2009年7月25日 (土)

QZ5 古希よりのリセット 5 ホームページとブログ

 平成十二年二月ごろ杉並区でIT&パソコン講習のボランチィアが募集され、これに応募した。四十六年七月より現在のパソコンの元祖であるマイクロコンピユータのソフト開発と機械の販売に従事し、六十三年四月より国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習講師となった。
 
Window95が発表されていない時代ではソフトや機械を販売する取引先に対して、漢字などの入力方法を教える必要はないが、開発したソフトの説明書には、メモ程度の知識でのワープロ文章であれば充分であった。
   専門学校のOA授業の講師を九年間従事したが、学生に日本語の漢字変換などを教えたことはなかった。これはワープロの講師が別に任命されており、私が開発したプログラムを学生が機械操作することにより、業務の流れを理解させることが実務教育であった。
  専門学校講師を退職後、Windows95によるパソコンの学習の必要性を感じ、パソコン講習ボランチア助手となれば、パソコンの勉強は可能と考えた。 
  平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習会では、一クラスに二十名の受講者に対して講師一名、ボランチィア助手四名の構成であった。操作が不慣れの受講者をサポートする仕事であった。コースとしては一日三時間のコースで四回であった。初年度は五十時間程度、講習会助手として従事した。
  十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習ボランチィアは初級コースであり、十三年四月より杉並区内の図書館でパソコン講習補講講座に切り替わった。
  これは初級コースで理解できなかった人に対する補講で、私は属していた高井戸図書館では十台のパソコンで、ボランチィアが三名で毎週木曜日の午前九時から十二時、午後一時より四時を担当、特別な授業はなく機械操作や質問事項があれば、これに対応する。初級コースが前提であるため、表計算やデジカメなどの質問はあまり発生しなかった。
  十六年四月より杉並区高井戸地域センターで毎月、第二木曜日と第四日曜日に午前十時より午後五時までの間、パソコン相談室が開設され、相談室のボランチアの仕事を十七年末まで従事し、それ以降はホームページに次の名称で自分史の編集を行うことにした

[太平洋戦争と戦後の情報処理実務体験記

現在の時点でアクセス数は10,620件で、ホームページでの使用容量は238メガバイトであった。また十九年八月より次の名称でブログを始めた。「新規業務へのチャレンジ」 現在の時点で投稿件数はちょうど1,000件になった。二十年八月より、次の名称でブログに登録した。「新規業務の研究」現在の時点での投稿件数は120件である。これは月平均46.7件の投稿の割合であり、次に何を書くか?という問題意識を持っていることは、高齢者の健康にはプラスと思われる。

2009年7月24日 (金)

QZ4 古希よりのリセット 4 還暦からの自分史編集企画

  六十二年二月にソアレックス株式会社を設立し、事務所にはキャノンAS300二型とIBMパソコン5540機種が設置されていたが、会社設立前から自宅(坂本システ研究)にはキャノンAS300とハードディスクを設置しており、六十年五月より㈱とみんリース会社よりリース物件として借受け月額五万円程度支払っていたが、プログラム作成業務は会社の機械を使用する頻度が多く、自宅での機械の使用頻度は減少した。
  六十三年四月より國際観光専門学校の講師となり、授業の資料を作成するにはワープロを使用するため、パソコンを使用してワープロの練習を行う必要性を感じた。専門学校講師では還暦を過ぎた人が多いが、ワープロで教材を自分で作成して配布する人は、割合少ないのが現状であった。リース会社より借受けた機械は陳腐化しているが、リース期間中にこの機械を返却することはかなりの額の解約料を支払う必要があり、このため継続してこの機械を使用することにした。機械の有効的使用としてパソコンをワープロとして利用することにした。四月末の連休より自分史を書くことにした。休日あるいは会社から帰ってきて、文章の作成にとりかかった。余暇の利用方法としての自分史の編集は作文、手を動かす訓練、過去の記憶を蘇えさせるという効果はあると考えられる。
  
自分史の作成を計画したとき、これには根気力が必要で、これは今後の仕事にも重要なことであるので、この点からも自分史をワープロで作成することは意義があった。
  
自分史を書くためにワープロの機械を導入するのでなくて、月額五万円のリース料の支払を有効にするための対策であった。最初に四百字詰めの原稿用紙に鉛筆で二百枚程度書き、三十八字X三十八行を一頁として一話ずつにわけ約五十頁の文章を作成した。ワープロ文章の作成時間を入れると約千時間かけたことになる。六十四年一月六日、昭和天皇が崩御された。この日から毎日の如く、テレビでは昭和時代というものを特別企画として放映されていた。私は昭和になって四ヶ月目に誕生したため、昭和というのは大変意味をもっており、自分史のワープロ作業とオーバーラップさせながら、テレビや新聞記事をみていた。一月八日、年号は平成となった。二月末には一応、自分史の編集は終了した。これを私の昭和時代とした。 キャノン機種で作成した文章はハードディスクに格納されていたが、平成四年四月にリース契約が終了し、七年間のリースの総支払額は二百六十五万二千円となった。この機械のハードディスクの容量は四十メガバイトであり、現在のパソコンの千分の一程度であった。価格は十分の一に下落しているが、活力ある還暦の時点での自分史作成は私にはプラスであった。
  この自分史の編集を企画して二十年が経過した。次の章で私の自分史を総括することにしたい。

   

QZ3 古希よりのリセット 3 同期生会出席記録

   小学校、中学、高校、専門学校、大学と進学している人においては、それぞれの学校のクラスメートが発生し、同窓会の案内を受けることが多い。私は同窓会の出席では小学校が二回、高等小学校がゼロ、中学および高校に相当する航空機乗員養成所が三十五回、専門学校と大学が五回程度であり、航空機乗員養成所の同期生会に出席した回数がきわめて多いのが特徴であった。
  航空機乗員養成所は仙台、新潟、印旛、米子および熊本の五ヵ所に設置されており、各々六十名が入所し、本科三期生は参百名であった。入所して三年間は普通学科で、四年生より操縦科は米子、整備科は新潟に転属することになり、終戦の時点では入所時の九割に相当する約二百八十名が同期生であった。
  戦後、開催された同期生会は最初に入所した養成所ごとに開催されたが、戦後、四十六年経過した平成三年に五ヵ所の養成所の同期生の合同の全国三期同期会が発足した。米子本科三期生会は毎年一回開催され、これに出席していたが、還暦より新たに全国組織での同期生会が毎年一回開催されるようになった。米子出身の同期生で東京二十三区に
居住しているものは私だけであり、全国組織における連絡会議には出席せざるを得なかった。従来、継続していた同期生会に還暦より新たに全国組織の同期生会が発足した。還暦前の同期生会は発足して三十二年間で十回、これに対して還暦から十六年間で米子三期会が十四回、全国大会が十一回で、合計二十五回であった。これは還暦前と還暦後とは、同期生会の開催が五倍に増加したことになった。
  東京在住の人が、東京の学校を卒業して、同期生会に出席するのと異なり、三期生の卒業生は約二百八十名で同期生の居住地が北海道から鹿児島まで分散しており、戦後六十年経過した現在、消息が判明している同期生は約百五十名である。
 
同期生会の開催は各地の同期生が世話人となって、持ち回りで行っていたため、私が出席した同期生会の開催地は米子皆生、玉造、三朝、岡山、倉敷、坂出、湯田、別府、福岡、京都、東京、新潟、仙台札幌であり、旅行友の会的な色彩の強い同期生会であった。記念写真には開催年月日と同期生会開催番号が表示されているので、自分史の作成においては有効な資料となった。
  米子の同期生会が発足したのは、戦後十年経過した昭和三十年九月であった。同期生会には多数の教官、職員も出席されており、戦時中知らなかった情報も教官あるいは同期会幹事より提供された資料で判明した。
養成所入所当時の募集広告、入所試験での国語、数学、理科の諸問題、応募人数と合格者数、入所願書に添付した十三歳の自分の写真も保存しており、自分史の出発点となる少年時代というのが文章に綴りやすいというのが私の自分史の特徴である。
   
米子三期会には総務幹事として松本好信君、全国大会には事務局担当として高野弘行君がおり、これらの同期生から送られる資料をスキャナーでパソコンに取り込めば、自分史での少年時代とその後の同期生という物語が書ける。
   全国三期生会は平成十三年六月
、第十一回を北海道定山渓温泉賞月グランドホテルで開催、これで解散となった。また米子三期会も平成十七年九月、北九州脇田温泉ホテル菊水閣での第二十四回同期会で解散となった。このとき有終の美を飾るため、「米航養本科三期生情報」なるものを編集、会員三十名に発送された。私はこの編集作業に協力した。

QZ2 古希よりのリセット 2 会社の事務所移転の記録

  平成九年三月、古希を迎えた。学校側のパソコンにおける授業方針の変更があり、講師として九年間継続した時点で講師契約の終了となった。
  
ホテルコンピユータソフト開発・販売をビジネスとして、ソアレックス会社を設立しており、一週間に一日だけは講師派遣契約により学校へ出勤しているが、その他の日は会社に出勤していた。
  ホテルに機械を販売し、ソフトを開発、納入すると約五年間はアフターサービスを必要とし、高齢化して健康を害して保守サービスができないと顧客に迷惑がかかるため、六十五歳以降はホテルヘのセールスを行わなかった。
   専門学校のOA授業と共同出資会社から依頼されホテル建設事業計画のソフト開発と計算業務を行い、専門学校の講師の仕事が終了すると、建設事業計画計算業務が主な仕事となった。
  六十二年二月にソアレックス株式会社を設立した時、事務所は港区赤坂三丁目十三番地の東相ビル七階で、共同出資社㈱エクスブレーイン(以後、EX社と仮称)の事務所の一角を借りていた。
  平成五年十月にEX社は新宿区下落合三丁目四番十一号、三木宅の構内に移転し、ソアレックス㈱も三木宅に移転した。十一年十二月に会社の事務所を杉並区高井戸西一丁目の自宅に移転し、十五年に廃業した。
  昭和四十五年以降、商号「坂本システム研究所」として青色申告事業主になっており、会社よりの給料は、「坂本システム研究所」の収入として計上しており、「青色申告事業主」として三十八年間、SOHO業者として申告を行っている。

QZ1 古希よりのリセット 1 専門学校非常勤講師終了

   平成九年二月、授業の時間割の改定が発表された。従来、月曜日から土曜日までの授業は新学期より土曜日を休日とし、また一日四学校時間授業を三時間に短縮すると発表された。ホテル学科の講師は仕事の都合で土曜日の授業が多かったが、土曜日の授業が廃止されたので、ホテル学科の講師は二名退職した。
  
第二外語を廃止、英語の検定試験も廃止、英語の日本人講師の削減が発表され、観光学科のAXESS担当の講師も退職することとなった。学校側よりこれらの状況を説明され、私にも新年度より講師の契約を行わないことが通知された。学校としては業務用のプログラムを必要としないコンピユータ授業を採用することになり、WINDOWS95の使用方法を重点とした授業となった。この傾向は以前より察知していたが、ソフト開発を重点とした私には講師としての方向転換は困難であった。
      
ホテル学科及び航空輸送学科の卒業生の就職率は良好で、これは他の講師や学校側の活動によるものであったが、高校を卒業して専門学校へ入学する学生数が急激に減少したため学校の経営を圧迫する原因となった。
      
 国際観光専門学校の卒業式は毎年有楽町のマリオンで挙行されており、今回は九年三月十三日に挙行された。卒業式に出席した卒業生の数は数年前の約半分となり、新しく入学する学生数が大幅に減少すると言われていた。
   私はこの卒業式の四日後の三月十七日に古希(七十歳)を迎えることになるが、この学校には観光学科、ホテル学科、航空輸送学科があり、今までの経験が活かされた専門学校であった。還暦から古希まで、専門学校OA授業を担当することとなり、非常に有意義な職場であった。

PZ5 コンピユータとユーザー 5 キャノンパソコン販売店主契約

  昭和44年4月に㈱阪急交通社を依願退職する時に、全く考えなかった仕事はパソコンの販売店主という仕事であった。海上で輸送される貨物を航空に切り替えさせるための販売方法としてのシステム開発を当初のビジネスにしたが、電算機研究所の顧問、航空会社の専門職社員、ソニー倉庫㈱の嘱託という複数業務に従事、給料という定期収入を得ていたが、退職して満4年経過した48年3月末で、すべての定期収入は消滅した。またソニーマイクロ・コンピユータの特約店という業務も、48年4月1日、新聞紙上で、マイクロ・コンピユータの製造打ち切りが発表された。
 第一次石油ショックが訪れる一年前で、このころシンクタンクと呼ばれる頭脳産業の倒産が多くなった。私はソニーのマイクロ・コンピユータのプログラムのアフターサービスを考え、これを次期マイクロ・コンピユータの販売に結付けようと考えた。ソニーのマイクロ・コンピユータプログラム作成指定店となったため、キャノン販売㈱のパソコン販売店となることが出来た。自分で顧客を見つけで機械を販売しなければならないが、ソニーマイクロ・コンピユータのアフターサービスを行っているため、このルートからも顧客開拓が可能と考えた。プログラムを開発しながらパソコンを販売している業者は少ないため、キャノン販売㈱や販売店からも注文はあると判断した。
  脱サラの業務としてパソコンの販売とソフト開発で、昭和50年7月より平成2年まで約15年間、キャノンパソコン販売店主として、キャノンより機械の仕入れを行うことができた。これはリストラがない職業に就いたことになる。 

  

PZ4 コンピユータとユーザー 4 ソニーの倉庫とマイコン部門 

 阪急交通社を依願退職する43年度において、国際航空貨物需要予測委員会が設置された。この委員会は航空輸送経済専門家で構成され、運輸省航空局監督課の推薦で私は委員会委員となった。この委員会委員の中にソニー㈱伊藤課長が居られ、私が阪急退職後、ソニー倉庫㈱航空チームの嘱託に迎えられた。
  ソニーで新しくマイクロ・コンピユータ SOBAXICC-2700機種を発売することとなり、私はソニービジネスマシン㈱の特約店となった。国際航空貨物需要予測委員会のメンバーであった日本通運㈱、日本航空㈱、三井物産㈱等に機械の販売とソフトウエアの開発、販売を行った。
 ソニーのマイクロ・コンピユータの製造打ち切り後は、ソニーSOBAXプログラム作成指定店およびソニーサービス㈱の嘱託となり、アフターサービスの仕事を兼職することとなった。航空貨物の研究というのが、マイクロ・コンピユータの販売に結びついた。

PZ3 コンピユータとユーザー 3 日本IBMと東芝パソコン機種互換性

    昭和50年7月よりキャノン販売㈱のパソコン販売店となり、63年4月まで約13年間、キャノンのパーソナルコンピユータの販売と、ソフト開発・販売業務に従事した。
    62年2月にホテル・レストランをマーケットにした会社を設立した。当時は各パソコンメイカー同志での規格統一の機運でなかったため、キャノン機種以外に日本IBM機種にも移植作業を行うことにした。
   63年4月より、国際観光専門学校東京校に東芝デスクトップコンピユータPASOPIA1700機種が、コンピユータ実習用として20台設置されることになり、日本IBM機種で開発していたフロント会計システムが、東芝機種で操作が出来ることが判明した。パソコン機種間の互換性では、「キャノン」と「日本IBM」とでは駄目、「キャノン」と「東芝」とでは駄目であり、日本IBM機種で、キャノンで開発していたホテルフロント会計システムの移行が出来たのは幸いであった。
   国際観光専門学校にホテル関係ソフトウエアを納入し、授業を行うには、私自身が東芝機種を保有していないと、連続的に学校に教材の提案と講師との授業の継続が出来ない。これは東芝機種と互換性がある日本IBMの機種の保有によって、還暦から古希までの約九年間の非常勤講師とソフト開発納入の仕事が保証されたこととなった。
   日本IBMへのソフトの移殖は昭和62年からであるが、各メーカー間で、ハードウエアの規格が統一されていないのは、きわめて不便であった。これから4年後の平成3年に、日本IBMを中心に日本のパソコンメーカーが集まり、日本でのパソコン関連製品の標準化を策定する団体としてOADGという組織が結成された。
OADGはOpen Archircture Development Groupの」略である。NECとアップルとは、この組織には入会しなかった。ソフトウエア業者はこの組織の準会員となった。 プロバイダーとしてはニフテイがこの組織に入会していた。
   学校には63年4月に東芝デスクトップコンピユータPASOPIA 1600が20台、平成5年4月に東芝ノートパソコン DYNA  BOOKが60台、平成8年9月に東芝デスクトップコンピユータでOSはWindows95で30台程度がコンピユータ教室に設置された。私は講師1名で約30名の学生に実習を指導していた。東芝パソコンが私に還暦後のパソコン講師という職業を与えていたようである。

PZ2 コンピユータとユーザー 2 電子交換機接続経験の展開

 平成三年に日航関連会社㈱インターナシヨナルフーヅの専務取締役本間昭治氏より、アリマックスホテル渋谷の設立準備室長となった関氏を紹介されたことがあった。ホテルのコンピユータシステムは、建設会社に依頼しているケースが多い。
 
二十室程度のホテルでレストランやバーにPOSシステムを導入すると、コンピュータシステムが割高となる。小規模ホテルではこれらのシステムの使用頻度が少ない、そして従業員の移動が激しい職場でのコンピユータ教育はあまり歓迎されない。ホテル側は経済性を考えてのコンピユータの導入を検討され、四年八月よりアリマックスホテル渋谷のコンピユータシステムの開発を私が担当するようになった。ホテルは渋谷のNHKの近所に設立される二十三室のホテルであったが、システムの開発のコンサルチングとソフト開発の契約を行った。開発の対象はフロント会計、顧客管理およびホテル部門別会計経理システムであった。

  五年十月にホテルはオープンした。新規にオープンする二、三十室のホテルではフロント会計での経験者は殆どいない。システムのマニュアルには国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習で私が開発した教科書を使用した。 

システムは順調に作動したので保守のためホテルから呼び出されることは非常に稀であった。ホテルへは自宅からバスで十五分、歩いて四十分の距離にあり、沖縄、札幌と比較してきわめて近距離にあるホテルであった。
 ホテルのフロント会計ソフトは、BASIC言語で開発しているため、ホテルの宿泊ルームよりの電話料金の計算では、接続する電子交換機との信号のやりとりが、BASIC言語に対応していることが前提となる。最初に成田ではキャノン機種と富士通 FETEX2700機種、この接続が成功したため、札幌では日本IBM機種と富士通FETEX2700機種、また渋谷では日本IBM機種とFETEX2700機種との接続であった。また電子交換機の納入業者は成田と渋谷では同じ特約店を推薦した。
 

2009年7月23日 (木)

PZ1 コンピユータとユーザー 1 日本IBM機種と富士通電子交換機

昭和42年4月に㈱阪急交通社に富士通小型コンピユータFACOM 230-10が導入された。富士通ユーザーの論文集1集には「航空と海上輸送を決定する要因と比重について」、論文集2集には「航空と海上輸送との総流通経費分析」が掲載され、これがSOHO業者として独立する上で、大変役にたった。
   
平成元年4月からキャノンのパーソナルコンピユータでホテルの電話課金の計算で電子交換機の接続の問題が発生し、ホテル側に富士通電子交換機FETEX-2700機種を提案した。ここで富士通交換機の接続方法を学んだ。
 
平成二年四月、日本IBM㈱本社の地域プロジェクト開発部次長(北海道担当)の田中宏武氏より連絡をうけ、札幌市国際部が設立する札幌天神山国際ハウスのフロント会計ステムの開発を行うこととなった。このでも電子交換機との接続問題が発生した。客室規模としては十三室であるが海外から学者、技術者が札幌を訪問したときの長期滞在に向く家族単位の宿泊施設で天神山という丘の上に設置され、日本庭園や教育設備があり、他のホテルと異なるのは

札幌市の条例によりホテルの消費税が免除され、売上はすべて札幌市の公金として計上することになっていた。二年四月二十三日より一泊二日の予定で空路、札幌に出張した。札幌市役所内会議室で国際部企画課職員、国際ハウス職員、IBMの田中次長、IBMの特約店㈱ホシ・伊藤の社員が出席した。この会議で一応、システム開発の方法が決定し、見積書をIBMの特約店に提出するが、会議出席者のホテルシステムに対する理解度により出張回数が決定するがこの会議に出席していないのは肝心の電話機器の納入業者であった。このプロジェクトをIBMと富士通とが入札でIBM機種が納入された場合、コンピユータと電子交換機との接続の話合ではIBMと富士通との話合は無理と考えた。この接続では富士通機種が経験的に最適と感じていた。今後の出張には富士通の電話機納入業者との折衝が重要となった。最初からシステムの完成まで何回、出張が必要か?羽田・札幌間の往復航空運賃は四万三千円、自宅から羽田までの往復交通費、千歳空港から札幌天神山までの往復交通費、旅行傷害保険料、夏場のオンシーズンにおけるホテル代などの不確定要素を考慮してプログラム開発料金の見積を七回程度の出張で百九十六万円とした。この予想が外れると、大変な赤字となるため、難しい出張計画であった。

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