鉄出向社員の打ち切り、②来年は一九七○年で、七○年代と言えばジャンボジェット機の就航により大量高速時代、③米国大手貨物専門航空会社フライング・タイガーの太平洋線乗入れの予想。④米国航空機メーカーよりの就職打診、⑤米国への渡航までの約一年、コンピユータ会社の非常勤顧問という就職先の確保。このような好機は二度と訪れないと判断した。
    会社在籍中にコンピユータのプログラム作成とシステム設計技術を身につけた。会社の電算機の仕事で進むのが、サラリーマンとしては常道であるが、自分の考えた研究でチャレンジするのも価値ありと判断した。脱サラを失敗しても、コンピユータセールスマンとして最低度の生活は確保できると判断した。年齢は四十二歳、男の厄年である。人生をマラソンにたとえると、折り返し地点であった。「新規業務へのチャレンジ」というのが、このブログでの「タイトル」でもある。次からは脱サラ稼業を述べることにする。


      
   
  

2009年6月 8日 (月)

Y1 SOHO業スタート 1 坂本システム研究所設立

  四十四年四月三十日を以って、阪急を依願退職した。退職金は十六年間勤務で一七五万九千二九二円であった。私の四十三年四月一日付の本俸は七万二千七二○円であったため本俸の二十四月分が退職金あった。阪急電鉄㈱入社時の二十八年四月の本俸が九千八五○円であったため、年六パーセントが私のベースアップの平均であった。
  
四月二十日に渋谷区渋谷一丁目の阪急社宅2DKで家賃二千五百円から渋谷区初台の新築賃貸マンシヨンで3LDKの家賃は七万四千円のところへ転居した。
   私の月給が十万円程度であったので、大変な家賃のところに転居したことになった。敷金が六ヶ月分
周旋料が一ヶ月であったので、七十万円程度は転居にかかった。業務用として三メモリーの電卓を二十一万円で購入した。電卓の出始めのため非常に高価であったが、色々な計算業務が発生することを予想して機械を購入した。
  米国航空機メーカーのマックドナルド・ダグラス社
には阪急退職の翌日四十四年五月一日に入社の申請書を提出した。これと同時に米国大使館に永住渡航の査証の申請をした。許可になるまで約十ヶ月がかかるため、五月一日付で商号を「坂本システム研究所」とし、居住している一室を事務所として、社員は私一人の典型的な零細SOHO業者である。米国査証が許可になれば事務所を閉鎖する予定にしていた。
 
  ㈱日本経営科学研究所が発行するコンピユータ専門月刊誌[コンピユータレポート]の四十四年四月号に「航空貨物輸送を決定する要因と比重について」と題して、十頁の分量のものを執筆した。また五月号及び六月号に「航空と海上との貨物総流通経費分析」と題して二十四頁の分量のものを執筆した。これらは阪急時代に富士通のEDP論文に掲載したもの基礎に坂本システム研究所名義で執筆した。阪急を退職する時点では年休など殆どとらずに会社へ出勤した。
  
コンピユータを自由に使用できるのは、在職中であるため戦時中の「月月火水木金金」の勤務であった。また四十四年四月二十五日の貿易関係専門英文紙に私が原稿を書いた航空貨物輸送流通経費分析の英文記事が掲載された。四十四年三月末で阪急電鉄㈱を依願退職、四月より阪急交通社の嘱託として残り、四月末で正式に退職した。
  五月一日より㈱中央電算研究所の顧問となった。米国へ渡航が実現するまで期間で、月給は十五万円であった。航空輸送販売ツール作成で、電算機を使用する場合があるので、計算センターを確保する必要があった。
  阪急交通社退社時に、発表した英字
新聞記事は一面と二面とで大きく扱われているため、この記事を切り取り、A4版の両開き四頁のセールス用パンフレットに編集、印刷した。海外の航空会社で今まで文通をしてきたところ約三十社に阪急の退職の案内状と新しいビジネスのためのパンフレッドを送り、五月末までに海外への挨拶は終了した。
  独立すると収入が不安定であるため、交通が不便な地域で高価なマンシヨンにローンを組むという「マイホーム」型は考えらず、高くとも賃貸が有利と判断した。株式会社組織など、これは経費がかかるため、一社一名での個人企業、職住接近型で自家用車なしであった。技術者で脱サラして失敗するのは経理処理であるため、私は、近所の税理士をコンサルタントとして税金申告指導を受けた。四十四年度の税務申告は白色、翌年から青色申告業者となった。商号としては「坂本システム研究所」、業種としては自称「コンサルタント」であった。それから四十年になるが、所属は「坂本システム研究所」が税務申告ではの私の職業である。

Y2 SOHO業スタート 2 航空貨物IATA代理店資格取得プロジェクト

 サラリーマンが会社を退職して再就職する場合、社内外に多くの交友関係をもっていることが就職に有利が条件とされている。旅行業界紙の編集部員を知っていたことがビジネスのスタートとなった。
  旅行関係週刊誌トラベルジャーナルの六月号には航空代理店における経営組織について、はじめて執筆した。阪急在職時代に日本航空㈱東京支店の収入管理課真野課長の発案で、業界の収入管理合理化研究会が開催されており、業界のコンピユータの座談会などが開催された。この座談会に出席し、取材していたのが中村正生氏であった。私は中村氏の依頼で海外旅行者の需要予測などでコンピユータ処理を行ったことがあり、これらの関係で雑誌への執筆を依頼された。
 
  六月に日本海外旅行㈱が航空貨物部門に進出するために、いままでにない航空貨物開発のツールとして、私の航空と海上との貨物輸送方法比較システムを採用したいということで副社長森正昭氏より相談を受けた。日本海外旅行㈱本社は千代田区麹町にあり、近所に旅行業界誌トラベルジャーナルがあった。編集長である中村正生氏の紹介によるものであった。
 
 海外旅行代理店であった会社が航空貨物分野に進出するには、IATA航空貨物代理店という資格が必要となり、この資格を取得するにはナシヨナルキャリヤーとしての日本航空および加盟の海外航空会社から承認を取付ける必要があった。
   
航空運賃は政府の認可料金であるため運賃の値引き、航空会社へのリベートの強要、航空機の安全を脅かすような搭載重量の虚偽報告などを行う代理店の出現にはきわめて警戒的であった。「価格破壊」はもっての外と判断される業種である。
代理店同志の価格競争よりも、新規航空貨物開発のほ
うがIATA航空貨物代理店としてライセンスを入手しやすいと考えられた。
   
 海上貨物を航空に吸収するための資料を方面別にコンピユータにより事例研究を行っていた。航空貨物コンサルチングサービスのためのセールスツールの開発を発注された。数百万円のプロジェクトであった。一人の社員一年分の俸給に相当する金額であるため、嘱託というような存在であった。システム開発でコンピユータが必要な場合は顧問先の中央電算研究所の機械を使用し、電算機センターに使用料を支払った。
   
航空貨物総流通経費分析で色々な条件を設定し、機械処理を行い二百頁のファイルを作成、約五十冊を印刷した。森副社長は貨物代理店資格を日本海外旅行㈱で取得された。約二百部の流通経費分析の資料を作成したが、私自身一冊の資料を所有することができたこは、私にもプラスであった。
  
四十四年八月、日本海外旅行㈱で募集した香港、マカオの五日ツアーに招待され森副社長に同行した。この旅行を利用しフライング.タイガー航空会社の香港支店に立寄、香港におけ航空貨物の税関統計資料を入手した。翌月からこの航空会社の専門職社員という道が開けた。一つのことから関連性をもたせて次の仕事を行うという「フイードバック」という考えかたが、必要であった。
  

2009年6月 9日 (火)

Y3 SOHO業スタート 3 航空貨物輸送問題で講演

  四十四年五月一日付で坂本システム研究所を設立し、また㈱中央電算機研究所と月額十五万円の顧問契約をした。㈱中央電算研究所は日本橋兜町にあり、従業員は三十名程度で社長は公認会計士の米川義夫氏であった。この顧問契約は、米国へ渡航するまでの期間の一時的なものであった。 ㈱中央電算研究所には阪急交通社で導入した同じタイプの機種が設置されており、プログラマーあるいはセールスマンとして勤務することも可能であると判断した。航空貨物の研究を依頼された時、コンピユータ処理を外注するためにも、㈱中央電算研究所が必要であり、私が顧問先となった会社での給与計算などはこの研究所に処理を依頼することにした。阪急を退職したのが四月末で、五月二十五日に富士通のユーザーの全国大会が大手町の経団連会館で開催された。四十四年度発行のEDP論文集より十名程度選ばれ、私は「航空および海上貨物輸送総流通経費分析」で発表を行った。
  
㈱中央電算研究所は、非常勤顧問としての就職であったが、富士通のセミナーに講師に選ばれたことは顧問契約において有利な条件の一つであった。発表は元㈱阪急交通社勤務、㈱中央電算研究所顧問という肩書で行った。この時、研究発表デーマおよび発表者は次の通りあった。

テーマ                発表者
非線形領域における最適化       横浜ゴム㈱     梅沢芳郎 他二名
個別受注生産企業における資材管理   川崎重工業㈱   坂出工場 加藤豪雄
汎用MTTO Tプログラム作成の考察  ㈱共栄計算     後藤健輔
航空および海上輸送貨物総流通経費分析 ㈱阪急交通社   坂本清助

  その他五つのテーマで発表が行われ、発表者の所属は古河電気工業㈱、富士電気製造㈱㈱建材、敷島製パン㈱などであった。
  この発表会のコーデイネータとして協和発行工業㈱、日本発条㈱、新和海運㈱、旭工業㈱、トーネン㈱および輸送機工業㈱等の情報処理担当部課長が出席された。研究発表の一人の持ち時間は一時間二十分であった。

 
六月十九日に市ヶ谷防衛大学幹部候補生学校の第三十三回システム工学の講師として「航空貨物コンサルチングサービス」と題して講演を行った。防衛大学の学生でなくて将校クラスの人への講演であった。防衛大学今村教授の推薦であった。
民間航空での貨物輸送の経済性についてコンピユータで解明を試みる方法に対して参考にされた模様である。SOHO業スタート、このような先生商売が発生した。
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Y4 SOHO業スタート 4 カナダ太平洋航空よりの手紙

    昭和四十四年五月一日、坂本システム研究所を設立した。四月二十五日、SHIPPING & TRADE NEWSの英文記事に、私が執筆した「航空と海上との輸送経済」について、カナダ太平洋航空本社の特別プロジェクト担当課長が関心を示され、私は東京で面談した。
  同航空会社で採用したい旨、同航空会社の社内に、説得されている模様で、その中間報告に手紙を送られた。名称は、「航空貨物市場調査」となっている。また、私の航空貨物も研究についての評価、私が航空機メーカーマクドナルド・ダグラスのスタッフになる予定であること、査証が下りるまで十ヶ月を要することなど書かれていた。また私が政府機関と業界では、可なり知られていることも市場調査で判明したことも書かれていた。
    この手紙の中で私が注目したことは、四十三年に「国際航空需要予測委員会」が設立され、私は委員になった。この結果、海外からの市場調査では、委員会委員を訪問されていたと判断した。手紙の内容は、下記の通りである。クリックされたい。
私の航空貨物研究の評価
  現在は平成二十一年六月で、昭和四十四年と言えば今から四十年前のことである。自分史を書くときは、客観性がある資料を保有しておくことが必要である。 

2009年6月10日 (水)

Y5 SOHO業スタート 5 航空貨物周辺ビジネス

 阪急電鉄㈱の出向社員制度が廃止となり、四十四年三月末で退職し、㈱阪急交通社には一ヶ月勤務し、四月末に退職、五月一日より坂本システム研究所という自営業を行うこととなった。
  富士通EDP論文集には「航空と海上との貨物輸送での総流通経費比較」を掲載していたので、これをわかり易く、コンピユータ専門月刊誌の四月、五月、六月号に寄稿した。
  海外旅行業界誌、トラベルジャーナルには「航空旅客代理店グループの経営組織情報分析」を、六月三十日号の「トラベル・ブルー・ブック」欄に寄稿した。阪急交通社在職中は執筆は会社の宣伝になるため、原稿料は無料であったが、自営業となると、ビジネスであり、原稿料を頂くための寄稿であった。
   トラベル・ジャーナルの社員から日本海外旅行㈱副社長森正昭氏を紹介され、貨物代理店を開業するに必要な「航空貨物コンサルチング・サービス」のシステム開発に協力することとなった。嘱託というような立場であったので、八月に同社が募集した香港・マカオ団体旅行には旅行側のスタッフとして同行した。八月、十月、十二月と海外業務渡航が発生した。コンピユータの仕事は机の前に座り、プログラムの作成作業、社内での社員との打ち合わせが多かったが、会社を退職しては変化がある業務に従事することとなった。 

Z1 複数企業就職 1 米国航空会社専門職社員

    日本と米国との間の航空路線交渉が極めて長期間に亘っていたが、四十三年に無事決着し、貨物専門航空会社では最大のフライング・タイガー航空会社(FTL)が四十四年九月より週六便を太平洋線に就航させることになった。
  この時代、日本航空(JAL)、パンアメリカン航空(PAA)、ノースウエストオリエント航空(NWA)の三社が貨物専用ジェット機を太平洋線に投入していた。JALの機種はDC8-62Fで、FTL航空はDC8-63F、PAAとNWAはB-707Fであった。
     FTL航空は整備の合理化を図るため貨物機はマックドナルド・ダグラス機種、DC8-63Fに保有機種23機を全部統一していた。このダグラスに就職するため私は永住査証申請を行い待機中であった。
    航空機メーカーには航空会社に航空機を売り込むための研究機関としてAdvanced Air Cargo Consulting Groupがあり、ここに私は就職が内定していた。新しく進出してきたFTL航空会社は貨物を獲得するには、何処を訪問すれば貨物の集荷が出来るか、貨物業界の人は知っている数字であるが、これを統計資料とし分析するには、航空貨物市場について知っておく必要があった。
  私はFTLの四十三年度の貨物市場調査に協力したことがあり、この点、FTL航空会社のスタッフからは評価されていた。
    米国本社から副社長兼極東総支配人に就任してきた ジヨウジ A ゼトラ氏よりの要請で、千代田区永田町のFTL航空支社で会うこととなった。航空貨物の市場の分析で、資料作成の外注の話であった。話が終わり、アメリカンクラブで同副社長の接待をうけた。
  これから三回程度、注文を受けた。毎回、見積書を提出するが、米国本社に承認伺を提出し決済を仰ぐのは、面倒であるため、毎月一定額を支払契約書に署名するように求められた。
  Professional Employmennt 契約である。これは米国本社では顧問弁護士、嘱託医師などきわめて少ない職種である。坂本システム研究所の代表者として、複数企業に就職可能な雇用条件であった。会社には机がない。出勤無用、在宅勤務である。
  夏は一ァ月、冬二ヶ月のボーナスがあり、航空会社の正式社員で、厚生年金の加入資格がある。四十二歳で会社を退職し、自営業を行うと、それからは国民年金である。
     二十年前は六十歳より年金が支給され、加入期間は二十年、現在は六十五歳よりの支給で、加入機関は二十五年である。厚生年金と国民年金とでは、老後の年金では雲低の差がある。
    私は阪急に十六年勤務して自営業を行ったが、米軍日本人従業員として、六年半勤務しており、また、FTL航空に勤務することにより厚生年金加入期間がプラスされた。このFTL航空会社への就職は私には、色々な面で大変メリットがある契約であった。

2009年6月21日 (日)

Z2 複数企業就職 2 SOHO業者としての商号 

  昭和44年5月1日に「坂本システム研究所」を設立した。所員は私と妻の2名の零細企業である。英語名は Sakamoto & Associates (EDPS)である。会社退職数年前より富士通小型電算機を使用しており、このため、富士通機種を使用している計算センター㈱中央電算研究所の顧問となった。 6月より日本海外旅行㈱より航空貨物販売システム開発の仕事を受託した。電算機処理は私の顧問先にお願いした。
   43年6月に航空振興財団43年度事業として「国際航空貨物需要予測委員会」が設立された。官庁関係、荷主側、輸送業界から31名の委員が選ばれた。この中に日本航空、日本通運、ソニー、三井物産があり、 これらの会社の委員の方々と面識があったことが、ビジネスとしては、大変プラスになった。
    米国貨物専門航空会社フライング・タイガー(FTL)は44年9月15日に、太平洋線に週6便に乗り入れを開始、同日付で同社の専門職社員となった。ソニー製品の海外への航空輸送業務を担当しているのは、ソニー倉庫㈱航空チームであり、FTL航空の紹介で、ソニー倉庫㈱の嘱託となった。この時点で、FTL航空が正規の給料、副業として㈱中央電算研究所顧問とソニー倉庫㈱嘱託の給料が発生した。これ以外に原稿料収入、ソフト開発収入が発生した。初年度は白色申告、次年度からは青色申告を行った。自分で仕事をしているものは、経理処理というのがきわめて重要なことであった。
   
   

Z3 複数企業就職 3 マイクロコンピユータ特約店

 昭和45年7月より品川のソニー倉庫㈱の嘱託として1週間に1回出勤した。給料は月に55,555円である。税金は1割で手取りは50,000円である。時給1,800円に相当している。
   46年2月に同社の太刀川社長より、ソニーで磁気カード方式のマイクロ・コンピユータ SOBAX-ICC-2700を販売するので、倉庫・航空部門で、どのような業務に利用できるか?研究して欲しいといわれ、機械を提供された。私は「航空と海上との輸送方法判定システム」をプログラムに組んだ。フライング・タイガー航空の台湾総代理店社長のリーフレット氏に、新製品の話をしたら1台、498、000円の機種を2台購入され、その1台を私に貸与された。このことをFTLの極東総支配人兼副社長ゼトラー氏に話されたと思われる。
    46年5月1日より晴海で第9回国際見本市が開催された。FTL航空は、国際見本市に出品するコンピユータを米国より会場へ輸送しており、見本市の終了後、再び米国へ輸送するため、会場に同航空会社のブースにコンピユータ・システムの展示を行い、セースルマンを派遣するわけである。同社は私に「航空と海上との航空輸送方法の判定」を要請した。46年4月30日の日刊工業新聞は次にタイトルで大きく報道された。
「貨物輸送 空輸が有利か、船便か 算機を使い判定 東京国際見本市で5月1日から一般公開 米FT社」
  日本航空㈱東京支店貨物部井上部長が会長のインターライン・カーゴ・セース会議で、IATA航空会社の貨物販売部課長を集めて研究会が開催された。ソニーのマイクロ・コンピユータを十台程度会場に持込んでの研究会で、「総流通コストからみた航空運賃負の測定」であった。46年6月7日の日刊航空速報で、航空業界には事前に報道された。
 これらの航空会社のプレス・レリーズのお陰で、46年7月1日より、ソニーのマイクロ・コンピユータ SOBAX-ICC-2700の特約店となった。これは知識を売る「コンサルタント」業は対象が限定されているが、「プログラムが組める電卓」販売業は、私にとては大きな転進となった。

Z4 複数企業就職 4 専門誌に連載執筆

   富士通EDP論文集第1集には「航空貨物輸送を決定する要因と比重」を第2集には「航空と海上との総流通経費分析」が掲載され、第1集は昭和43年4月、第2集は44年4月に発行された。
  この論文集は富士通ファミリー会メンバーに配布されており、航空貨物業界の方々は、ご存知ではないと思われ、これを紹介することにした。
  46年1月より㈱ジャパンプレスで航空貨物専門月刊誌「SPACE」を創刊することになり、私は「コンピユータによる航空と海上との輸送方法比較」を連載することになった。富士通論文集での私寄稿の合計は約25頁であるが、これをわかり易く説明し、新たな研究を加えれば、20回の連載も可能と判断した。
  連載1回がA5版で5頁程度で、原稿料は1回55,555円であった。SOHO業者は原稿料を稼ぐのもビジネスである。最初の12号までは電算機研究所顧問の肩書で書いていたが、ソニーマイクロ・コンピユータの特約店となったため、「坂本システム研究所」名義で書くことにした。これは原稿料を頂きながら、ソニー機種の宣伝も兼ねおり、これは広告のスポンサーが付く原稿という評価になる。

Z5 複数企業就職 5 SOHO業者の取引先

   46年7月1日よりソニービジネスマシン㈱の特約店となった。ソニー倉庫㈱航空チームの嘱託として週に1日、出勤していた。日通総合研究所より関税の部分申告計算ソフト開発で相談したいとのことで、ソニー本社から私が連絡を受けた。航空と海上との総流通経費分析では関税や保険料計算も含むため特約店としては対応できると判断され紹介された。
   プログラムを組み日本通運東京海運支店と横浜海運支店にそれぞれ1台ずつ66万6千円の機種を納入した。これは今から38年前の話であるが、メーカーからの紹介で機械とソフトとを納入できた時代であった。
   44年4月より48年3月までの4年間で収入の対象となったのは、ソニー、フライング・タイガー、日本航空、ルフトハンザ独逸航空、ボーイング、三井物産等であり、航空と海上輸送での総流通経費分析というのは大手企業に興味があったシステムであぅた。
  49年にソニーより紹介されたのが、運輸省交通公害研究所の航空機騒音証明プログラムの作成であった。マイクロ・コンピユータの特約店というのはコンサルタントという職業よりも興味ある企業と取引が可能であった。.

2009年6月22日 (月)

AZ1 FTL航空業務出張 1 北米ロス本社打ち合わせ

米国航空機メーカーのマックドナルド・ダグラス〔北米加州ロングビーチ〕に就職を目的として永住渡航査証申請中であったが、四十四年九月十五日に米国貨物専門航空会社フライング・タイガー(FTL)は太平洋線に週六便の貨物専用機の乗入れを開始し、この日に同航空の専門職社員契約を行った。十二月に入社の紹介と打ち合わせのため米国の本社へ出張することとなった。米国への一時渡航の査証が必要であるが、米国での就職を目的とした永住査証の申請を行っていたので、この永住渡航申請を取下げない限り、FTL本社への出張はできなかった。
  この時点でダグラスへの入社は断念し、米国への業務渡航の査証の申請を行った。私は航空機メーカーに入社し、その後は航空会社のコンサルタントになることを希望していたが、FTL航空への入社でその希望は叶えられた。FTL航空での私の仕事は通常、会社に出勤しないで副社長兼極東総支配人からの要請があったとき会社に出勤していた。
 ①セールスマン管理のためのコンピユータシステムの開発、②貨物の需要予測、③貨物積取率の計算、④貨物専用チャター機による海上と航空との総流通経費分析、⑤各支店の貨物搭載重量レポート集計などで、極東地区支配人付のマーケッチングを担当であった。
   FTL
航空が太平洋線に乗入れが開始したのが九月十五日で本社が北米であるため、業務連絡のため海外に出張が発生した。セールスレポートシステムを開発し、コンピユータ処理は顧問先の㈱中央電算研究所で行った。十月十五日から十八日まで香港、台湾に出張し、タイガー社員にコンピユータ処理によるセールスレポートの記入方法の説明をした。
十二月一日から八日まで北米ロサンゼルスの本社に出張した。FTL航空は貨物専門航空会社であるため、私の米国への出張は羽田から北米ロサンンゼルスまで貨物専用ジェット機ダグラスDC-8-63Fの操縦室に約8時間搭乗、アリューシヤン列島のコールドベイ空軍基地で給油、それから南下してロス空港まで。空港裏にFTL本社があった。帰路はFTL本社裏から米軍へ提供している兵員輸送用のチャータ機に搭乗、到着空港は横田空軍基地であった。ベトナム戦争中であり、旅行中カメラ撮影は遠慮の業務出張であった。
 
下記は、極東総支配人からFTL本社の役員、部長への業務連絡簿で、私が「航空と海上との輸送総流通経費分析システム」を開発している旨、紹介された。このため、その後、米国での貨物チャータ機による航空貨物セールスのチームに加えられた。

  フライングタイガー航空業務連絡書簡

AZ2 FTL航空業務出張 2 台湾ーシカゴ アドミラル工場へ提案

  昭和四十四年十二月一日から八日まで米国ロスアンゼルスの本社でマーケッチングおよび情報管理者との打合のため出張した。このとき航空と海上との貨物輸送での総流通経費分析で、航空貨物代理店に納入した二百件の分析資料をを持参した。極東総支配人より、私が開発した総流通経費分析について本社へは事前に紹介されていた。その結果、FTL台湾の総代理店が非常に興味を持ってきた。
  FTL台湾の総代理店社長のリーフレット氏は台北で電子部品工場を経営していた。極東総支配人G.ゼトラー氏に私を台北へ出張させるように要請した。これは台北における米国家庭電器工場での製品を、米国本土へ輸送するための空輸作戦に「航空と海上との総流通経費分析」手法が必要であるので、台湾側の資料収集のため、私に出張を要請した。
  私は四十五年二月二十二日より二十四日まで台湾に出張し、総代理店社長リーフレド氏と同行し、米国の電気製品製造工場アドミナル・コポレーシヨンで、航空と海上との輸送経費分析作業の提案を行った。
 台北への出張の二ヵ月後の
四月十二日より十九日まで、米国ロスアンゼルス本社に出張し、輸送経費分析で本社部門と作業を行い、計算方法を本社の担当者に指導した。極東総支配人、本社の専務、部長など六人のチームに加わりシカゴへ行きアドミラル・コポレーシヨン本社でプレゼンテーシヨンを実施した。説明はすべて本社の部長が行ったが、極東から分析の専門家を同行した旨の紹介が行われた。
 羽田からは貨物機に搭乗、帰国はロスから米軍への兵員輸送チャーター機で、兵士に混じっての横田基地に到着。往路および帰路、一般の旅客ターミナルを通過しないので免税の煙草、酒類はない。貨物機の操縦席は酒類はご法度である。DC8-63Fの操縦席の計器などを眺めての旅行である。
  私は航空局航空機乗員養成所で航空機整備士課程に四年半在籍しており、このような体験はきわめて興味をもっていた。

                     

AZ3 FTL航空業務出張 3 韓国・香港の航空貨物取材旅行に同行

  フルトハンザ・ドイツ航空と東京支店広報宣伝部次長石上慶雄氏の紹介で㈱ジャパンプレス社を訪問したのが四十五年夏であった。航空貨物月刊誌「SPACE」を四十六年一月より創刊されるとのことで、新たに編集長に就任された中村正生氏に会った。同氏は海外旅行誌トラベル・ジャーナルの記者でいままで大変お世話になった方であった。
 月刊誌には核となる連載ものが必要で、私は次のような連載企画を提案した。四十六年一月より四十七年八月までの二十回である。
            -コンピユータによる-
「海上と航空との貨物輸送方法比較」

 四十五年十二月に中村編集長は取材のため、韓国ソールと香港に出張することになり、このことをFTL航空会社の副社長ゼトラー氏に報告したところ、専用貨物ジェット機DC8-63Fでの搭乗の許可を取り付けてくれた。
①十二月七日羽田発、韓国ソールへ
②十二月九日ソール発、羽田へ。自宅で一泊
③十二月十日羽田発、香港へ。
④十二月十二日香港発、羽田へ。
  四回の海外旅行であるが、航空機の乗員としての出入国手続きであった。私は極東総支配人つきの航空貨物マーケッチング担当であるため、FTL路線での航空貨物の状況を把握させておいたほうが、プラスと考えられ、交通手段を提供された。

AZ4 FTL航空業務出張 4 比島潜在航空貨物市場分析

 四十四年九月十五日に、米国貨物専門航空会社フライング・タイガーの専門職社員となった。仕事の指示は極東総支配人からであり対外的な関係がないため、航空会社の名刺は不要であった。
  四十六年三月に比島マニラに出張すとことになり、初めて対外的な折衝の為、航空会社の名刺のことを話したら、「坂本システム研究所」の名刺を使用することを、FTL副社長は希望された。今回のプロジェクトが、比島、マニラを中心として、①豪州、②タイ、③シンガポール、④香港、⑤日本、⑥ハワイ向けに航空貨物で輸送できそうな品物はどれだけ存在するかの調査であった。
  航空と海上との輸送方法の判定を研究しているため、キロ当たりの商品価格、重量、貨物の比重などから、判断がつく。現地の税関統計をお借りして分析するわけである。金の延べ棒、食用猿、女性の下着類など、色々な品種をみて、どの程度の運賃なら航空輸送に向くかは判断できる。
 この出張は四十六年三月十七日から二十日の四日間で、台北経由でマニラに向かった。キャセ航空とフリッピン航空に搭乗した。

     

AZ5 FTL航空業務出張 5 台湾ーフラデルフィア・フリコフォード工場へ提案

 46年7月からソニーのマイクロ・コンピユータの特約店となった。台湾のFTL航空総代理店社長リーフレット氏はソニーのマイクロ・コンピユータ2台を購入し、1台を私に貸与した。私は今回からは航空と海上との流通経費分析では、ソニー機種を使用することになった。
 46年9月24日より28日まで5日間、FTL航空の出張として総代理店社長リーフレット氏に同行し、米国の家電メーカーフリコフォード台北工場にゆき、航空と海上との総流通経費分析の提案資料を入手した。
  台湾で製造される家電製品を北米へ輸送する場合、船から航空貨物に切り替えるためには、航空運賃が安いチャーター便となり、年間、数百台となるため、FTL航空としては大きな販売作戦となる。
 1ヵ月後の11月2日から8日までの予定で、ロサンゼルスFTL本社に出頭、そこで提案書を作成、役員、部長クラス4人程度のチームに同行し、フィラデルフィア工場でのプレゼンテーシヨンに立ち会った。今回も前回と同じく太平洋は往路は貨物機、帰路は米軍チャーター機で横田基地に到着、再入国手続を行った。これは私にとっては貴重な体験であった。   
 
 
 

2009年6月23日 (火)

BZ1 航空会社員兼職 1 雇用条件

   ㈱阪急交通社を依願退職、坂本システム研究所を設立したのが四十四年五月一日であった。米国で就職するため永住査証申請中で、その間の仕事として計算業務を引き受けていた。米国貨物専門航空会社フライング・タイガー(FTL社)は、四十四年九月十五日から太平洋線に週六便の貨物機乗り入れを開始することになった。
       FTL社はダグラス機DC8-63F貨物専用機を23機保有しており、私はその製造メーカーのマックドナルド・ダグラスの「航空貨物コンサルタント」部門に就職するようになっていたため、同社の専門職社員契約を提案された。米国本社から新たに就任してきた副社長兼極東総支配人 Geoge A Zettler氏付のマーケッチング担当になった。
     会社には出勤しなくともよく、毎月定額の給料を支払い、また、夏と冬のボーナスあり、航空会社社員として海外旅行優待割引あり、厚生年金受給資格もあるという就職条件である。海外へ業務渡航が多い。これは就職では好条件であった。これはFTL航空が支払う月給に見合うだけ働けばよいという契約で、米国では嘱託医師、顧問弁護士などの職種である。
    FTL航空東京貨物支配人西山氏の紹介で、ソニー倉庫㈱航空チームの嘱託となった。自社からの給料が少なければ、他社から給料を頂けということで嘱託口の紹介と、航空会社のPRも兼ねていた。これが縁で、ソニービジネスマシン㈱の特約店となった。日本通運㈱、日本航空㈱、三井物産㈱にマイクロコンピユータの販売ができた。マイクロ・コンピユータという機種を所有していたお陰でフルトハンザ独逸航空本社から研究を受託、また米国航空機メーカーより、航空貨物市場調査でコンサルタント契約をとりつけた。
       知識を売る仕事よりも、知識をハードウエアに組込む業務を伴う機械販売業のほうが零細企業向きの仕事であった。

BZ2 航空会社員兼職 2 貨物代理店時代のコネクシヨン

   四十四年九月にFTL航空の社員になった。四十五年七月にソニー倉庫㈱嘱託、四十六年七月にソニービジネスマシン㈱の特約店となった。阪急交通社貨物部企画課長として退職前、数ヶ月にわたり四回程度、航空と海上との輸送方法比較でソニー輸出部門の方々に講義したことがあった。
     ソニービジネスマシン㈱の特約店では主にソニーマイクロ・コンピユータSOBAX製品を販売しており、納入台数としては日本通運㈱に2台、日本航空㈱に4台、三井物産㈱と関連会社に30台程度販売した。また、ソニーのマイクロ・コンピユータを自宅に設置していたため、ルフトハンザ独逸航空よりの研究、また北米シアトルの航空機メーカーボーイングより「コンサルタント」契約の申し出があり、受託した。
      四十三年六月に国際航空貨物需要予測委員会が設立され、官庁、荷主、航空貨物業界、研究団体から合計31名が委員となった。この委員の中に航空輸送経済専門家として加えられたことは、機械販売及びソフト作成担当としては大変プラスであった。
      中高年者が再就職口を捜すとき、社内外に多くの知り合いをもっていることが再就職には有利であるとされているが、物品販売でも同様なことが云える。
      機械販売においては値引きして多くの台数を販売する業者と、メーカーの表示価格どうりに販売する業者とがあるが、大手企業に販売する場合は表示価格どうりに販売し、ソフトウエアの開発面で協力したほうが相手方には喜ばれる販売手法であった。   

2009年6月24日 (水)

BZ3 航空会社員兼職 3 突然の会社社員解雇

      米国貨物専門航空会社フライング・タイガー(FTL航空)の専門職社員に採用されたのは、昭和四十四年九月であった。私のFTL航空における直接の上司は副社長兼極東総支配人 George A Zettlers氏であった。阪急電鉄㈱を依願退職したのが四十四年三月で、FTL航空より計算業務を引き受けたのは六月であり、四十八年三月までFTL航空の仕事をした期間は三年十ヶ月であった。
      FTL航空の太平洋線乗り入れを開始し、当時、スタッフが少なかったため、非常勤のマーケッチング担当となり、入社して二年間で海外へ業務出張した回数は九回であったが、その後、米国よりマーケッチング担当課長が就任したため、私の出番は少なくなり、各地支店から提出される方面別の貨物取扱重量を在宅勤務として集計、これを極東総支配人に提出していた。
     四十八年三月、極東総支配人 Zettler 氏が、米国帰国することになり、契約終了を通告された。事前予告なしの解雇であった。本社に帰国後、再契約と申されていたが、これは確実性はないと判断した。
    FTL航空との三年半に及ぶ契約の最大の成果は、「ソニーのマイクロ・コンピユータ」の特約店になったことと、厚生年金受給資格が発生したことである。会社をやめて脱サラすると年金は国民年金である。これは大変少ない。六十二年の時点では、六十歳が支給開始の年齢で二十年以上すなはち、二百四十ヶ月が最低の年金支払期間である。しなしながら、FTL航空の社員になったお陰で、二百六十ヶ月の受給資格が発生した。阪急退職時、全く考えなかったのは年金の問題である。年金から考えると脱サラは慎重を要する意思決定である。 
   阪急を退職した時点では一ドルが三百六十円で、四十年間で四分の一の九十円台になった。外国の航空会社と取引するよりも日本の航空会社と取引したほうがよいと判断するようになった。つまり航空会社にマイクロ・コンピユータを売込む業者になることであった。
        この三月末で消滅した私の副業就職先はソニー倉庫㈱嘱託であった。これは不況に突入する前に最初に首を切られたが、コンサルタント業である。これは第一次オイルショックの前ぶれであった。
   四十八年四月一日、突然、新聞発表されたのが、ソニーの電卓部門からの撤退である。マイクロ・コンピユータは電卓と生産ラインが同じであるので、マイクロ・コンピユータの製造も打ち切りとなった。これは、特約店として方向転換を余儀なくされた。 

2009年6月25日 (木)

BZ4 航空会社員兼職 4 独逸より研究業務受託

   航空貨物代理店はIATA航空会社の販売部門である。電算機の揺籃時代で小型電算機を使用し、航空貨物の需要開発の研究を行っていたため、ルフトハンザドイツ航空(LH航空)ケルーン本社の貨物部長クルンプ氏とブーツ課長は昭和四十三年に阪急交通社電算機室を視察された。
    阪急を退社し坂本システム研究所を設立したが、航空貨物の研究では、LH航空より有効なアドバイスを受けていた。私が開発した「海上と航空との総流通経費分析」では、商品価格分岐点方式についてはLH航空は賛同されなかった。
  しかしながら、それから四年後に、私の商品価格分岐点方式を採用すると同時に、大西洋沿岸都市間の輸送計算をUS$300で行って欲しいという手紙をうけのが46年9月23日の手紙であった。
  ソニーのマイクロ・コンピユータの特約店となったのが同年7月1日で、これは私が機械を保有していたために発生したビジネスであった。
  なぜLH航空が私に研究を依頼したか?LH航空は世界で最初に高速大量輸送ジャンボ貨物機ボーイングB747Fの導入を決定、各地の荷主、代理店に航空貨物セミナーを開催、このとき教育資料が必要であった。研究資料はLH航空東京支店に納品する形となるが、航空会社は自社便で輸送するので、数日で現地に到着する。
   四十七年十月二十四日より二十六日まで三日間、銀座ソニービルで、ソニーマイクロ・コンピユータ・ショウが開催された。私はソニービジネスマシン㈱の特約店として、「ドイツ航空 輸送コスト比較プログラム」開発と実演を行った。私は本社から仕事を受注しているので無料奉仕である。
    肩書を全面的に出せば米国航空会社フライング・タイガー社員がドイツ航空にも協力していることになるが?このようなことが殆ど問題にはならない。これは坂本システム研究所という自営業者が本業であるため、航空会社の肩書は無用であった。
  四十六年一月より航空貨物専門誌「SPACE」が創刊されることになり、私はコンピユータによる航空と海上との輸送方法の比較で連載するようになった。雑誌社に私を紹介したのが、LH航空宣伝部次長の石上慶雄氏であった。LH航空の銀座ビルのデモの状況は写真入りで各英字新聞にプレスレリースされた。

BZ5 航空会社員兼職 5 航空機メーカーよりのプロジェクト

   昭和四十四年三月末で阪急電鉄㈱を依願退職をし、自営業「坂本システム研究所」を設立した。九月より米国貨物専門航空会社フライング・タイガー(FTL航空)の専門職社員となった。四十五年七月よりソニー倉庫㈱航空チームの嘱託となった。四十六年七月よりソニービジネスマシン㈱の特約店となった。現在のパソコンの元祖、マイクロ・コンピユータの販売を行った。プログラムを開発しながら自宅にマイクロ・コンピユータを所有しているためルフトハンザ航空本社よりソフト開発の仕事を受託した。
  四十六年十二月に北米シアトルの航空機メーカーボーイングに、ジャンボ貨物専用機B747Fのマイル当りの運行コストを、坂本システム研究所名義で問合せの手紙を送った。このとき、ダグラスDC8ー63Fのマイル当りはUS$6.30、これに基いて台北から北米ロサンゼルスまでの航空と海上との総流通経費分析コンピユータの処理例を添付した。これは確実に回答を頂くための方法であった。一ヵ月後に回答がきた。
  四十七年夏にシアトルからタッカー部長が来日、ボーイングの太平洋潜在航空貨物市場調査に協力して欲しいという要請があった。私の仕事はどの調査会社がよいか?の推薦と調査監査業務であった。
  米国で作成させれた調査項目は重量の単位がポンドで、長さの単位が吋である。容積の単位が立方フイートであった。価格はUSドルである。航空運賃と容積に割合は比重と呼ばれ、米国では分母が容積で分子が重量である。日本では逆の分母が重量で分子が容積である。 1㌔当たり6000立方という換算率は米国では1立方フイート当り10.4ポンドになる。日本の調査会社に重量の単位を立方糎、長さの単位を糎、容積の単位を立方糎、通貨を円としたほうが理解しやすい。
  調査した結果は日本の単位、アウトプットは米国の単位に換算するプログラムを作成した。マイクロ・コンピユータを保有しているため、私に調査資料を送付されると調査結果を審査できる。
    例えばテレビの比重が立方フイート当り5ボンドとすると、私はこれは調査の誤りと指摘できる。航空と海上貨物の総流通経費分析を行っているため家電製品の物流の数値を知っていた。契約の条件としてコンピユータ処理が含まれており、その代金は私の航空会社給料の六ヶ月分に相当するが、六ヶ月でプロジェクトは終了となった。
   四十八年三月末でFTL航空は解職、ソニー倉庫㈱の嘱託も解職となり、すべての定期収入が消滅した。残ったのは自営業者としてのマイクロ・コンピユータの特約店であったが、これも次の日の四月一日に新聞紙上で、ソニーの電卓製造部門からの撤退であった。これは営業方針の大幅な転換を余儀なくされた。 
  営業を始めてプラスであったのはボーイング、フルトハンザ独逸航空、フライング・タイガー、日本航空や総合商社三井物産㈱にも取引が出来たことであった。   

2009年6月26日 (金)

CZ1 アフターサービス業 1 SOHO向きの仕事

     課長の本俸が七万円、自営業として独立し、計算業務が発生すると予想して、三メモリーのシャープの電卓を購入した。定価は二十三万円、これを二十一万円で購入した。その後、電卓の値下げ競争が発生し、ソニー電卓SOBAX230を現在も使用しているが、販売価格は十万円であった。電卓の値下げ競争に嫌気がさし、電卓の製造を打ち切るとソニーが新聞紙上で発表したのが、四十八年四月一日であった。
    ソニーは電卓よりもVTRが本命であると判断された。ソニーのマイクロ・コンピユータは電卓と同じ製造ラインにあったため、マイクロ・コンピユータも製造の打ち切りとなった。
   ソニーの紹介で他のマイクロ・コンピユータの販売店となる道もあったが、ソニーマイクロ・コンピユータのブログラム作成の仕事を行いたいという意志表示をした。このため「ソニーマイクロ・コンピユータ」プログラム作成指定店扱いという「アフターサービス業」を開始した。
      ソニーの特約店はソニーで開発したプログラムで機械販売を行っている業者が多く、ユーザーより有料ソフトの注文があれば私が引受けることになった。ソフトの注文の予想、ソフト料の基準がない時代であった。私のような一社一名の特約店では何とか経営が維持できるが、一般特約店では採算割れと予想された。
     ソニーのマイクロ・コンピユータの在庫がなくなるまで、私は販売を継続することにした。プログラムの開発が伴う新規の納入先では、私が納入するようになり、官庁関係にも機械を納入することが可能になった。コンピユータ・メーカーの撤退においてアフターサービスというのが、SOHO業者向きの仕事であった。

CZ2 アフターサイビス業 2 プログラム開発納入先

    ソニーのマイクロ・コンピユータで、ソニービジネスマシン㈱の社員の訪問先は学校、研究所、病院等で、統計学であった。高等学校は数学関係であった。サイン、コサイン、タンゼントという三角関数を必要とする測量事務所に、多数のマイクロ・コンピユータを納入している特約店もあった。私は統計計算や科学技術計算よりも、総合商社で使用される事務計算のソフト開発が得意であった。 私は需要予測などの統計プログラムは、可なり勉強しているので、内容はよく知っていた。ソニーの紹介をうけて、プログラムを作成納入した処は次の通りである、
「統計学」
国立栄養研究所、東北大学医学部、神戸女子薬科大学、吉田工業㈱、山一証券投資信託㈱、太平住宅㈱、日本予医学予防協会
「金利・事業計画」㈱ニチイ、日本ランデック㈱、㈱レイク。
「その他」
帝都高速度交通営団(減価償却)、徳山機械㈱(技術計算)、大東工業㈱(保険計算)、等であった。
   これらのところは個人としての「坂本システム研究所」では、取引が困難であるが、ソニーのプログラム作成指定店という肩書であるため、取引が実現した。

CZ3 アフターサービス業 3 運輸省より航空機騒音証明ソフト開発受託

   ソニー・マイクロ・コンピユータ・プログラム指定店となっているため、ソニーのマイクロコンピユータのソフト開発の仕事で、きわめて技術的に難しいソフトの仕事として、「航空機騒音証明プログラム」があった。四十九年四月にソニーより運輸省交通公害研究所を紹介され、航空機騒音証明プログラムでマイコンと騒音調整装置とを連結し、飛行場でテープコーダーに録音した騒音を騒音調整装置にいれ、マイコンで数値解析を行い、プリンタに印字させるプログラム作成を依頼された。
   
各国政府間で構成された国際民間航空機構ICAOで決定された航空機騒音を測定するための計算式のプログラム化である。これは日本で製造した航空機に騒音証明を発行するため、航空法を改定するための前提となるプログラムであった。
    このシステムは米国航空機メーカーロッキード社で開発され、
汎用コンピユータで処理されていたものと思われるが、今回、ソニー機種を官庁に納入しだ騒音専門メーカーがソフト開発をソニーに依頼しソニーより私に回されたものであった。
   
 官庁の予算は四十万円しかないと知らされたので、その額が見積並びに請求価格であった。計算式の説明は六頁にわる英文で今までに最も難しいソフトの一つであった。
  
一般に官庁に業者が取引をする場合は、株式会社組織が前提であったが、個人の資格で納入を行った。運輸省の研究所長が注目したのは、私が航空局航空機乗員養成所で航空機整備を学んでいたこと、米国貨物専門会社タイガーの専門職社員やボーイング社の仕事等をしていた経験があり、航空産業と密接な関係がある経歴書で、研究所長はこの仕事は私にピッタリの仕事であり、このプロジェクトは将来、プラスになる実績であると激励された。
    プログラム開発を行う担当者が、開発できなければ会社を退職するケースが発生する。航空法の改定に必要なプログラム開発であるので、プログラム作成者がやる気がありかどうか?官庁の予算の四十万円はきわめて安い金額であった。このソフト開発には自宅で同じセットの機械を保有していないと出来ない。

 この航空機騒音証明プログラムは納品してその後、トラブルで一度も電話がかかったことはないので、順調に作動していたに違いない。或いは、また、日本で航空機を製造し、外国へ航空機を輸出するようなケースがなかったことも予想されるが、航空機を製造、輸出するときの航空機の騒音の証明というための目的は果たしたようであった。
  

CZ4 アフターサービス業 4 解約自由のマイコンレンタル 

      航空貨物運賃改定は、IATAの年次総会で決定され、これに基き各国政府に、承認の申請が行われる。申請する航空会社はナシヨナル航空と呼ばれ、わが国では日本航空㈱であった。国際旅客・貨物運賃は英ポンド建て、これに値上率を掛け、日本円への換算であるが、端数処理が面倒であるため、私はプログラムを開発し、マイクロ・コンピユータとプリンターを日本航空㈱東京支店に月額六万円程度で貸し出したことがある。これを各航空会社の担当者が共同使用された。
   東京支店貨物部予約課にはパレット積付計画ソフトと機械および希望者へのプログラム講習ならびにプリンターロールペーパーなどを含む一定料金のレンタルを行っていた。これは解約自由であるので、機械が不要なれば、返還OKである。
    米国航空会社フライング・タイガーの専門職社員契約が解除になったが、これに替わる定期収入確保のため機械が稼ぐ方法を考案した。

2009年6月27日 (土)

CZ5 アフターサービス業 5 ソニーサイビス㈱嘱託

     昭和四十八年三月末で米国 FTL航空の社員、ソニー倉庫㈱航空チーム嘱託という定期収入源が消滅、翌日の四月一日はソニーの電卓部門から撤退が発表された。世の中は第一次オイルショックが訪れようとする 不気味な時代となった。私は他のメーカーの販売店になるよりもソニーマイクロ・コンピユータのプログラム作成指定店となったほうが、不況時代を乗り切ることが可能と判断した。
      電卓修理部門は港区品川の㈱ソニーサービス㈱で、私は一週間に一回、嘱託として出勤していた。電卓製造打ち切りが発表されて三年後の五十一年五月十六日に、ソニー商品のSOBAXのプログラムについて私が引き受けるという正式な契約を行った。この契約の有効期限は六ヶ月間であるが、双方の何れか、契約終了の意思表示を文書で行わない限り六ヶ月の延長、以後も同様なことになっていた。
       マイクロ・コンピユータの耐用年数を五年とすると四十六年四月に新製品が発表、満五年経過した時点が五十一年四月であった。もし私が他のマイクロ・コンピユータの販売店となれば、これは新たなビジネスチャンスが訪れるわけである。

DZ1 航空機パレット積付研究 1 マイクロ・コンピユータのデモ対象ソフト

    四十六年七月一日、ソニーのマイクロ・コンピユータの特約店となり、三井物産㈱本店でデモすることになった。私は航空機に搭載するジュラルミン製のパレット(88吋Ⅹ125吋)で高さ64吋まで何個搭載が可能か?一段、二段と自動計算を行い、有効最大個数の計算のデモを行った。三井物産㈱本店の各部から社員約20名集めてもらってのデモであった。人によっては、自分の仕事と無関係と思われる人があるが、総合商社の業務には一段、二段という積付を一年、二年と置き換えると長期に亘る金利計算に応用できると判断する人も多い。
   私はFTL航空でセースルマンがチャートにより特定サイズのカートンの航空機パレットの机上作業や空港での現物積付作業を観察していた。またソニ-倉庫㈱の嘱託であり、カートンの形状などは観察していた。このため、実際はその業務を担当したことはないが、ポイントとなるところを知っていた。
       私は航空機材88吋X125吋パレット積付プログラムを開発、日本航空㈱東京支店貨物部貨物予約係へ機械とソフトとをレンタル方式で貸出し、これにより日本航空㈱本社に機械とソフトで取引ができた。
   ソニーのマイクロ・コンピユータの在庫がなくなり、特約店として売る商品が消滅した。このため発想を変え、コンピユータは一覧性に欠げているので、コンピユータで作成した資料を販売する「パレット積付早見表」なるものを開発することにした。
   国際空港が羽田から成田に移る過程で、航空貨物でのシステム開発は次第に困難になった。ここで研究した仕事をまとめる意味で、「航空機パレット積付早見表」と云う1冊約450頁の数表を作成し、これを航空会社、貨物代理店および荷主に販売することにした。

DZ2 航空機パレット積付研究 2 パレット積付早見表の編集

       福岡の海外旅行手続専門の仕事を約八年半従事したが、東京貨物に転勤、約半年後に、管理部門の貨物係長となった。この係長の仕事を五年従事したが、私の下には部下はゼロであった。このため自分で色々な仕事を処理するという企業内学習ができた。
     航空機材パレット積付早見表の開発を企画した。自分でプログラムを組み、どのような本を作成するか、開発する経費はいくらか、宣伝広報の方法は、誰が販売にでかけるか、販売代金の回収方法は、といういろいろな問題が発生する。早見表は日本語、英語か、度量法は日本か米国か、早見表の価格は、また頁数である。
   商品を販売するとき、業界としては有効な情報と思われるものは、業界紙として無料で内容の紹介をしてくれた。
   開発したシステムについて業界紙の記者に電話をかけると、送れという返事を受け、原稿を送付、業界紙で掲載されると記事の一部を送付される。
   航空機材パレット積付早見表の開発
   このような無料広報作戦を行い、頃合をみて、航空会社や代理店にゆき、顔見知りの人がいたら、早見表を販売、代金の振込みををお願いした。航空貨物専門誌に「コンピユータによる航空と海上との貨物輸送方法比較」の連載をしていたので、早見表の中身は信用がおけるものという評価があった。

2009年6月28日 (日)

DZ3 航空機パレット積付研究 3 宣伝広報と飛び込みセールス

    四十八年七月から、ソニーのマイクロ・コンピユータを二台使用して、航空機材88X125吋パレット積付計算を行った。カートンサイズで、縦が8~36吋、横が8~48吋、高が8~24吋、これらを吋間隔で組併せると、8,415種類となり、殆どのカートンは、この範囲に入るものと想定した。業界紙で日本語版と英語版に早見表の記事を掲載してもらい、それから私は各航空会社、貨物業者および荷主などへ、飛び込み訪問販売を行った。
     早見表を購入された会社は四十四社、合計百十五冊であった。航空会社と貨物代理店との数は百三社であったので、四割近い会社が購入された。早見表を購入された航空会社は次の通りである。
  エアフランス、エアインド、英国航空、カナダ太平洋、カーゴルクス、カンタス、キャセパシフィック、フライング・タイガー、ナシヨナル航空、ノースウエスト、マレーシア航空、パンアメリカン、シーボード航空、TMA、ワールド航空、エアアソシエイト台湾ノースウエスト総代理店、日本航空および全日空の十八社。
 
航空代理店および荷主では次の通りである。
   日本
通運、近鉄、交通公社、商船、三井、山下、新日本、川崎、大和、阪神、南海、名鉄、東急、ダイヤモンド、日本エメリー、東洋シャルマン、丸善、ニュージャパン、ノボ東京エアサービス、マグレガースワイヤー、UAC、TAC、JAC、AGS、TACT伊藤忠商事、ソニー倉庫、キャノン等。キャノン㈱への訪問販売で早見表販売は終了した。

      

 

 

DZ4 航空機パレット積付研究 4 キャノン輸出部門に早見表販売

    四十九年秋、パレット積付早見表の販売で、港区田町のキャノン株式会社輸出課を訪問した。担当者は一冊、早見表を購入された。このとき担当者から私はコンピユータが専門であるのでキャノンのパーソナル・コンピユータを売らないかと薦められ、キャノン販売㈱のパーソナル・コンピユータ販売部門へ紹介された。
      
キャノンには二、三度訪問したがメーカーと関係を継続するには、まず機械を購入することであると考え、キャノンのパーソナル・コンピユータSX-100(価格約七十万円)を一台、購入し、この機種のプログラム作成方法を研究した。
   
私は当時、品川のソニーサービス㈱の嘱託であり、ソニープログラム作成指定店扱いあるため、キャノンの機械を販売しやすい立場にあった。キャノンとしてはソニーのマイクロ・コンピユータの後続機種として私がキャノン機種を購入したことを評価された。
      
五十年七月一日付でキャノン販売㈱のパーソナル・コンピユータの販売店契約を行った。パレット積付早見表の販売は百十五冊で終了、回収金は百十万円で交通費を差引と荒利益ゼロである。 早見表は三百冊を印刷、約百二十冊販売し、在庫は約百八十冊であったが、早見表の販売によりキャノン㈱のパーソナル・コンピユータの販売契約ができ、これに専念するため在庫百八十冊は数冊を残して、すべて破棄処分とした。
      
販売店はメーカーの第一次販売店になったほうが有利で、ソニーの場合も第一次販売店であった。零細業者はメーカーの第一次販売店になるのは困難で、第一次販売店の傘下の販売店になるのが通常であった。キャノンの場合は供託金も求められない第一次販売店となったので優遇された販売店であった。
   
  航空貨物分野の研究で独立したが、このパレット積付早見表の開発を最後に航空貨物分野の研究から撤退し、一般の事務商業分野へ進出することとなった。航空貨物システム販売は羽田が國際空港であった場合は距離的にも近かったが成田國際空港ができ、セールスを行うには距離が遠く、また成田空港開設反対派の活動で空港施設を訪問するには訪問先からのアポイントを取付ける必要があり、航空貨物業務から撤退せざるを得なくなった。
      
三十六年七月に福岡から東京貨物課へ転勤、五十年六月までの十四年間、航空貨物業務にタッチしてきたが、ここでパソコンを一般企業へ販売する業者となった。ソニーとキャノンのパソコンの販売が航空貨物のソフトを媒介してきたという特徴があった。ソニーサービス㈱の嘱託とキャノン販売㈱の販売店を兼業することとなった。
      昭和
五十年七月から平成三年ごろまで約十六年にわたりキャノン販売㈱のパソコン販売とプログラム作成作業に従事した。航空機パレット積付早見表というのが、パソコン販売店主という仕事を私に与えたことになった。 

    

DZ5 航空機パレット積付研究 5 対象業務の選定

     一つの大きな箱に小さな箱が何個入るか?例えば内法で縦が3メートル、横が2メートル、高さが1メートルの箱に、小箱で縦が30センチ、横が20センチ、高さが10センチとする。天地無用とし隙間なく積みつけた場合は100個、搭載できる。1段目に10個、10段積み上である。
        旅客および貨物専用機には米国製が多いが、パレット積付早見表は、長さの単位をセンチ、メートルか、あるいはインチかフイートにするか、容積を立方メートル、立方センチか、あるいは立方フイートにするか?重量を㌔グラムか、それともポンドにするか、これらを検討すると、米国の度量法を基準にしていたほうが早見表には向くと判断した。
       カートンのサイズを吋間隔で組み合わせると8415種類の計算が、センチ間隔では16.4倍の137,897種類となるため分析が細か過ぎる。
    貨物を航空機に搭載するジュラルミン製のパレットで使用頻度が高いものとして、88吋X125吋パレットがある。積付可能な高さは64吋である。これに特定のサイズのカートンを積付場合、各段ごとに何個搭載できるか、そして並べ方は、どうであるか?このような発想でパレット早見表を作成した。
    1冊1万円で販売すると頁数はどの程度が妥当か?薄ずぎる頁は海賊版が発生、細かすぎると、組み合わせ数が多くなり、早見表が膨大になる。吋きざみて早見表を作成したものが450頁とすると、センチ刻みでは、16.4倍になる。
   単位換算の知識がいる。1吋は2.54糎、1フイートは12吋、1キログラムは2,204ポンドという知識である。日本では1キロ当たり6000立方センチ
の重量と容積の関係が、米国の航空会社では DENSITY〔比重〕と呼ばれ、10.4ボンドが重量と容積の関係である。どうしてそうなる?
ということも早見表作成には知っておく必要がある。航空貨物の担当者に早見表を売るには文章は日本語か、それとも英語か、これも早見表開発に判断材料であった。
      第一次オイルショックは四十九年秋に発生、私が早見表を販売したのは丁度、第一次オイルショック時であった。早見表作成がチャンスとなって、キャノンのパソコンの販売店となり、私の四十九歳から六十四歳までパソコン販売店の店長として、自営業を継続できることとなった。ソニーでの取引関係が継続できたことは、大変プラスであった。
   
    

   

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