2007年8月14日 (火)

01 パイロット志望の中学生

私には兄が二人,姉が二人、弟が二人,妹が一人の八人兄弟の五番目であった。福岡市に居住していたが、小学校を卒業し、中学へ進学する児童は、クラスでは二割程度で、全国的にはほぼ一割というのが太平洋戦争勃発前の就学状況であった。就業年限は小学校が六年、高等小学校が二年で昭和十六年三月に高等小学校を卒業することとなるが年齢は十四歳である。卒業生の就職口としては店員見習、会社の給仕、工場の徒弟工員があった。太平洋戦争が勃発したのは、この年の十二月八日であるが、航空機乗員の確保というのが重要な国策として、十六年四月より航空局航空機乗員養成所本科生の教育が実施されることになった。
 養成期間は五年間である。受験資格は大正十五年四月二日より昭和四年四月一日までの出生のものであった。最初の募集であったので、人々の注目を引かなかったと思われるが、授業料、食費、衣服費など一切無料、月々、若干の手当が支給される。卒業には二等航空機操縦士、航空士の免許、軍隊に入隊すれば六ヶ月で下士官に任官する。ここで注目したのは五年制中等学校卒業資格が付与される点であった。 最近になって判明したのは、昭和十六年四月に入所した五年養成の本科三期生は、全国で受験したのは3,200名で採用されたのは300名であった。
 
熊本、米子、印旛、新潟および仙台の五ヵ所の養成所に60名、それぞれ入所した。競争率は十倍であった。受験したのは十六年四月に卒業する児童、高等科1年終了および2年終了する生徒であった。同時に募集が行われていたのは養成所本科三学年より編入の第一期生で大正十三年四月二日より昭和二年四月一日までに出生した本科一期生徒募集であった。
   
私は一期生と三期生との二つに受験資格があったが、昭和十六年三月の時点では一期生は十六歳、十五歳、十四歳で私は十四歳で最も若い年齢である。三期生は十四歳、十三歳、十二歳で、私は年齢が高い部類にはいる。私の出生は三月十七日で二週間後であれば一期生の受験資格はない。福岡男子高等小学校で私と友人の二人が受験した。私は養成所一学年入学の三期生を受験、友人は三学年入学の一期生を受験した。
 早く社会にでるという考えでは、同じ資格をとるのに五年制の三期生よりも三学年編入の一期生の受験が好ましく、これに反して、早く社会にでる必要はないと考えると、合格率が高い三期生を受験するのが賢明と判断した。昭和十六年四月に入所した一期生は三年間の学習を終えて卒業するのが十九年三月である。三期生は五年間の学習を終えて卒業するのが二十一年三月である。この期間において太平洋戦争が勃発し、終戦となったわけである。
 私は高等小学校で商業科で簿記や算盤などをならったが、航空機乗員養成所では一学年より三学年までは、修身、国語、漢文、書道、数学(代数、幾何}、物理、化学、電気、製図、音楽、通信、地理、歴史、気象、剣道、教練、体育があり、基礎技術教育としては木工、板金、塗装、研磨体育、(スキーを含む)、三学年より滑空訓練があった。
 三学年が終了する時点で操縦士としての適性検査が行われた。米子航空機乗員養成所三期生として入所した六十名のうち、結核その他で三名退学し、五十七名が適性検査を受け、三十七名が操縦学科、二十名が航空機整備学科に振り分けられた。十九年四月に四学年となりが、操縦学科、整備学科はそれぞれ専門教育を受けていたが、二十年三月、米軍の沖縄上陸作成が展開され、航空機の燃料が逼迫して操縦訓練は中止となった。三期生全員が整備にまわされるようになった。五年間の授業は四年半に繰り上げられることになったため、卒業は二十年九月となり、夜間授業が実施されていた。
 本科三期生は当初、三百名が入所、四年半の在籍で卒業したのは二百八十名程度である。十九年五月に陸軍予備生徒として兵籍に編入されたが、航空機が不足、燃料が不足しているため、航空機整備要員として学習することになった。多くの少年の憧れであったパイロットという職業がこれで終わったが、同期生の中で殉職や戦死者が皆無であったことは、きわめて幸運な出来事であろう。終戦の年の五月末より、新潟航空機乗員整備学科五年生の整備実習として、三重県明野陸軍航空隊基地で、基地に事故機として散在する液零戦闘機[飛燕]の改装整備に従事し、ここで終戦を迎えたが、敵機来襲で攻撃できる戦闘機がない終戦時、些か、お役にたったのではないかと思われる。敗戦により民間航空は禁止となり、航空機乗員養成所は廃校となった。
 航空機整備士という技術は利用できなくなったが、五年制中等学校卒業資格というもので実社会に出ることとなる。これは現在の高等学校の二年終了資格で就職するのと同じ条件である。戦争終了の時点ては上級学校への進学というのは考えるゆとりはなかった。 

次は 02 米軍の郵便検閲で就職と通学 

02 米軍の郵便検閲で就職と進学

 終戦は二十年八月十五日、三重県陸軍明野航空隊基地で迎えた。戦闘機[飛燕]の改装整備で、破損した航空機の部品を集めての作業であるが、基地は殆ど壊滅状態であった。新潟航空機乗員養成所からの出張であるため、一旦、新潟へ戻り、ここで解散、故郷、福岡に帰省することとなった。
  これからは、大変な就職難の時代を迎えることになるが、最初に航空機整備の経験があるため、自動車修理工場の仕事を二週間、それから米軍宿舎の雑役を一ヶ月行った。事務系の仕事を希望していたが、福岡市には米陸軍第三地区民間検閲分遣隊が進駐しており、ここで日本語の手紙を読める人を若干名募集していることを、知人から知らされていたので応募、十月十七日より米軍の日本人従業員として勤務するようになった。
  日本は連合国に無条件降伏をしており、連合国が占領政策を遂行するには、占領下の情報が必要である。このため、新聞、ラジオ、出版物、郵便、電話、電報、演劇など全分野にわたり、検閲が行われることになるが、日本人から日本人に送られる郵便物も検閲の対象になる。米軍 に就職するとき、日本語で書かれている手紙を読めることが就職の条件であった。どんな情報が必要かの手引きは、英語と日本語との対訳になっている。どんな情報が必要か、アルファベット順に並べると次のようなものである。
A Agricaluture(農業)、Agent(代理機関)、Allied Forces(連合軍)、  Armament & Euipment  (武装及び武器)、
Alien properties(適性国資産)
B Bkack Market(闇取引)、Broad casting (放送)
C Civil Afair(民間情報)、Censorship(検閲)、Cabinet(内閣)
D Diplomat Affairs(外交)、
Decentrarization of Economic Control(財閥解体)
  このよう区分で検閲マニュアルが作成され、Agricalture(農業)については、米の発育状況や米の値段の情報など必要なれレポート項目が明記されている。
  手紙を読みながら特定文面がどの内容に該当するか?人によって非常に差があるが、私は 監督の隣に座っていたので、監督が採用したレポート数の統計を取っていることを知っていた。
   検閲係5~6名に中で最もレポート数が多かったので、沖西氏(日系二世軍属)が行っていた監督の仕事をするように任命された。試験的に採用された検閲グループの成績が評価され、8ヶ月後には60名程度の検閲グループとなり、沖西氏が責任者になっていた。この沖西氏 は、米国へ帰国することになり、私が後任として60人の検閲グループの責任者としてDACというポストが与えられた。
 
米軍の給与体系は学歴や経験年数でなくJOB TITLEで決定されており、給与は60人の課のうちで私が最も高級となっていた。この監督(DAC)の仕事は、昭和二十一年六月より二十三年三月までの二十二ヶ月継続され、ミスは殆どなかった。検閲局があとどれだけ続くかは重大な関心事であるが、私は二十三年三月の時点てあと一年か二年で解散となると予想した。ここで考えたのは、解散までの期間で、最も有効な方法は何か?であった。翻訳部門には日系二世がDAC(監督)のポストで、日本人の翻訳係の和文英訳の指導を行っている。二十三年三月で私は二十一歳を迎えたが、部長にお願いして、監督のポストから翻訳係に同一局内の転職を申しっでた。試験を受け、初級翻訳官となり、西南学院専門学校英文科第二部(夜間)に通学するようにした。自己の都合による転職のため、給料は監督の半分となったが、これからの学歴社会に備えることにした。翌年十月十七日に検閲局は解散となった。これは専門学校は三年間であるが、卒業まであと一年半残っていた。

次は 03 朝鮮戦争と大学英文科進学 

03 朝鮮戦争と大学英文科進学

 航空機乗員養成所には昭和十六年四月より二十年九月まで在籍、二十年十月より二十四年十月まで、日本人従業員として米国陸軍第三地区民間検閲局に就職、十一月より翌年三月までは福岡公共職業安定所統計課に勤務した。西南学院専門学校英文科二部(夜間)二学年が終了した。学制改革により専門学校三学年は西南学院大学短期大学部二年に編入されたので、専門学校に入学、卒業は短期大学となる。私は英文科のクラス委員をしていたので英文科の西原一男氏、商科の田尻重彦氏とは友人関係にあった。
 昭和二十五年六月二十六日、朝鮮戦争が勃発した。福岡市は朝鮮半島に最も近い九州の大都市で国際空港としてはかって雁ノ巣飛行場があった。この雁の巣に米国空軍輸送部隊が駐留しており、多くの日本人従業員が採用されるようになった。基地従業員を採用する労務管理事務所の日本人マネジャークラスに、同級生の西原氏と田尻氏がいた。
 空軍憲兵隊の通訳の仕事があるから応募しないか?と西原氏からの誘いで、空軍憲兵隊の通訳を応募した。私は英会話は不慣れであるが、検閲局で和文英訳の仕事を行っていたため、翻訳は堪能という西原氏の推薦で、通訳の採用が決定した。
 憲兵隊は四班にわかれ、米軍兵士が10名、日本人警備員が10名、これに通訳1名の編成で八時間勤務である。事件がなければ、事務所では何もしなくともよく、居眠りは厳禁の職場である。
 私は検閲局で和文英訳の仕事をしていたため、翻訳の仕事があれば、積極的に引き受けることにした。事件が発生すると、福岡県警から刑事がきての取調べであるので、通訳としては事件にはあまりタッチをする必要はなかった。  翻訳の仕事では、交通事故の調書が多かった。
 憲兵隊の仕事では職場でのミーテイングは皆無であった。勤務が終了すれば直ちに帰宅可能である。勤務が終了し次ぎの勤務は二十四時間後である。週三十七時間、月間百六十時間労働であり、給料の支
払は日本政府である。
 二十六年三月に短期大学を卒業した。憲兵隊の通訳の仕事は日勤、夜勤、深夜勤の勤務がカレンダーどうりになっているため、昼間の学校に通学しようとすると、学校が休日の土日や祝日を日勤にし、また、午後四時から十二時までの勤務を翌日の八時までに、次の通訳と調整すると、この次の勤務は四十八時間後となる。昼間の授業で八割は出席可能と判断した。
 短期大学卒業の時点で、西南学院大学英文科三学年への編入試験を受け、夜間から昼間に通学の切替を行った。短期大学には、卒業論文提出は必須条件ではなかったが、レポートを提出すると八単位もらえた。私は英文で[ハムレットの性格について]を提出した。大学英文科の卒業論文には、再び[ハムレットの性格について]を、卒業六ヶ月前に仕上げていた。
 日本航空㈱が設立されたのは、昭和二十六年十月である。二十七年十月ごろ、専門学校時代の友人、田尻重彦氏から連絡を受け、私の卒業後の就職先として阪急電鉄㈱福岡営業所を推薦しているとのことであった。田尻氏は日本航空㈱が設立されて、米空軍雁ノ巣労務事務所を退職し、日本航空㈱に入社、福岡支店に勤務されていた。
 阪急電鉄㈱は日本航空の旅客代理店であり、阪急福岡営業所は日航福岡支店とは数十米の距離にあった。昭和二十八年三月に大学を卒業して、二十七年十一月から働ける学生を阪急が探していので、田尻氏は私を推薦してくれた。
 アルバイトとして働き、二十八年四月から正式な学卒者なら入社するという条件を付した。占領軍の通訳の給料の半分が阪急でのアルバイトの給料であった。どこかの会社に就職するということよりも、大学を卒業することが重要な目標であった。
 西南学院専門学校英文科第二部(夜間)には、昭和二十三年四月の時点では、約百名が入学したが三年間で卒業できたのは五十名程度である。大学三年に編入したのは五名程度であった。これは大学に進学できる職場環境をもっていることが重要で、健康と忍耐力の勝負である。英文科学生の就職先希望で最も多いのは、中学、高校の英語の先生である。教職課程をとつているが、私は数学と統計学とを一般教養としてとっていた。
 占領軍の日本人従業員という仕事は、占領軍が日本より撤退すると仕事がなくなるため、一般に結婚している人にとっては不安な職場である。不安な職場というのは、就職ではあまり競争は発生せず、また給与は一般の水準より高い。
  中等学校の卒業者が、学歴無用の占領軍で働いていたが、これからは学歴社会を迎えるということを知っており、専攻は何でもよい専門学校、大学卒業の資格が必要。このとき、仕事と専攻分野に関連性があったほうが卒業の確率が高い。米国軍隊で日本人従業員として働き、学部が英文科という組み合わせを考えた。戦後、日本の空を制圧しているのは、米国である。
   
終戦まで、航空機乗員養成所で四年半、航空関係の勉強をしてきた。就職先としては、航空界には興味があった。占領軍というのは航空関係の仕事と密接な関係があつた。
 戦後の就職の特徴として、仕事を紹介する職業紹介機関に縁故があったことである。福岡公共職業安定所では、米軍関係の仕事、紹介所員の縁故による安定所調査統計課、米軍労務管理事務所職員との縁故による米軍憲兵隊通訳と卒業後の就職先としでの阪急であった。
 福岡市というのは戦後、米軍民間検閲局があり、郵便検閲という仕事が発生した。朝鮮戦争においては、米空軍基地が福岡雁ノ巣と板付にあり、働く場所が発生した。昭和二十六年から日本航空の国内線が開設、東京、大阪、福岡というのは、幹線である。山口県、福岡県、熊本県および鹿児島県は、米国へ永住したものが多い。福岡には米国領事館があった。福岡市には西南学院大学、九州大学、福岡大学などがあり、通学しやすい都市である。阪急電鉄㈱は京阪神地区での私鉄であるが、海外および国内旅行取り扱いのため代理店部福岡営業所が開設されていた。住んでいる地区から勤務地や学校に通うという立地条件に恵まれていたことが特徴であった。阪急福岡は少人数の営業所であるが、日本航空の代理店であるため、仕事の関係では、阪急社内よりも日航社内に知り合いが多くなってきた。

次は 04 朝鮮戦争と海外旅行業務体験

04 朝鮮戦争と海外旅行業務体験

  昭和十六年三月、福岡市立福岡男子尋常高等小学校をtostu 業した。当時は中等学校へ進む児童は全国的には一割程度であり、一般庶民といわれる人々は、高等小学校というのが大半の学歴で、軍隊に入隊すると二等兵からスタートしていた。航空機乗員養成所五ヵ年卒業して軍隊に入隊すると、約六ヶ月の教育を受けて下士官(伍長)になる。少尉、中尉という将校になるには陸軍士官学校か海軍兵学校を卒業していないと難しい。戦後職業軍人で専門学校、大学に通学した人が多い。
  阪急電鉄㈱は昭和二十四年には国際航空輸送協会IATAの旅客と貨物代理店資格を取得していた。これから海外旅行が脚光を浴びるから進出するという現在の新規旅行業者
と異なり団塊の世代の人々が誕生するころ、海外への航空輸送を考えており、関西の電鉄、九州の西鉄などが、そのころから代理店業務を開始していた。
  私は昭和二十七年十一月からアルバイトとして阪急電鉄㈱代理店部福岡営業所に勤務するようになった。二十八年四月に正式な社員となった。営業所長は電鉄では係長クラスで吉田茂夫氏であった。元海軍主計大尉、東京帝国大学経済学部卒業である。次席は安藤昌彦氏で海軍兵学校出身、元海軍航空大尉、九州大学法学部卒業。嘱託として藤岡勇氏がおり、米籍日系二世で同志社大学卒業である。この三人の方々のなかに新入社員として私が勤務することになった。これは大変勉強になる職場環境にあった。嘱託として藤岡氏が米国へ帰国するので私が採用されたわけである。
  当時阪急福岡では米国へ帰還する軍人への航空券の販売を行っていた。朝鮮戦争で韓国に出兵していた軍人が帰国するとき、佐世保の海軍リロケーシヨンセンターに集結それから軍用船で北米サンフランシスコへ輸送されるが、米本土内の目的空港までの航空券(オープンチケット)を海外で購入すると米国での一割の通行税が免除される。佐世保の米海軍基地に米国籍の嘱託藤岡氏を派遣していたが、この仕事が終わり、類似の米軍相手の仕事として福岡板付米空軍基地輸送部隊内の体育施設の一部を借りて、所長の吉田氏と次席の安藤氏は板付の米空軍基地の輸送部隊の施設の一部を借りて阪急の案内所とすることに成功。米国本土内の航空券の販売を行った。
  当時、一ドルは三六○円であり、サンフランシスコからニュヨークまでツーリストクラスで九十九ドルであった。また米軍と日本航空との間に国内線の運賃後払い契約があり、福岡ー東京の片道運賃は一割の通行税を含んで一万二千六百円であった。
   上記のような米本土内航空券一件と国内線航空券一件の合計売上高は四万円で代理店手数料は二千円である。二十五日出勤すると、月に五万円の収入である。二十九年の私
の本俸は一万四千円であった。海外旅行の自由化は昭和三十九年四月からで、これよりも十年前のことで海外旅行者は現在の千分の一の数万人の時代であった。海外旅行者が少ない時代であるため米軍基地での仕事を狙っていた。一人の社員を米軍基地に派遣し、なんとか採算ベースにより仕事をすることは意味があった。当時、長距離電話は非常に高い。基地内で業務上東京などに問い合わせには軍用電話が一ヶ月十ドルで使用できるため好都合であった。
  阪急福岡営業所は国鉄の切符の販売は行っていない。三十年よりこの基地に日本交通公社が進出、同一事務所内で阪急と公社の社員が机を並べて同じカウンターで争って仕事をするようになった。公社も米国本土内の航空券の販売を行うようになった。来店する客が国鉄の切符を求めに来たか、あるは航空券が見分けが困難である。来店する客が国鉄の切符なら公社の社員にバトンタッチする。これは駅前旅館の客引き合戦と類似している。しかし同じ事務所内で同じカウンターを使用している呉越同舟のセースマン同士である。 
 基地派遣の交通公社の高卒の若い社員で、阪急では大学卒の五歳以上年上の社員であるが、旅行業者として阪急は国鉄の切符やホテル旅館の手配が出来ないため、基地案内所で勤務することは阪急社員としては次第に勤労意欲を失ってきた。交通公社の社員と話し合いして同じパイを争うことは意味がないため、航空顧客の場合は交代制で切符の販売を行うことにし、顧客が来店するとお互いすばやく対応することした。他社との競争と協調関係にあった。
 板付基地で興味があったのは米軍での下士官クラスの管理教育マニュアルであった。MTPと呼ばれるもので後に日本生産性本部などがセミナーなどで紹介された。
 案内所が設置された二十八年秋より安藤氏と私とが交互に基地内案内所へ出勤した。二十九年より私が専従となり三十年より後輩と私が交代で基地案内所に出勤した。三十三年に福岡営業所の次席の安藤氏が東京に転勤することになったため、私が福岡営業所の次席となり板付案内所は後輩の一力氏の常駐となった。
 昭和二十年十月より二十八年まで米軍働いたのは六年半である。阪急に入社し、米軍の福岡板付基地には、三十三年春まで出張勤務したが、九州地域での海外旅行業務では米国への渡航というのが可なりのウエイとを占めていた。
 阪急福岡営業所では、他の代理店と異なり特殊な仕事としては山口、福岡、熊本および鹿児島出身者で、戦前より米国へ永住された人が多く、太平洋戦争の勃発前後に帰国した人、米国で出生し帰国した日本人で二重国籍の人が、日本軍隊に入隊すると米国の市民権を喪失するわけであるこれには英語で書いた陳情書の作成が必要である。この手伝いをも行っていた。
 米軍の基地があるところは国際結婚も多く、北米への永住渡航申請にため領事館を訪れた人の船舶の予約や戸籍謄本の翻訳などで阪急を紹介されるケースも多かった。
  当時、一般の人の海外渡航は困難であり、安藤氏は九州大学出身であるため、九州大学の教授、助教授の海外渡航のセールス、私は西南学院大学関係のセールスを行った。
 二十七年十一月より、アルバイトをしての勤務であったが、日本航空の航空券の販売を行っているため、飛行機に搭乗して体験する必要があり、二十八年二月に日本航空の招待で北九州一週飛行に参加した。四月一日に二十八年度採用の学卒者の入社式があった。飛行機の搭乗して大阪へ出張した。
   阪急福岡で思い出となった業務旅行は昭和二十九年九月日本航空の福岡-那覇線が開設され、福岡の代理店が一社一名招待され、五日間の沖縄旅を行ったことである。当時沖縄は米国の軍政下にあり、旅券に代わるものとして身分証明書を外務省に申請して、公布されたものを持参した。 

 先輩の方々が招待飛行を遠慮したので新入社員の私が参加することとなった。三十三年夏には福岡から空路大阪へAPL汽船の一等船室で神戸から横浜へ旅行したことがあるが旅行会社はこのような体験ができる仕事であった。
 昭和三十年ごろ極東航空が設立され、阪急福岡は代理店であるため社員とは懇意にしていた。三十三年春に同航空会社の機長舟木和徳氏は米子航空機乗員養成所の区隊長でグライダーの教官であった。仕事との関連があったので、同氏と羽田でお茶をのんだことがあったが数ヶ月後、墜落事故で殉職された。この極東航空は日本ヘリコプターと合併し、全日本空輸となったころの事故であった。福岡から東京へ転勤するとき餞別として福岡から鹿児島、宮崎から福岡までの家族優待航空券を極東航空社員から頂いたことがある。
 

2007年8月15日 (水)

05 海外旅行情報分析研究

阪急福岡営業所には昭和二十七年十一月より勤務し、三十六年七月に東京へ転勤したので同じ営業所に八年九ヶ月勤務した。勤務地は福岡市でも繁華街の東中洲である。二十七年より三十年までは親和銀行の構内で、六坪程度の営業所で社員は四名、この営業所より百米は離れたところに福岡宝塚会館が建設され、この中に宝塚劇場、スカラ座など四館が入居していた。阪急電鉄は東宝映画とは関連会社であるため、阪急福岡営業所は、映画館の地下の事務所を借りていた。三十四年からは、営業所が東中洲で那珂川に面
したところに移転した。これも洋画の東宝劇場の構内を借りていた。映画を見る機会が多かった。
 二十八年秋より、米空軍、福岡板付輸送部隊内で阪急福岡案内所を開設、三十三年春まで約四年半、私と他の社員一名が交代でこの案内所に出勤していたが、次席の安藤氏が東京へ転勤したため、一力氏が板付出張所勤務、私が福岡営業所の専属となった。三十五年春に、板付基地内案内所を撤収し、一力氏は東京で転勤となった。
 二十七年十一月、福岡営業所長は越野し、二十八年四月より吉田氏、三十より池田氏、三十三年より太田垣氏がそれぞれ所長となった。阪急は関西の会社であるが、営業の中心は東京であるため、所長は東京より赴任、三年ぐらいで、東京へ帰るというのが従来の人事異動のパターンであった。福岡営業所の仕事は他の営業所を異なり、赴任してきた所長は大変苦労された。三十六年は所長が福岡に赴任して四年目であるが、私は入社して九年目である。私は係長に昇格する時期になっているので福岡営業所長となる公算が高かった。福岡営業所は慢性的な赤字の営業所であるので私が営業所長となっても、業績を挽回することができない。ここで考えたのは、同一企業内転職であった。
  会社の人事異動は営業所内の掲示板に公示されていたが、係長ポストが毎年空欄であったのは管理部門としての貨物業務係であった。このポストは数字を扱う仕事であるため、係長になる希望者は居ない。もし私が転勤希望すれば、このポストになる可能性は高い。管理職以外は電鉄の組合員で、地方営業所から入社した社員は大阪や東京へ転勤するときは、会社は業務用社宅を準備する必要があり、転勤先に必要な人でないと転勤は認められない。福岡からは後輩の一力氏が前年東京へ転勤したので、海外旅行部門で私が転勤できない。
  昭和三十三年に当時、業務課長の鷹峰弘文氏が福岡営業所を視察したことがあり、このとき、福岡でのマーケット分析について私のノートを見せたことがあった。鷹峯氏は私が英文科出身であるが統計学に興味をもっていることを知ってくれた。三十六年二月に本社総務部長にどこでもよいから転勤させてくれという手紙を書いた。福岡営業所では吉田所長以後は、東京から転勤してきた所長と地元出身の社員との間がうまくいっていないと会社側が判断していたため、転勤が承諾された。
  海外旅行の販売業務から航空貨物業務である。大学英文科出身は、海外旅行業務というのは語学が活かされる仕事であるが、航空貨物というのは貿易実務、通関などの仕事であり、九年前に入社し、貨物の仕事をしているものはベテラン社員であるが、ここに海外旅行部門から転勤した私は、給料は保証されているが、仕事は新入社員並みである。福岡に居住していたものは、東京に居住することは初めてである。
  昭和三十二年ごろより、経営学がクローズアップされてきた。当時、[オペレーシヨンズ・リサーチ]、日本語では,[企画と運用]という本が出版された。この本をみて、福岡で私が取扱っていた海外旅行業務を会社から帰ってから、家で分析、研究することにした。戦後、米国陸軍第三地区民間検閲局に四年勤務し、検閲業務で統計学を活用したことがあり、また、検閲局解散後就職したのは、福岡公共職業安定所の統計調査課であった。
仕事は潜在失業者の推定に六ヶ月従事した。統計学には興味をもっていた。同一企業内転職というのは、方向転換である。航空機乗員養成所というのは、航空機操縦士志願であるが、これが航空機整備に切り替わることは進路の転換である。検閲局で二年半、検閲業務では管理職の立場であったが、希望により和文英訳係となった。
  これも同一企業内転職である。昭和三十三年春から三十六年春までの三年間で研究した事項は次のようなものであった。  
区分  分類および項目
一  海外旅行現状分析 
       1 旅券発給で全国、福岡県、自社取扱目的別構成比
       2 渡航者種別代理店手数料の期待値      
       3 過去三年間における渡航者種別集客率
       4 福岡、山口、熊本県の米国渡航者数の推定      
       5 福岡県過去四年間の旅券目的別交付件数と永住、一時渡航旅券月別件数   
       6 海外旅行者の季節変動傾向の解析 
       7 旅客受付けから出発までの平均日数の計算とモデル   
二  福岡地区取扱分析   
       8 JTB、西鉄、日通、日航支店の取扱実績
       9 九州、山口地区の旅客獲得ルート模型図      
     10 外務省発給旅券種別(三十二年上半期)統計
     11 商用業務渡航の渡航先百分率統計
     12 日本銀行福岡支店で受理した円払申請件数の分析   
三  福岡営業所の業務分析 
     13 福岡営業所の労働投下時間、経費、収入分析
     14 海外渡航手続中の件数変動(三十三年五月より三十五年十月まで)   
     15 各県別出身者の来店数の推定   
四  市場調査 
     16 山口、福岡、熊本各県での過去および現在の集客争奪統計
     17 移民県(日本全国)の渡航者分析
     18 永住渡航の旅券交付件数と人数の割合   
     19 日本人の米国への渡航、交通機関別統計(三十二年)と九州山口県別推定
     20 月別代理店の日航売上高
     21 二十七年よりの一般旅券発給件数、全国と福岡県との対比         
五  情報理論 
     22 渡航連絡に必要な情報
六  オン・オフシズーン 
     23 月別一時渡航・永住渡航取扱件数と構成比分析
     24 九州・山口県別旅客数の推定図表と営業所の取扱実績   
七  営業政策 
     25 過去五年間の営業所取扱渡航者の分布図
     26 取扱渡航者の分布予想 A 積極策の採用 B 現状維持 C 消極策の採用   
八  渡航手順問題 
     27 永住渡航と一時渡航の場合   
九  管理方式 
     28 管理図、接待費管理、渡航紹介先への接待予算管理(収益との関連)
     29 接待費月別管理      30 機構再編成計画、板付基地事務所撤収計画   
一○  情報収集問題
     31 海外渡航紹介先、顧客情報収集先の検討   
一一  ヒューマン・リレーシヨン
     32 米軍管理者教育MTマニュアルの研究   
一二  当面の課題
     33 板付通信施設(米軍用電話)の効用分析
     34 収益測定のためのバロメータの選定   
一三  顧客サービス
     35 一時渡航者五十名の取扱分析
     36 永住渡航者五十名の取扱分析   
一四  研究レポート
     37 福岡における旅客市場の特殊性について (三十五年三月  七日)
     38 旅客の質とサービスについて      (三十五年三月十四日)
     39 交通業におけるマーケッチングについて (三十六年一月十三日)   
   西南学院大学「マーケッチング同好会」の学生には、39の「交通業におけるマーケッチングについて」をガリ版で刷り、テキストとして研究発表をした。
  このマーケッチング同好会を主宰されていたのは西南学院大学山中教授で私は同教授の世界一周旅行の手続を行った。このような関係でこの同好会に参加した。
 これより二十五年後に旅行専門週刊誌トラベルジャーナルで海外旅行自由化二十周年特別企画の編集の手伝をした。 この時、旅行関係の統計資料の解析が必要であり、この研究は役に立った。


06 海外旅行業務から貨物部へ転職

海外旅行業務から貨物へ転職

  阪急交通社という旅行会社に入り、海外旅行業務を九年間従事したものが、海外旅行業務から通関士が重要視される貨物業務への転勤というのは、代理店においては稀なケースである。これは仕事の上で海外へ行ける機会が多く、多くの人と国際的な交流が出来る旅行という職業から物を言はない貨物を相手とし、海外へゆける機会は少ないため、[貨物]から[旅行]部門への転職を希望する社員はいても、[旅行]から[貨物]部門へ転職するものは皆無であった。
 海外旅行部門から貨物部門に転職した私は通関士という資格は多くの貨物部の社員が取得していると考えられ、自分自身で独自のテーマを探す必要があった。そのテーマとしては①航空混載貨物理論、②航空と海上との輸送判定方法、③コンピユータ処理であった。
 三十六年七月に東京へ転勤、東京貨物課勤務となり、翌年三月、国際業務部が誕生、第三課貨物係長となった。課長と係長との二名のスタッフであった。三十八年一月に会社で事業部制が敷かれ、国際業務部は解体して、各事業部門の業務課となった。貨物部は業務課という課長を置かず、貨物部業務係という職制となった。貨物部長の補佐としての業務係長で、私の上には課長はいなく、また部下もいないという体制であった。色々な状況を判断して、管理部門には人員を投入することを上司には進言したことはない。上司の補佐業務であるため、上司が私に部下をもたすべきかどうか?判断すべき事項と考えていた。
  三十八年一月より四十二年二月までの四年間は上司は鷹峰弘文氏が貨物部長であった。色々な仕事を担当するようになったが、会社の電算機導入計画というプロジェクトを兼務した。電算機の導入が決定したとき私は総務部事務機械課長兼貨物部業務係長となった。翌年には総務部事務機械課長・貨物部企画課長兼務となった。

 航空貨物の研究が会社のコンピユータの導入により促進された。

 

2007年8月16日 (木)

07 会社での研究で大学の単位取得

 阪急交通社という旅行会社に入り、海外旅行業務を九年間従事したものが、海外旅行業務から通関士が重要視される貨物業務への転勤というのは、代理店においては稀なケースである。これは仕事の上で海外へ行ける機会が多く、多くの人と国際的な交流が出来る旅行という職業から物を言はない貨物を相手とし、海外へゆける機会は少ないため、[貨物]から[旅行]部門への転職を希望する社員はいても、[旅行]から[貨物]部門へ転職するものは皆無であった。
  海外旅行部門から貨物部門に転職した私は通関士という資格は多くの貨物部の社員が取得していると考えられ、自分自身で独自のテーマを探す必要があった。そのテーマとしては①航空混載貨物理論、②航空と海上との輸送判定方法、③コンピユータ処理であった。
 三十六年七月に東京へ転勤、東京貨物課勤務となり、翌年三月、国際業務部が誕生、第三課貨物係長となった。課長と係長との二名のスタッフであった。三十八年一月に会社で事業部制が敷かれ、国際業務部は解体して、各事業部門の業務課となった。貨物部は業務課という課長を置かず、貨物部業務係という職制となった。貨物部長の補佐としての業務係長で、私の上には課長はいなく、また部下もいないという体制であった。色々な状況を判断して、管理部門には人員を投入することを上司には進言したことはない。上司の補佐業務であるため、上司が私に部下をもたすべきかどうか?判断すべき事項と考えていた。
  三十八年一月より四十二年二月まで四年以上、私には部下が居なかったが、四十年より会社の電算機導入計画を手掛けていたため、四十二年四月に会社に電算機が設置されるとき、私は総務部事務機械課長に昇格した。このとき貨物部門としては、貨物に必要なスタッフとして総務部への転勤を断った。総務部との協議により、総務部事務機械課長・貨物部業務係長兼務となった。これは営業部門の係長が本社部門の課長を兼任するという異例の人事となった。
 この兼任というのは一人の課長の給料で二人の課長の仕事をするわけである。また上司が二人になるため、不都合なことが多にが、プラス面としては現在のパソコンの感覚と同じように、機械を自由に使用できる点である。
  翌年四十三年三月に貨物部業務係長というポストを廃止して、貨物部企画課が新設され私は総務部事務機械課長兼貨物部企画課長となった。コンピユータを使用して、大手荷主セールスに成功した顧客にソニー㈱があった。これは会社退職後、ソニー倉庫㈱の嘱託、ソニービジネスマシンの特約店、ソニーサービスの嘱託契約というのが阪急時代のセールスに関連していたことになる。航空と海上との貨物総流通経費分析のコンピユータ化は、航空顧客を確保するための手法で私自身が企画し、プログラムを組み、これを航空貨物の販売ツールとして広報活動を行った。
  昭和四十三年六月に国際航空貨物需要予測委員会が発足、運輸省航空局の推薦で三十名の中に選ばれた。航空貨物需要を左右するのは運賃負担力としてのキロ当たり商品価格であるという私の理論が評価された。この国際航空貨物需要予測委員会の設立は、新東京国際空港貨物施設の規模を測定するために、財団法人[航空振興財団]が、43年度事業として資金援助された。理事長は飯野猛夫氏で、終戦時の航空局長官であった。委員には経済企画庁二名、大蔵省一名、運輸省十三名、空港公団一名、三井物産一
名、三菱商事一名、ソニー㈱一名、阪急交通社一名、日本航空三名、航空貨物団体三名、海事産業研究所、日通総合研究所、日本航空工業ORセンター各々一名、および航空振興財団理事長の合計三十一名であった。この委員は航空輸送経済の専門家で構成されており、需要予測委員会の報告書は、三菱総合研究所が参百頁にわたって仕上げたものである。国際的な色々な航空需要の研究を紹介しているが、私の[航空と海上輸送での商品価格分岐点]の考え方の紹介が行われた。
  報告書は約二百頁で、かなりの部数が印刷され、関係官庁、航空会社、貨物取扱業者、荷主で配布された。業界で名前を知られるにはまたとない機会であった。翌年、会社をやめて独立したとき、ビジネスとなったのは、三菱銀行系列旅行会社、三井物産、ソニー、日通総合研究所、日本通運、運輸省であり、この委員会委員に選ばれたことは大変メリットがあった。
  四十三年八月に阪急電鉄から阪急交通社に出向している電鉄社員の出向の取り消しが四十四年三月に行われることが発表された。四十三年十月に米国の航空機メーカーマックドナルド・ダグラス社が、米国で就職しないかという招聘状を送ってきたので、これは一つの転機と考え、会社に依願退職の意思表示を行った。  阪急においては他の旅行業者、貨物業者より先んじてコンピユータを導入し、最初の二年間導入にレールを敷いたことは、私には有意義であった。
   昭和三十八年四月より青山学院大学経営学部、大学院の公開講座がり、これに出席した。統計学の[需要予測と需要分析]であった。航空と海上輸送を決定する要因と比重について、レポートを提出、8単位[優]を頂いた。教授は統計学の権威、森田優三教授であった。コンピユータを導入するのは、会社として、大きなプロジェクトになり、電鉄の各社は本社ではコンピユータをもっているが、旅行や貨物の子会社では数社であった。私が阪急を退職したのは一九六九年であるが、これより三十一年後に一冊の本が贈られてきた。[阪急交通社創立三十年史]であった。この中に事務機械化実行小委員長、貨物部業務係長、総務部事務機械課および貨物部企画課という職務を担当していたことが客観的に証明できる資料であった。
 
㈱阪急交通社は平成二年(一九九○年)に創立三十年を迎えたので、創立三十年史が編纂された。会社で社史を編集するときOA化の取組はいつから行われたかの記述の中、私の名前がでた。この社史に[第1節  OA(オフイスオートメーシヨン)]に下記の記述があった。
今や社会全般にわたってコンピユータの支配下にあるといえる状況となり、わが社でも、つとに鷹峰弘文取締役と坂本清助課長のプロジェクト・チームにより研究され、その重要度が確認され、コンピユータ化に真剣に取り組むこととなった。

四十一年六月   一日   まず貨物業務(主に経理業務)の合理化に始まった。輸出入貨物の取扱増に伴い、各営業部門での収入や未収の自己管理を徹底するためには、日々発生するデータをEDP化して完全を計らねばならない。

四十一年六月 一日 [事務機械化委員会]委員長・常務取締役山辺 正)設置
四十一年十月    一日 [事務機械化委員会]内に[事務機械化実行小委員会]    (委員長・貨物部業務係長 坂本清助)設置
四十二年三月二十日  阪急交通社東京ビルにFACOM230ー10コンピユータを設置して、貨物業務OA化開始(JFCと共同利用)
四十二年四月 一日  総務部事務機械課を設け、上記の業務処理を始めた。
JFCも同じ機械を使用して、運賃の精算のためのビリング方式の請求書を作成した。
四十三年三月  五日  貨物部に企画課を設置した。
四十三年十二月九日 [事務機械化委員会]の設置目的変更(事務機械化による業務改善合理化の進展から各部業務の事務機械化推進、機械化対象業務の選定
調整
)
    
    十二月九日 [事務機械化実行小委員会]廃止
          B [海外旅行部実行小委員会]委員長海外旅行部長益田章雄

          [外人旅行部実行小委員会]委員長藤倉義正に改組四十四年     四月一日  海外旅客未収入金関係をOA化
四十五年   五月十日  社長室設置]                  以上

   

08 独自の研究を海外へ売込

 航空貨物のセールスマン、開発企画担当にとって、輸出商品ではキロ当たりの価格が高い商品を製造、販売している企業に関心をもっていた。時計では服部時計店(SEIKO)、カメラではキャノン、テレビではソニー、コンピユータでは富士通や日本IBMなどである。私は㈱阪急交通社においては貨物部企画課長で会社を退職する時点でソニー㈱輸出担当部門に数回航空輸送と海上輸送の総流通経費分析で講義をしたことがあり、また退職後、フライング・タイガー航空会社の社員として、同航空会社からの紹介により、ソニー倉庫㈱航空チームの嘱託となった。
 昭和四十六年二月、ソニー倉庫㈱社長よりソニーで四月より発売するマイクロ・コンピユータSOBAX ICC-2700を物的流通部門で使用するには、どのようなソフトが必要か?と指示されたので研究することにした。フライング・タイガー航空会社が第九回国際見本市(於東京、晴海)に出品、マイクロ・コンピユータを使用して、[航空と海上輸送方法判定]でデモを行い、また六月には、海外の航空会社の貨物担当者が集まった研究会で機械を使用したデモをおこなった。
 阪急交通社を依願退職したのは昭和四十四年四月末で五月一日に坂本システム研究所を設立した。近年、SOHOという言葉がある。Small Office Home Officeの略で私は賃貸マンシヨン3LDKを借りて住居とし、一室六畳の間に机をおいて事務所とした。従業員なし車両なしである。この事務所を訪れる取引客はきわめて稀である。坂本システム研究所という商号で、英語ではSAKAMOTO&ASSOCIATES(ESPS)とした。
   
私は米国航空機メーカーマック・ドナルドダグラスに就職するために入国査証待ちであった。米国の貨物専門航空会社フライング・タイガーはダグラスDC8-63F貨物専用ジェット機23機を保有していた。就職先の会社の上得意であった。太平洋の航空路線の新規割当は長年にわたりに日米間で紛争していた問題は、パシッフックケースと呼ばれていたがこれが決着した。太平洋線には日本航空、パンアメリカン航空、ノースウエスト航空が貨物輸送争奪戦を展開していたが、これに世界最大の貨物専門航空会社フライング・タイガーが貨物専用ジェット機DC8-63Fを、週六便乗入れ開始することになった。
  同社の極東支配人兼副社長のジョージ・ゼトラー氏がアジア側の責任者として就任した。阪急在職中、同社の航空貨物市場調査には、代理店として協力していた。同航空会社東京支店の西山支配人は私を同副社長に紹介した。日本における各航空貨物代理店の取扱数量は業界紙で発表されているが、このような資料のレポートを数回引き受け、請求書を提出、その都度、報酬を受けていたが、これには米国本社へ承認伺いを必要としたため、面倒であるとして、給料としていて一定額を支払うことを提案された。
  航空会社のプロフェシヨナル・エンプロイメント契約である。米国の航空会社の社員であるが、会社には出勤しなくともよい。給料は一般セールスマン並みで夏、冬の手当もあり、海外への業務出張が多い仕事であった。貨物専門会社であるため、私の海外出張には貨物専用機での搭乗となり、興味ある飛行の体験を行った。阪急を退職して四十六年末までの三十二ヶ月で海外への業務出張は次の通りであった。
  1)  44年  7月 香港・マカオ 4日間、日本海外旅行株式会社の招待(貨物研究指導の返礼)
  2)  44年10月 香港・台湾、4日間、販売管理の打ち合わせ
  3) 44年12月 米国、ロスアンゼルス、8日間、本社関連部門への紹介
  4) 45年 2月 台湾 3日間、電気製品輸送の流通経費分析の打ち合わせ
  5) 45年 4月 米国、8日間、 ロサンゼルス&シカゴ 流通経費分析提案作業
  6) 45年12月 韓国、3日間、航空貨物市場調査
  7) 45年12月 香港、3日間、航空貨物市場調査
  8) 46年 3月 台湾、フイリッピン、4日間、航空貨物市場調査
  9) 46年 9月 台湾、5日間、電気製品輸送の流通経費分析の打ち合わせ
10) 46年 11月 米国、ロサンゼルス&フィラデルフィア、七日間、流通経費分析作業、提案。

  阪急を退職して二年間の出張記録であるが、同航空会社が軌道にのり、本社よりマーケッチング部長が就任してきたので私の出番が少なくなってきた。
 47年の春、北米シアトルにある航空機メーカー・ボーイングより太平洋線潜在航空貨物需要調査でコンサルタント契約の申し出があった。私が開発した[航空と海上との貨物輸送総流通経費分析システム]を評価されての提案であった。私がコンサルタント契約をした中では最もビッグ企業であった。
 
48年3月、フライングタイガーの極東総支配人兼副社長が米国へ帰国するとき、同社の社員であったが副社長付きの専門職社員の性格を帯びていたため契約解除となった。
  航空会社の代理店は、研究した事項で自営業として独立、航空貨物業界でビジネスを展開することが出来たが、独立して5年目に、
新たなビジネスを行うことになった。

次は 09 ソニーのマイクロコンピユータプログラム作成指定店

09 ソニーマイクロコンピユータプログラム作成指定店

   昭和48年4月1日、ソニーは新聞紙上で電卓製造の打ち切りを発表した。マイクロ・コンピユータも電卓と同じ生産ラインであったため製造の打切、これは機械を販売していた特約店にとっては「寝耳に水」の出来事であった。
 45年7月よりソニー倉庫㈱航空チームの嘱託をしており、46年7月よりソニービジネスマシン㈱のマイクロ・コンピユータ SOBAX ICC-2700機種の販売特約店となり、プログラムを開発しながら機械を販売していた。航空貨物会社や輸出入業者が主な得意先であった。日本通運㈱、日本航空㈱、三井物産㈱等に機械を納入販売していた零細企業であった。
 ソニーは電卓よりVTRに生産ラインの切り替えを行った。VTRという映像
ビジネスは、私には向かない業務であるため、ソニーに対して
①ソニーの
在庫がなくなるまでマイクロ・コンピユータの販売を続
行、
②ソニーのロールペーパーや磁気カードなどの消耗品販売を継続、
③ソニーマイクロ・コンピ
ユータのプログラム作成を行いたいという意志表示をした。
 従来、各特約店はソニーが開発したプロ
グラムで機械を販売しており、ユーザーよりのソフト開発依頼は新規開発になる。どのようなソフトがどれだけ発生するか?不明である。他に類似の提案者はいないと判断した。
 マイクロ・コンピユータは見込みがないとメーカーが判断した業務で、同業者が販売した機械のアフターサービスを行うということは、殆どの会社の意思決定では[ノー]である。しかしながら、一社一名のSOHO事業者においては、これはあるチャンスと
考えた。

 ソニーシステムセールズ㈱において、私は[ソニーマイクロ・コンピユータ・プログラム作成指定店取扱]となり、販売関連部門にはその旨、通知されたようである。顧客からソニープログラムの注文があると、料金を取れないものは、本社で処理し、料金をとれるものは私に回された。官庁などソニーのセースルマンが製品の納入においては、私が機械を仕入れて先方に納入するようになった。官庁への取引は,[株式会社]が前提であるが、ソニーの指定業者として、個人の資格で取引が出来るようになった。
   
ソニーのマイクロ・コンピユータの発売は昭和四十六年四月である。コンピユータの耐用年数は五年であるが、四年後の昭和五十年から最初に購入した顧客の買替需要が発生すると想定した。
 
ソニーより紹介され、プログラムを開発、納入したところは次の通りである。                     
[統計] ①国立栄養研究所、②東北大学医学部、
③神戸女子薬科大学、④吉田工業、⑤野村證券、
⑥山一證券投資信託、⑦太平住宅
[経営]①ニチイ(出店)、②日本ランデ゙ック(リース)、
③パーソナルリース(利息)

[業務]①帝都高速度交通営団(減価償却)、
②徳山機械(技術計算)、③大東工業
(保険計算)、
④トヨタカローラー和歌山(給与計算)

[計測器との接続]①日本予防医学協会(検定)、
②運輸省(航空機騒音証明)
上記の航空機騒音証明とは、日本から外国で輸出する航空機には騒音証明を発行することが各国政府間で構成された国際民間航空機構ICAOで採用された。航空機騒音を測定する方程式により各国が航空機騒音を測定することになった。これを実施するには、「航空法」を改定する必要があるが、その前提となるのが処理プログラムである。
 専門メーカーが騒音の測定器を運輸省交通公害研究所に納入し、プログラムをソニー本社に依頼していたが、私がソフト開発を担当することとなった。この仕事は業者が、運輸省へ見積を提出、その中で価格の安いものに落札するのではなく、指名入札である。これは予算として○○金額しかないということで入札価格が提示された。運輸省に納入したマイクロ・コンピユータは、周辺装置を含めて百万円程度の機種で、同じ機種を持ってないとソフト開発ができない。また、プログラムが全部、英語で書かれており、技術計算のため、きわめて難しい。運輸省に見積書を提出するとき、経歴書の提出となるが、私の経歴の中に米国の航空機メーカーボーイングの仕事、米国の貨物専門航空会社フライング・タイガーの社員経験。これに運輸省航空局の関連では航空機乗員養成所本科整備学科の卒業、これにソニーの推薦であるため、開発できないからといって、途中で仕事を放り投げることはしないと判断された。運輸省の担当官はこの仕事は将来、大変な業績となるため、がんばるように激励された。
 四十八年四月にソニーの電卓の製造打ち切りが発表され、三年後の五十一年五月にソニーサービス㈱の嘱託となり、毎週一回、この会社に出勤し、ソニーの電卓、マイクロ・コンピユータの修理部門で顧客から相談があれば対応する仕事となった。顧客から相談でその会社に出向くときは、交通費と時間当たり千二百円、三時間を限度として支払われることになった。このようなことで阪急を退社しての七年間はなんとか乗り切ることができた。
  顧客から何か良い機種を紹介してくれ頼まれるケースが当然発生する。ここでどこかのコンピユータの販売店になるという計画を立てた。
 

次は 10 航空機材パレット積付早見表開発

10 航空機材パレット積付早見表開発

   ㈱阪急交通社貨物部在職中の研究は①航空混載
貨物差益配分方法、②国際利用航空事業者の運賃
設定(公共料金)、③航空と海上との輸送要因分析、
④航空と海上との総流通経費分析であった。
   フライング・タイガー貨物専門航空会社に籍を置く
ようになって注目したのは、貨物のセールスマンが
チャートにより、大口貨物のパレット積付計画を行なっ
ていたことである。
 ソニービジネスマシン㈱の特約店となり、日本通運㈱
の次に、セールスに出向いた会社は三井物産㈱で本店
業務部営業統括室の協力を得てマイクロ・コンピユータ
がどの分野の計算に利用できるかのデモに航空機パレ
ット積付のシミュレーシヨンズをとりあげた。
  航空機材としてのパレットは、ジュラルイン製で、幅が
一二五吋、奥行が八六吋でこれに特定サイズ一種類の
カートンを積付けると何個搭載できるか?航空機の胴体
は蒲鉾型であるためそのサイズに合わせて、機械が自
動的に計算するシステムである。
  四十七年より日本航空㈱東京支店貨物部貨物予約課
にソニー機種と積付ソフトを提供しており、システムは
すでに稼動していた。ソニーのマイクロ・コンピユータの
在庫がなくなり販売する機械なくなったとき、発想を変え
て、マイクロ・コンピユータを使用しな
いパレット積付早見表という数表の活用を考えた。
   航空貨物の梱包材料としてカートンのサイズを、高さが
八吋から二四吋まで、幅が八吋から三六吋まで、奥行が
八吋から四八吋までを一吋ずつ変化させて、組み合わ
せると八四一五種類のカートンモジュールが出来る。 
 昭和四十九年五月から、マイクロ・コンピユータを
二台使用し、約二ヶ月かかつて計算させた。数表は
転記ミスがないように、マイクロ・コンピユータで
アルミ箔のロール・ぺーパーに印字させ、これを所定
の台紙に貼付、早見表の原稿を作製した。印刷業者に
依頼して写植により三百冊を印刷した。印刷代は百万
円であった。
 新東京国際空港で貨物施設が建設されてゆくにつれ
て、羽田空港内の国際線航空会社、貨物取扱業者が新
東京空港へ移転するが、空港内施設の警備の問題があ
り、「飛び込みセールス」が、困難になると予想した。
これは航空貨物システム開発・販売から撤退せざるを
得なくなり、最後の仕事として早見表の作成を行うこ
とにした。
 航空貨物の販売方法の研究は、海上で輸送されている
貨物を航空に切替えさせる研究あるため、航空産業全般
としては関心がある。阪急在職時代、コンピユータの問題、
航空と海上との輸送問題では、執筆を依頼されることもあ
った。
 パレット積付早見表の開発を業界紙に伝えると、英文業
界紙、和文業界紙はその内容を詳細に報道してくれた。
早見表はA五版で、約四百五十頁の英文である。価格は
一冊一万円である。 戸別訪問セールスであるが、業界紙
を通じて、内容の説明を行っていたので割合スムースに
販売ができた。早見表を購入された会社は次の通りある。

[航空会社]
  エアフランス、エアインド、英国航空、カナダ太平洋、
カーゴルックス、カンタス、キャセパシフィック、フライング・
タイガー、ナシヨナル航空、ノースウエスト、マレーシア航空、
パンアメリカン、シーボード航空、TMA、ワールド航空、
エアーアソシエイト台湾ノースウエスト総代理店、日本航空
と全日空の十八社

[航空貨物取扱業者及びに 荷主]
日本通運、近鉄、交通公社、商船、三井、山下、新日本、
川崎、大和、阪神、南海、名鉄、東急、ダイヤモンド、日本
エメリー、東洋シャルマン、丸善、ノボ、ニュージャパン、
東京エアーサービス、¥マグレガースワイヤー、UAC、TAC、
JAC,AGS,TACT,伊藤忠商事、三菱重工業、ソニー倉庫
およびキャノンであった。
   この早速表の販売で港区田町のキャノン株式会社輸出
部門を訪れた。担当者は即座に一冊購入された。担当者は
私に「あなたはコンピユータが専門だから、キャノンのパーソナル・
コンピユータを販売しないか」と、パソコン販売部門を紹介
された。
  早見表の販売は百十五冊目がキャノン販売であった。私は
キャノンのパソコンを早速一台購入して、プログラム作成の
研究を行った。昭和五十年七月にキャノン販売㈱のパソコン
販売店契約を締結した。
  百十五冊の販売で印刷業者に注文した印刷代百万円は
回収できたが、その後の早見表の販売は中止し、百八十五
冊は数冊を残して破棄処分にした。私は機械販売の方が
本命の仕事である。
  ソニー電卓、マイクロ・コンピユータの修理部門である
ソニーサービス㈱にはソニーのマイクロ・コンピユータのアフ
ターサービスの嘱託として週一回出勤しており、顧客から
パソコンの購入を相談されるときは、キャノン機種を紹介する
ことになった。
  キャノンのパソコンの販売店となったのは昭和五十年で
最後の機種を販売したのは平成二年であるため、十五年に
わたりキャノン機種の販売を行ったことになる。平成二年は
マイクロソフト社のWINDOWS95が発売される6年前であり、
SOHO業としてプログラム開発しながら、パソコンを販売して
いた時代であった。

次は 11 貨物輸送から宿泊業へ転進

 

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー